とにかく迎合する前に批判せよが、簡にして要を得た回答となる。

公房「そこで国家は、かつて辺境の「異端」と闘い、国境線を守り抜いたように、こんどは内なる辺境(移動社会)の「異端」にむかって、正統擁護の闘いを開始しなければならなくなった。非国民…排外主義者…秩序破壊者…外国の手先…アカ…全学連…等々。運よくそこに、生来の都市生活者であるユダヤ系市民でもいてくれれば、むろんさっそく、国益を無視する危険なユダ公ども…」

サイード「集団が信奉する公式見解をくりかえすだけなら、なんとたやすいことだろう」

散人「今の世を見るに、世人は飲食物を初めとして学術文芸に至るまで、各人個有の趣味と見解とを持っていることを認めない。十人十色の諺のあることは知っているらしいが、各自の趣味と見識とはその場合場合に臨んでは、忍んでこれを棄てべきものと思っているらしい」

夷斎「それにしても、ああ、益々御風流……いよいよ、きちがいじみて来た」

K「われわれの救いは死である。しかし〈この〉死ではない」

公房「絶望するのはまだ早い。都市の広場が暗ければ、国境の闇はさらに深いはずなのだ。越境者に必要なのは何も光ばかりとは限るまい」

アレント「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること…」

サイード「たとえほんとうに移民でなくとも、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる」

ブルトン「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ」

サイード「おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである」

苦沙弥「個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから」

安吾「だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである」

詩人「人のいやがるものこそ、僕の好物。とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ」

ツァラ「自由、自由。ぼくは菜食主義者ではないから、レシピを提供することはできない」

ママ「すべて楽しいことは、お腹にいいのですよ!」

南直哉「なぜこんなに生きにくいのか」

生きにくいので読んでみた。
「問いに答えはない」ことを繰り返すだけの本なので、やたらメソッドの押し売りをしたがる自己啓発本なんかとは違って好感が持てる。

ただまぁ、当たり前のことが当たり前に書いてあるだけで、触発されるものも特になかった。
ブッダの言葉は少し読んでみたくなったが。

アンリ・アルヴォン「アナーキズム」

アナーキズムについての本を読もうと思ったが、意外なほど数が少ない。
どの新書にも一冊ぐらい概略書が入ってそうなもんだが、ちくま新書に入ってるだけ。
アルヴォンのこの本も定番らしいが35年も前のもの。いちおう10年前ぐらいまで重版されてたようだ。


この本を読むと、アナーキズムの概略書が少ない理由もなんとなく解る。
アナーキズムはフランス革命で樹立された自由主義へのアンチテーゼとして登場し、社会主義や共産主義と距離をとったり強調したりしつつ吸収されていく。

すごく雑な見方だが、常に別の大衆運動との関係性によって成立していたのがアナーキズム、と読めなくもない。
こうなると専門書はともかく、うまく新書一冊にわかりやすくまとめるのは難しそう。

本書も、扱われるのはほぼ19世紀に限られるし、クロポトキンについては思いっきり割愛されて何も語られていない。コンパクトにまとまってるので、読みやすいのは◎。不足を感じないのは勉強不足のせいさ。

『白頭吟』作中のバクーニン全集の役割が一層解りやすくなったのは嬉しい。
ただそう考えると、現代までの(日本を含めた)アナーキズム通史を読みたい欲も出てくる。

渡邊博士「Land: 人口の地」

映画や音楽ソフト、特にデジタル媒体なら、もうパッケージメディアで鑑賞することへの拘りはほとんど無くなった。
ただ本に関しては別で、絶対に紙にインクで印刷された本じゃないと嫌だ。
確かにスマホのkindleにも漱石全集と荷風全集が入ってはいるが、お守りとか精神安定剤みたいなもので、読みたいときは本棚から重たい全集を取り出す。

ただ困ったことに、kindleでしか読めない魅力的な本(こう呼ぶことにも抵抗がある)も少しはあることも確かだ。
特に画集や写真集なんかは、よほど著名な作家じゃないと出版するにしても部数が見込めないし、そのせいで余計に価格が上がることもあるはず。

その点kindleならば、作者が作品制作からDTPまで全部手がけてしまえばいいわけで、作品を世に問う機会が増えたことは長所として認めざるを得ないと思う。(自分もやってみたかったりする)

前置きはどうでもいい。初めてkindleでしか流通していない作品集を買った。

渡邊博士さんというカメラマンの写真集『Land: 人工の地』


Amazonから紹介文を引用する。

東京湾に隣接する広大な埋立地の変貌する風景を心象写真として撮影した写真集。
放置された無人の地が無機質な風景に移り変わっていくが生活感のない光景は開発前と変わることがない。

表紙の小さなサムネイルを見ても、ツボど真ん中なのは間違い無いので即購入。

『迥眺風景』もそうだったが、自分に近い感性を持った表現者を見つけたことへの興奮が先に立ってしまって、作品を言葉で説明するのが難しい。
作品としてもちろん素晴らしいし、出会えたことが嬉しいが、やりたいことを先にやられてしまったことへの羨望もある。

既視感があるのは、作品としてありきたりだから、というのではもちろん無く、自分も確かにこんな風景を”体験”し、”思い描いた”からだ。実際に見たかどうかは問題じゃない。
それは想像でも幻視でも構わない。もっと深い部分での”共鳴”だ。

冷静に語るのは無理。
ただやっぱりkindle版だけでは惜しいので、一冊の本として出版してほしい。作者の写真集には他にも面白そうなものがたくさんある。ちょっとずつ揃えたいが、本棚に並べていく悦びが無いのは淋しいなー。

とにかく写真展があれば絶対観に行こう。

ありがとう、中島春雄さん

こんなに信じたくない訃報は無い。


中島さんは正真正銘、世界一の大スター。
顔が出るとか出ないとか、そんなことは関係ない。大スター中の大スター。

三十郎も座頭市も、映画を観終われば真似したくなる名キャラクターには違いない。でもゴジラやガイラ、バラゴンには全く敵わない。

自分にとって、中島春雄さんはオールタイム日本映画男優ランキング、永遠の一位。


天国にはオヤジさんをはじめ、シャシンが心の底から大好きな活動屋さんがたくさんいます。
また一緒に映画作りを楽しんで下さい。自分も観る日が今から楽しみです。

本当に本当にありがとうございました。
さようなら。

鈴木清順「ツィゴイネルワイゼン」@シネマブルースタジオ

無理して土日に時間作らないとこれからしばらく映画館に行けそうにない。
そんな状況なのに再見の作品を観に行くのはどうなの。しょうがないの。好きなんだから。


そういえば昼間にシネマブルースタジオ(東京芸術センター)へ来たのは初めてだった。でかい建物だった。


館外にもポスター貼ってあったんだ。知らなんだ。写真ヘタ。


昔観た印象と違って、意外と画面の色彩は暗めだった。『陽炎座』とごっちゃになってる部分もあったのか。

得体の知れない不安感と薄気味悪さがどんどん濃くなっていく後半が凄い。
死んで画面に映らなくなってから存在感を増す原田芳雄!

悪い意味じゃなく、〈怪談然とした怪談〉になっていくのが好き。
屋根に石が降ってきたり、中砂の家がいかにもお化け屋敷になってたり、小稲が夜毎玄関先に訪ねてきたり…。
ほとんど様式美。プログラムピクチャー監督の本領発揮か。

食事を「生(性)」のメタファーだと思って観ていると、食事のシーン自体が減っていき、代わってこんにゃくや腐りかけの桃が死体を連想させるものとして登場する。巧い。
死体なんて冒頭の土左衛門ぐらいしか出てこないのに、全編には絶えず妙な実感を伴った死臭が漂う。
幻想的と形容しておしまいにはしたくない、もっと土着的な怖さがある。

結局ワケが解らないまま突き放されるように終わるが、それがまた快感。
引き込まれないほうが無理。

それにしてもビンパチさんはダンディだ。本職の俳優じゃないのに原田芳雄と並んでも格好良く見えるんだから凄い。芳雄さんはかわいいんだけど。

ウルトラセブンねぶた

青森のウルトラセブンねぶた。

Twitterより。
灯りが綺麗。メトロン星人、キングジョーあたりも似合いそう。

子供たちと握手するセブンが微笑ましい。50年前にたった1年間放送されただけのキャラクターなのに。
本当に、考えれば考えるほど凄いことだ。

成田亨先生はじめ、作品に関わったすべての人に感謝を。

無理してでも行くべきだったなぁ。

セルゲイ・パラジャーノフ「ざくろの色」@早稲田松竹

久々直球「なんだこれは」。


アルメニアの有名な吟遊詩人の生涯、という大筋はあるらしい。
ただ悲しいかな不勉強で知識が全く無いので、なにがなにやら。

東欧文化でフェリーニをやって、ゴダール流に編集した。
貧弱すぎて嫌になるが、自分の語彙ではこう形容するのが精一杯。

観賞中は、80年代後半の佐々木昭一郎がダメにならずに唖になってアルメニアを放浪しながら撮ったような作品みたいな印象を受けた。
彼が初期の作風(感性か)を保持したまま、海外で、予算的制約の少ない環境で作品を制作していたら、案外こんな作品になったかも。

装飾写本なんかも出てくるものの、画面は絵画的というよりポップな感じ。
そこに人物の奇妙な能のような動き(ちゃんとした舞踊なのかもしれない)が合わさると、ところどころ80年代センスのCMのような安っぽさも醸し出される。

71年の作品なのに80年代っぽい印象を受けたのは、おそらくVTRのような画質のせい。
ただ、制作から公開までの紆余曲折を考慮すると、作家の本意ではなかったかもしれない。
だから画質云々に拘るといろいろ見誤りそうだが、初見の印象は拭えない。


クスリ(ケミカル系じゃない)を盛られたような映像のコラージュが、突然字幕で分断されて場面転換するそのリズムは『気狂いピエロ』。でも字幕の質感は『死霊の盆踊り』。

冒頭、たくさんの本を乾かすシーンがすごく綺麗。
10年ぐらい経って、また違った精神状態のときに観てみたい。
なんだこれは。