ロベール・ブレッソン「スリ」「ラルジャン」@早稲田松竹

今年最初の早稲田松竹。ロベール・ブレッソン特集。
特に興味があった監督というわけでもないのだが、ちょっと時間があったので観てみた。

1本目は「スリ」

ものすごくストイックだが、それでいて攻撃的な映画だと思った。緊張感が凄い。
ただスリの手口の芸術性がテーマの一つらしいのだが、そのスリの場面がちょっとぎこちなくて、スマートさに欠ける気がする。なんでこれでバレないんだろうと思うところも多い。
主演のマルタン・ラサールが木村功にしか見えない。マリカ・グリーンは可愛すぎる。

もう1本の「ラルジャン」は正直いってよくわからなかった。
装飾ゼロのタイトルバックがカッコイイが、結局そこが個人的にはピーク。1時間半ぐらいだからいいけど結構眠かった。冒頭に出てくる少年のつながり眉毛がキモイ。

アーサー・C・クラーク「都市と星」

アーサー・C・クラーク「都市と星」読了。
まずタイトルにやられる。「幼年期の終り」は大好きだがそれ以外のクラーク作品を読むのは初めてだったりする。

もう60年前の作品なのに、ダイアスパーを構築しているシステムの描写とか今読んでもズレてないのが凄い。だいたいSFを評価するときに「現在の視点から見ても古くない」ってのは常套句だしつまんないから使いたくないが、とりあえずまずはそれが浮かぶ。

それ以上にグッとくるのは人類の描写。ヤな過去から目を逸らしたいがゆえに一つの都市に閉じこもったり、史実そのものを改竄したり。物語は壮大だが動機付けの部分は生々しくて人間的。
何十億年経っても人間なんてそんなもんだよね。

最後に主人公アルヴィンについての素晴らしい一文。やっぱり思春期に読むべきだったな。

ユニーク。それは異様にも悲しい言葉であり、自分がユニークであるということは異様にも悲しいことだった。それが自分のことだといわれた時には、この言葉は自分の幸福を脅かすだけではすまないような、不吉な感じを秘めているように思われたものだった。

平川克美「小商いのすすめ」

「経済成長という病」からの流れで、出たばかりの「小商いのすすめ」を読んだ。

平川さん自身も言ってるように、途中までやや散漫な感がなきにしもあらず。
ただ最後の第5章はなんというか爽快。
要略するのは下手だから一部引用。

とにかく、誰かが最初に贈与的な行為をすることでしか共同体は起動していかない。
合理主義的には損な役回りといいましたが、ほんとうはそうとばかりはいえないだろうとわたしは思っています。
なぜなら、責任がないことに責任を持つときに、はじめて「いま・ここ」に生きていることの意味が生まれてくるからです。
自分が「いま・ここ」にいるという偶然を、必然に変えることができる。
責任がないことに、責任を持つとは、言葉を換えればリターンを期待しない贈与ということです。
では、リターンを期待しない贈与ができるのは誰なのか。
それは「親」であるおとなだけです。
いや、正確に言えば、リターンを期待しない贈与をすることで、おとなになるのです。

こういうの読むと本当に日本人は切羽詰まってるんだなあって思う。
大事なのは「責任を持つ」ことや、「大人になる」ことといういわば至極当たり前なこと。当たり前だから難しいって逃げることもできるけど、それにしても現状は酷すぎる、自戒の意味も込めて。

「街場のメディア論」で内田樹さんも同様なことを書いてたと思う。あっちは〈贈与に気付く能力〉だったか。
どちらにしても損得勘定だけの人はこれから生きていけないよ、と。
同時にこの2冊が素敵なのは、そういう人間の本質的な部分に気づける人は、いくら生きづらい時代でもそれなりに楽しめるんじゃないの、と言ってくれてることだ。8割ぐらい諦観まじりだとしても。

小林信彦「おかしな男 渥美清」

小林信彦の名著「日本の喜劇人」を初めて知ったのは、「All About NIAGARA」だったか「レココレ」だったか、大瀧さんの文章で。
しばらくして大学の図書館で手に取って、ちょこっと気になるところだけ拾い読みした。
その後「男はつらいよ」にハマってから俄然興味がわいてきたのが「おかしな男 渥美清」

著者も渥美さんもお互いに若い頃のエピソードは、当時の芸能界内での〈政治〉が垣間見られて面白い、というか生々しい。著者の記憶力は驚異的で、いくらメモが残してあっても、普通は30年以上前のことをこんな明瞭な筆致で描けないだろう。

植木さんと渥美さんの関係もカッコイイのだが、なんといっても森繁久彌が人気上昇中の渥美清に送った言葉が強烈。

一切くだらぬ骨折り損はよせ。ウエンな道には自由がない。良い声も悪い声も共に聞くな。己れを大事にして、アッという間に過ぎる、お前さんの”時”を充分に満喫してくれ。
その暁には、何の後悔もないからだ。例え敗惨の姿と、世間が笑おうが。

同時に渥美さんがアパートで著者に語った言葉が反響する。

「狂気のない奴は駄目だ」
「それと孤立だな。孤立してるのはつらいから、つい徒党や政治に走る。孤立してるのが大事なんだよ」

芸人に限らずなにかを創造する人間はどこかで孤独でなければいけないと思う。狂っていないとダメだと思う。
だから友達になりたいような人間や父親になって欲しいような人間が真に芸人であるはずがないのだ。
岸田今日子さんも「毒にも薬にもならないような人が役者になれるわけがない」と語っていた。

後半は著者と渥美さんの接触も減っていくため、前半のような生々しさや熱気はない。
晩年の章は知人や関係者の証言を基に構成されているが、読んでいて辛い。末期の「男はつらいよ」をなかなか観る気になれないのは、この章をあの日大学の図書館で読んでしまったからでもある。
たんにマンネリ化した凡作なら観ることもできるが、痛々しい病人の演技を観るのも辛そうだなと思って、どうも気が進まない。

平川克美「経済成長という病 退化に生きる、我ら」

で、その「宇宙誌」のあとがきとシンクロしていたのが平川克美「経済成長という病 退化に生きる、我ら」の述べるところである。

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本書のタイトル「経済成長という病」は、そのまま「右肩上がりの幻想」を想起させる。ここで平川氏が述べていることも、経済にしても文明にしても常にプラス成長するものだという幻想を捨てよう、というものだと思う。

何故、私たちは経済成長という神話から自由になれないのだろうか。
その理由はいくつか考えられるだろうが、世界中の国家は、一時的な移行的混乱はあるにせよ、文明化、都市化、民主主義化といった歴史を辿っており、いまだ明確な衰退局面といったものを経験していないということがあるだろうと思う。(略)
ほんとうは、イメージできないということと、それが私たちの上に到来しないかどうかということとはまったく関係がないにもかかわらず、私たちはその未知の可能性を勘定に入れて思考することができない。

単に自分が勉強不足なだけで特に目新しい主張ではないのかもしれない。それでも個人的にはとても考えさせられた。人は思考するとき、想像以上に不自由である。既知の事象や過去の経験と言ったしがらみから逃れることはとても難しい。言ってしまえば想像力の問題なのだろうが、その単純な欠陥が未来を見誤らせる。〈イメージできないということと、それが私たちの上に到来しないかどうかということとはまったく関係がない〉ことは、去年の震災で身にしみて体験した。

日本経済の成長期は終り、衰退期に入りつつあるのだろう。目を逸らさずにその現実を直視すれば、その行く末は悪いことばかりでもないと思う。平川氏の言葉を引用すれば〈適正回帰〉だろうか。
ただ、その〈現実を直視する〉というシンプルな行為の困難さが、生物学的な原因にまで根差しているのかもしれないと思うと、ちょっと気が重くなるのだった。

松井孝典「宇宙誌」

帯にある通り、〈人間の知の体系を 地球史の中で鳥瞰する 野心的な知的大紀行〉。

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20世紀を振り返り、つぎに人類史に多大な影響を与えた科学的発見を見ていく。実質的にここまでが序章か。
次の第3章から人類と宇宙との関わりを、宇宙論、宇宙開発、環境問題等の観点から見ていく。人類の宇宙観の移り変わりが平易に書かれていて面白い。
最後のほうは最新(出版当時)の素粒子物理学なんかが出てきて、(十分易しく書かれてるんだろうけど)ところどころついていけなくなる。それでも3K輻射発見のエピソード等は面白く読めた。

本書で一番印象に残ったのは、宇宙の神秘が日常に侵蝕してくるこんな注釈。

放映時間を過ぎたテレビのブラウン管に現われるノイズの約1パーセントは、宇宙背景輻射の電波と考えられている。

ビッグバンの瞬間に放出されたエネルギーが、誰も観ていない深夜のテレビの砂嵐の中に現れる。まさにセンス・オブ・ワンダー。

さて、著者はあとがきのなかで次のように述べる。

現生人類は今もこの二つの特殊能力に起因する呪縛から逃れられない。右肩上がりという幻想と、大脳皮質の内部に射影される共同幻想である。というか、むしろその故に、崩壊か否か、今、文明の岐路に立たされているといえなくもない。

現生人類(ホモサピエンス)を他の絶滅していった人類と隔てる二つの特殊能力とは、おばあさんの誕生(生殖能力をなくした個体の長寿化)と、言語を明瞭に話せる能力とを指す。
そしてこの二つの能力による呪縛のひとつが〈右肩上がりという幻想〉だという。
〈右肩上がりという幻想〉。この言葉が、たまたま同時期に読んでいた全くジャンルの異なる一冊の本とシンクロしていて驚いた。