夏目漱石「門」

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『門』。ベスト・オブ・漱石。ベスト・オブ・文学。
漱石の場合、最高作に挙げられる作品はたくさんあるが、これも間違いなくそこに加えられるべき傑作。
物語の構成上の難を指摘される事が多いし、確かに宗助の参禅は唐突な感が否めない。しかしこの構成の難ゆえに一層この作品を愛せる。欠点がない作品なぞ作品でないとすら思える。

最大の魅力は作品全編を満たす静謐さ。
宗助・御米夫婦は崖下の借家に住んでいる。陽当たりも悪く寒いその場所は、しかし奥まったところにあり表通りの賑やかさとは無縁である。世間から隔絶された夫婦の姿そのものといえる。

やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口から寂としていた。夫婦は例の通り洋燈の下に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋燈の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼等は毎晩こう暮らして行く裡に、自分達の生命を見出していたのである。

宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。一所になってから今日まで六年程の長い月日を、まだ半日も気不味く暮した事はなかった。(略)
けれどもその他には一般の社会に待つ所の極めて少ない人間であった。彼等は、日常の必要品を供給する以上の意味に於て、社会の存在を殆んど認めていなかった。彼等に取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼等にはまた充分であった。彼等は山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。

夫婦が背負っている過去は暗いものであり辛いものである。子どもには恵まれず、経済的な困窮は現在に至るまで常につきまとってくる。それでも二人はその中に平穏を見出し、お互いを求め合う幸福を知っているのだ。
どんな道筋を辿って来たとしても、最後に二人が辿り着いた境地が羨ましい。

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夏目漱石「行人」

だいたい毎年春先はそうなのだが、最近なんとなく憂鬱な日が続いている。激しく落ちもしないけど何かする気も起きない。どっか行こうかとも思うけどまぁ明日でいいやになる。
沈んでるときには漱石の文章を読むと落ち着くので、『三四郎』に続いて『行人』を再読。
これも読み返すのは初めて。ただこれは『三四郎』とは違って、重くて長いのが理由。だから今読まないほうがいいかとも思ったけど、勢いで読んだ。

kojin

主人公を取り巻く家族や親類付き合いがわりと生なカタチで出てくるので、それもあまり好きになれない理由。『道草』ほどではないけど鬱陶しい。家族関係の煩わしさにうんざりしていた漱石が描くんだから鬱陶しくなるに決まっている。でも漱石が描く嫂は好き。

一郎はお貞さんを尊いと言い、お貞さんのように生きたいという。じゃあその人のような人と結婚すれば君も幸せだったんじゃないかというHさんの問いには、女は結婚すると夫によってスポイルされてしまうと遣り返すが、一郎がお貞さんを尊んでいるのは、漱石が『門』を愛したことと同じなんじゃないかと思った。お貞さんがその尊さを持ったまま妻となったのが御米さんじゃないかと思う。
そんなことを考えていたら無性に『門』が読みたくなったので、今は大好きな『門』を読んでいる。
こんな風に寂しく世間から見捨てられて二人だけで慎ましく暮らせていければいいのに。

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宮沢賢治「シグナルとシグナレス」

漱石「行人」の合間に、賢治をチマチマ読み返している。
「カイロ団長」「ひのきとひなげし」とか、一回読んだきりでよく覚えていないのもあって新鮮。「黄いろのトマト」は「銀河鉄道」のバリエーションともいえそうな小品で、蜂雀の黒い瞳がずっと印象に残る。

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で、賢治の作品でも特に好きなのが「シグナルとシグナレス」。
電線フェチとしても賢治の星空ファンとしても堪らないし、セリフが一つ一つかわいくて良い。

「ああ、シグナレスさん、僕たちたった二人だけ、遠くの遠くのみんなの居ないところに行ってしまいたいね」
「ええ、あたし行けさえするならどこへでも行きますわ」
「ねえ、ずうっとずうっと天上にあの僕たちの婚約指輪よりも、もっと天上に小さな小さな火が見えるでしょう。そら、ね、あすこは遠いですねえ」
「ええ。」
シグナレスは小さな唇でいまにもその火にキッスしたそうに空を見あげていました。

作品最後の二人の小さなため息が、それまでの星空のイメージと対称を成していて鮮やか。
絵本もいろいろ出てるみたいだけど、視覚化するのは難しいんじゃないかと思う。

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夏目漱石「三四郎」

『門』『彼岸過迄』あたりはよく読み返すが、『三四郎』は一度も再読しなかった。

sanshiro

『三四郎』を初めて読んだのは大学一年の夏休みで、とてもいいタイミングで読んだと思う。
だからなんというか、その時の印象を壊したくないというのではないけど、読み返すことで大学生活が終わっちゃったことを突き付けられるような気がして手が出なかった。
でも久しぶりに『こころ』も読み返したし、その勢いで読み返してみた。

ストーリーがどうとか描写がどうとかいう前に、初めて読んだ時の気分を思い出して、やっぱり多少寂しくなる。自分はもう三四郎より野々宮さんに近い立場になっちゃったんだなぁ、と。
そういう意味で今読んで違った印象だったのが広田先生がみた女の子の夢。

僕がその女に、あなたは少しも変わっていないというと、その女は僕に大変年を御取りなすったと云う。次に僕が、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日が一番好きだから、こうしていると云う。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかかった時だという。それなら僕は何故こう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時僕が女に、あなたは画だと云うと、女が僕に、あなたは詩だと云った。

映画や小説の登場人物の歳は変わらない。子供の頃見たアニメの主人公がいつの間にか歳下になっている。そんな寂しさをも含んだ素晴らしい描写。
初めて読んだのが佐々木昭一郎のドラマを集中的に観てわりとすぐだったので、美禰子さんには『川の流れはバイオリンの音』の頃のA子を重ねて読んでしまう。それは今回も同じ。
「ストレイ・シープ、ストレイ・シープ」がA子の声で聞こえる。

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テオ・アンゲロプロス「シテール島への船出」「霧の中の風景」@新文芸坐

新文芸坐アンゲロプロス追悼週間の最終日。今日は大好きな『シテール島への船出』と初鑑賞『霧の中の風景』。

『霧の中の風景』は評価も高いようだし結構期待して観た。導入部は良かったんだけど、馬が死ぬシーンとか、女の子が男に犯されたり(直接的な描写はないものの)とか生理的にヤなシーンが散見されたのが辛かった。
重厚な雰囲気の中にもロードムービー的な雰囲気があって、ジュークボックスからガレージが流れる場面なんかヴェンダースみたいだった。『旅芸人の記録』一行も出てくる。
ラストシーンは綺麗だけど悲しい。実は『シテール島』と相似形にあるのかもしれない。

『シテール島への船出』は2、3年前に観て以来、アンゲロプロス中で一番好きな作品。でもどうしてなのかというとはっきりわからない。今回観直してもやっぱりわからない。ただ観ていて心地良いから…ぐらいしか言えない。最後の港のシーンの空気感が、好きなんだよなぁ。

結局印象批評しかしてないな。頭悪過ぎてイヤになる。

「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」「同 イデアの森」@早稲田松竹

ちょっと久しぶりの早稲田松竹。そうでもないか。

15人の監督によるオムニバス、「10ミニッツ・オールダー」二部作
スタイリッシュな映像とそぐわない微妙な邦題は置いといて、10分の短編が並ぶ構成なので気軽に楽しめるかと思ったら、一編一編の密度が濃いので思いのほか疲れた。

ヴェンダース目当てで観に行ったんだが、それを抜きにしても圧倒的に「人生のメビウス」のほうが濃密で面白かった。アキ・カリスマキと陳凱歌こそピンと来なかったけど、あとの5作は小気味良い小品。
ヴィクトル・エリセ。牧歌的だけど大戦の影もあって少し不穏だ。猫が可愛い。
ヴェルナー・ヘルツォークはアマゾンの奥地に住んでいたウルイウ族のドキュメンタリー。映像のインパクトも凄いけど、なんか西欧的な進歩史観ってなんなんだろうと考えさせられたり。
ジム・ジャームッシュ。クロエ・セヴィニーが綺麗すぎる。タバコが似合うなあ。静かに流れるグールドがいい。なんにも起こらないけど印象は強い。
次がヴェンダース。いきなりアメリカの赤茶色の荒野とロード。カーステからロック。こっちが望むものをわかってるなあ。どこを切ってもヴェンダースなのでニヤニヤしてしまう。風力発電用の風車がサイケに歪む映像もイイ感じ。やっぱ好きだヴェンダース。
スパイク・リーもドキュメントだが、編集のリズムがすごくいい。選挙とメディアの関わりについて、嫌でも日本の状況を考えてしまう。

対して「イデアの森」は総じてインパクトに欠ける。クレール・ドゥニが尖ってて格好良かったのと、イジー・メンツェルの淡々としつつ名優への敬意溢れる一編が良かったぐらい。ゴダールも良かったけど、いきなり戦場の死体のアップとかはやめて欲しい。

…にしても豪華な企画だよなぁ。どんだけ予算かけてるんだか。

安部公房「R62号の発明」

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『R62号の発明』。
初期の傑作短編。
なによりもこの作品の書き出しが好きでよく読み返す。

死ぬつもりになって歩いてみると、町はあんがいひっそり、ガラス細工のように見えた。(略)
鉄橋の上で、吸いさしのアメリカタバコをひろった。人通りをさけ、運河にそって行くと、やがて目を大きくあけて眠ったような、倉庫の谷間…街燈の下を、風にのったつむじ風が、ちょろちょろ走りまわっている。そのつむじ風が倉庫の顎をくすぐったので、油じみた扉を大口にあけて、キキキと笑った。それは人夫が三人がかりでおしつけなければ閉らない、笑い上戸の扉だった。
さて、間もなく、飛込むには絶好の場所がある。

もうこれだけでやられてしまう。この後、主人公が生きたまま死体となるように学生バイトに頼まれるくだりも、妙にリアリティがあるやりとりがどうしようもなく安部公房していて嬉しくなってしまう。
R62号君が作った機械が高水を切り刻むくだりはカフカの『流刑地にて』を連想させるが、それ以前にプロレタリア詩なんかとも共通するモチーフ(機械=非人間的な凶器)が見られて、それもこの時期の公房ならでは。

ところで現行版の新潮文庫は、全集に合わせて公房が撮った写真を使った無機質な装丁でなかなかカッコイイが、やっぱり真知夫人が手がけた表紙も捨てがたい。なんかこう、理想的な共同制作の形だと思えるので。
50年代終盤に撮られた公房と真知さんのツーショット写真があるのだが、これが猛烈にカッコ良くて、こんな風に尖った芸術家夫婦に憧れる。ロトチェンコとステパーノワみたいな感じ。

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