Pete Townshend「The Quadrophenia Demos 2」

昨日のロジャーの興奮で寝不足なままDU新宿本館へ。
RSD限定10インチ第2弾。

ジャケは前作よりイイ感じ。
「Sea And Sand」が収録されなかったのが意外。ジャケもそんな感じなのに。
「Is It Me?」も「Love Reign O’er Me」も結果的に『Quadrophenia』に転用されたけどちょっと古めのデモだし。まぁアルバムの大トリを外すわけにはいかないか。

Roger Daltrey @ 東京国際フォーラム 4/24

暗闇の中ロジャーが背を向けて立っているところに「Overture」がジャーン、という格好良すぎなオープニング。
わりとミスも多いけど決めるところはキッチリ決めてくれるし、ロジャーが終始ご機嫌なのがなによりも嬉しい。

TOMMYの中でもOvertureSparksあたりのフーで演るとピート主導のインプロ色が強くなる曲は、スタジオ盤を意識した演奏が妙に新鮮に感じられる。

I Can See For Milesをライブで聴くのは初めてだけど、この曲はそもそもライブ向きじゃないと思うんだよなぁ。89年のリユニオンとか、94年頃の「Sings Townshend」ライブでも演ってたけど、どれもしっくり来ない。
ラストのBlue Red And Greyはロジャーも苦戦しながら歌ってる感じなんだけど、それがまた愛おしい。「By Numbers」からの曲はフー本体でもあんまり期待できそうもないので、Imagine A Manとかも歌って欲しかった。

正直そんなに期待はしてなかったけど、予想以上に良かった。フーじゃないんだからもっとソロ曲をやって欲しかったが、その辺は広い層にアピールしようとすると難しいのかな。Without Your Loveが良かっただけにちょっと惜しい。
Days Of Lightは拾いものだった。ロジャーのソロのなかでも「Rocks In The Head」は聴くことが少ないのだが、この曲のおかげで最近よく聴いている。いいアルバムです。

Who Are Youは賛否両論ありそうだけど、個人的にはこれもアリかなという感じ。「CSIの2曲」が良かったと後ろの席のご婦人が言っていた。(「ジュリーみたい!」だってさ、ロジャー!)いろんな入口から入れるのは楽曲の良さの証。
この曲とかBehind Blue Eyesのように変化球アレンジの曲と、フーの(ライブではなく)スタジオアルバムを意識した演奏が並べられていたことが新鮮さにつながっていたと思うし、「フーのようなライブ」を期待したファンからすれば期待はずれだった原因でもあると思う。

ケニーもザックも好きだけど、TOMMYに限ってはキースじゃないとダメだと思う。今回のドラマーも、なまじキースっぽいフレーズを連発するぶん物足りなさが増したり。
ただそれを言っても始まらないし、急ごしらえのリズム隊にしてはかなり良かったと思う。

次はまたピートと一緒に、The Whoで来て欲しい。ロジャーもそう言ってくれたし。楽しみにしてよう。

川本三郎「荷風と東京 『断腸亭日乗』私註」

大学でお世話になった川本先生の名著。名著といいながら文庫版の上巻を読んだ後なかなか下巻を読む時間が取れず、漱石まつりを終らせて一気に読了。
「日乗」を丁寧に読みながら荷風の行動、嗜好を紐解いていく。学究的な作業でもありながらエンターテインメントとしても一級品で、読んでいると当時の東京が眼前に浮かび上がってくるし、実際に銀座や玉ノ井を歩きたくて仕方なくなる。

なかでもやっぱり、十六章「放水路の発見」以降、東京の東へと足を伸ばしていく荷風を描く章段は素晴らしい。川本先生の意識が荷風の意識に共鳴、並走し出す。優れた評論かくあるべし、という感じ。
十七章の註釈にもあるが、先生の推測通り小津安二郎も「日乗」を読んでいたことが明らかになるあたりは白眉。作品を表面的に見ているだけじゃ絶対に出来ない芸当だ。

二十八章以降は、ユートピアとしての玉ノ井を「発見」した荷風が描かれる。三島は「濹東綺譚」を〈一番下品なことを一番優雅な文章で、一番野鄙なことを一番都会的な文章で〉書いた小説だと評したが、そんな作品を創り上げる荷風を一番美しい文章で描き出すのが川本先生である。
繰り返しになるが、川本先生の意識が荷風の意識と共鳴している。そこに読者も引き込まれる。この本もまた荷風文学というユートピアへの入口になっている。

「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」@東京都写真美術館

東京都写真美術館にて、「まぼろしのモダニスト 写真家堀野正雄の世界」

この頃の写真家だと小石清、平井輝七をかろうじて知ってる程度。堀野正雄はこの二人より即物主義的な感じで、機械や建築物を被写体とした写真は未来派だったり、構成主義的だったりで魅力的。

「犯罪科学」(カッケー!)誌上に発表されたグラフモンタージュのなかに、向島、亀戸あたりの暮らしをモチーフにしたものがあった。誌面が訴えているのは、東京の西側が復興、発展していく一方でそのワリを食うかたちで貧しい暮らしを強いられている人々がいるよということだったと思うが、これらの写真に映し出されている光景は、まさに永井荷風が東京の東へ東へと足を伸ばしていた時期に見ただろう風景と一致する。
荷風が惹き付けられたであろう茫漠として物寂しい川縁や、煙突なんかの風景を思わぬところで観る事が出来て嬉しかった。荷風自身もカメラ好きで写真を撮っているが、モダニズムとは言い切れないまでも叙情を排したその写真は、新興写真一派と共通する面を持っていると思う。

他にも堀野が朝鮮や中国に赴いて撮った写真なんかがあったのだが、その辺はあんまり興味をそそられなかった。
やはり関東大震災以後、日中戦争が始まるまでの東京、東京がモダン都市大東京だった頃の東京には言い知れない魅力がある。

夏目漱石「吾輩は猫である」

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もう春休みも終わるので、春の漱石まつりも終らざるを得ない。最後は『吾輩は猫である』。

これはもう会話のリズムを楽しむというか、落語を読むというか。エピソードが並べられているだけでストーリーは殆どないので読んでても疲れない。回を重ねるごとに猫がファンを増やして自信満々になっていくのが可愛い。
で、笑いのなかにチクチクと文明批評を忍ばせてあるが、その鋭さには感嘆するしかない。特に終章で自我の肥大と社会の関連について苦沙弥先生はじめ紳士諸君が語るのだが、その語り口は馬鹿馬鹿しいものなのにその中身はピッタリ現代を言い当てている。
漱石には先を見る力がありすぎた。生の苦しみもそこから来たものだったんだろう。

夏目漱石「倫敦塔・幻影の盾」

『猫』と並行して執筆された初期の短編を集めた一冊。とにかくその多様性が凄い。
表題作「倫敦塔」は、「夢十夜」に繋がる幻想性を持った半紀行文。漱石のイマジネーションに感嘆する。
「薤露行」と「幻影の盾」は、英文学の古典に材を求めていて、美文で固められた美しい作品には違いないけど、漱石に期待する軽妙さとは別のものなので、正直この2本は苦手。この路線が『虞美人草』に繋がるんだろうな。

「一夜」は小説というより詩に近い散文。「メタ小説」としか言いようのない代物で、『草枕』のプロトタイプというかバリエーションというか。読者を突き放して終るところが『草枕』同様パンクで好き。

この短編集でいちばん好きなのは「琴のそら音」で、『猫』と同じく落語調のセリフのやりとりと少し恍けた地の文が楽しい。
筋書きも変わっているがハッピーエンドに終るという点でも変わっている。しかもこの読後感がすごくいい。あの重苦しい夫婦仲を描いた『道草』と同じ作者とは思えない。
「趣味の遺伝」も主題は「琴のそら音」と似ていて、男女間の不思議な関係を描いているが、これはちょっと展開に無理がある。前半の密度と後半のやっつけっぷりの落差がすごくて、まぁこのバランスも漱石っぽいといえなくもない。

The Who 武道館公演CD化!

08年11月17日、初の単独来日ツアー4日目の武道館公演が日本独自でCD化決定!!
この年のツアーはアンコールシリーズも出なかったからブートで聴いてたけど、まさかオフィシャルで出るとは!
ぜひ客電が落ちる前の「The Jean Genie」から収録して欲しい。あのときの武道館を満たす期待感は尋常じゃなかったよ。

Nick Drake「Pink Moon」

最近ずっと聴いてる。
作品は作家とは切り離して考えるべきだと、基本的には思う。どんなにヤな奴が作ったって傑作は傑作。それは魔美のパパも言っている通り。

しかし、優れた作品に接するとそれを創った人についても知りたくなる。稀にそのせいで作品を以前程には愛せなくなったりもする。たとえばツェッペリンなんかがそれで、どうしてもジミー・ペイジが人間的に好きになれないので醒めた耳で聴くようになってしまった。
その一方で作品イコール作者と言える様な、人と作品を切り離して考える事が極端に難しい人もいる。ゴッホ然り、ブライアン・ウィルソン然り。

ニック・ドレイクはまさにそんな人だから気楽に聴き流すことは出来ない。そのぶん聴く機会も限られてしまうが、しかし作品に接すれば必ず何らかの感覚なり示唆なりを与えてくれる。

遺された3枚のアルバムはすべて名盤。そのなかでもやっぱりこの遺作は特別だ。

彼がギターを抱えて座っているのは真っ暗な死の淵だが、光が射す瞬間も折々ある。タイトル曲「Pink Moon」のピアノや「Things Behind The Sun」で長調に転調する瞬間の美しさ。しかしその光があまりに眩しい故に、彼のいる場所の暗さがより一層強調される。

「Pet Sounds」は孤独を慰めてくれる。本作も孤独を慰めてくれるが、その質が微妙に違う。前者が躁と鬱を絶えず行き来している不安定な光の美しさなら、本作は絶対的な暗闇の美しさを教えてくれる。

安部公房「無関係な死・時の崖」

新潮文庫版『無関係な死・時の崖』は、初期~中期の短篇集だが、なぜこの2作がタイトルに選ばれたのかは少し疑問。

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「無関係な死」はいいとして、「時の崖」はここに集められた作品のなかでは凡庸な部類だと思う。それぐらい傑作揃いの一冊。
より初期の短篇と比べても、余裕が感じられるというか、同時期に大量に書かれた戯曲やラジオドラマと並んで、より技法的な実験に比重が移っている。

「家」。タイトルこそ「家」だが、公房が嫌悪していた農耕民族的な〈家〉制度が主題ではなく、過去をめぐる思考実験。
ここで祖先という形象を纏って出現する過去は、『第四間氷期』における水棲人という形象を纏った未来に対応する。
過去や未来は現在から断絶した形でしか現れない。それをどう捉えるかは想像力の問題であり、ラストの祖先のモノローグもここに帰結する。
そんなことを抜きにしても不条理ホラーとして楽しめる佳作。

「無関係な死」は発想に賭けた短篇らしい短篇。
まさしくカフカ風な幕開けに続き、緊張感を切らさず一気に突き進む。克明な意識の流れのリアリティには余裕が感じられる。
一篇のブラックジョークかつ前衛作家による壮大なノリツッコミ。

「人魚伝」はあまり語られないが、安部公房の短篇中でも「デンドロカカリヤ」「R62号の発明」「赤い繭」あたりと肩を並べる傑作で、時期的なものを考えれば短篇の到達点でもある。昭和37年。『砂の女』と同年なのだ。凄まじい充実振り。

文体も完成されていて長編の傑作群を想起させるが、この主人公の人魚への執着ぶりはちょっと異質なものがあり、珍しく叙情的な印象も受ける。
そんなロマンティックですらある前半から一転、ホラーSFから不条理なエンディング(『燃えつきた地図』に近い雰囲気)に到る後半のストーリーテラーぶりも公房以外の何者でもないのだが、冴えすぎである。

安部公房「赤い繭」「洪水」「バベルの塔の狸」

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『壁』には「S・カルマ氏の犯罪」含め切れ味の鋭い傑作しか収められていない。
ページをめくる指は血まみれである。R62号君の発明のように、僕の指をスパスパと切り落としていく。かろうじて残った親指でケータイからブログを書いている次第である。

「赤い繭」は安部公房が最も安部公房している作品かもしれない。

家…消えうせもせず、変形もせず、地面に立って動かない家々。その間のどれ一つとして定まった顔をもたぬ変りつづける割目…道。雨の日には刷子のようにけば立ち、雪の日にはわだちの幅だけになり、風の日にはベルトのように流れる道。おれは歩きつづける。おれの家がない理由が呑み込めないので、首もつれない。

〈変形もせず〉〈動かない〉家が、公房の主人公に相応しいはずはなく、よって彼は〈変りつづける〉道を歩くしかない。〈理由が呑み込めない〉から。
そして彼は自分も変形、消滅することで〈家〉を得るが、今度は〈帰る俺がいない〉。
絶えず変転することで均衡するダイナミズム。そう、まさしく砂の運動と同じだ。

「洪水」も変形する人間たちの物語だ。
〈液体人間〉という言葉にニヤニヤしてしまうのは特撮ファンの性だが、そういえば安部公房は『美女と液体人間』を批評していた。酷評ではあったものの、あの時代にジャンル映画をきちんと観て批評する知識人が何人いたろう。『妖星ゴラス』をタイトルだけで三流侵略SFと決め付けた評論家の、作品を観ずに書いた批評が通用していた時代の話だ。
三島由紀夫が『ゴジラ』を絶賛したというエピソードと並んで嬉しくなる。

「バベルの塔の狸」も言葉遊びの奔放さでは「カルマ氏」にひけを取らない。ブルトン狸の扱いが別格だったり楽しい。オチが弱いかなという感がなくもないが、シュルレアリスムは無意識下=夢を意識化する試みだから、全編が白昼夢だったかのようなオチはやはり正しいのだろう。
そして相変わらず真知夫人の挿絵が素晴らしい。