ムーミン展@松屋銀座

大規模なものでは大丸の展示から5年ぶり(?)のムーミン展。
ギリギリGWじゃない平日だったのにやっぱり混んでいた。

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ヤンソンさんの原画は小さいサイズで繊細なものがほとんどなので、後ろの人を気にしながらだとゆっくり見られなくてちょっと残念。
水彩もいいがやっぱりペン画の挿絵がいい。ママやパパも意外と直線が使われていたりして、絶妙なペンのタッチはずっと見ていても飽きない。
小学校の図書室にあった古いトーベ・ヤンソン全集版の「彗星」がムーミンに嵌まるきっかけなので、あの天体望遠鏡と天文学者の影が強烈な挿絵の原画がなかったのが残念。

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(某オークションの出品画像を拝借しました…。)

後期のいわゆる「冬のムーミン」4作の挿絵は格別だ。初期に比べるとラフなタッチの中に漂う寂寥感が堪らない。
コミック版を経てるからキャラクターの造形自体は初期よりも洗練されて可愛らしくなっているのに、それなのにこの無駄を一切削ぎ落としたような厳しさ。ムーミン達の丸い目は変わらず可愛らしいのだが、同時に虚無を見ているようですらある。厳しさと優しさが極限で両立するとこういう絵になるのかもしれない。

そういえば今回は「ガルム」やコミック版の展示はなかった。児童小説のムーミン世界に絞った内容で、これはこれで良かったと思う。

最後のほうには来日時に描いたスケッチ(遊び心たっぷり)や谷口千代さんへ宛てた手紙、谷口さんが今回のために制作したジオラマが展示されている。
いつもの作品と同じように、このジオラマも谷口さんのムーミン愛が伝わってきてすごく楽しい。いろんなシーンが散りばめられているので、いろんな角度から楽しめる。もう少し空いてたらもっとじっくり見たかった。

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南西方向から。奥におさびし山。

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ニョロニョロたちが集う島。細かい!

最後はお楽しみの物販だが、会場限定のマグネットのガシャポンとチケット模様のマスキングテープが売り切れていて買えなかった。買えないとなると余計に欲しくなるのが人情なので、たぶん物販だけでもあと3回は行くでしょう。

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こちらは2009年のムーミン展。

本多猪四郎「緯度0大作戦」@神保町シアター

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この作品だけ今回が初見。DVD化されたのは知ってたけど正直そんなにそそられなくて観ていなかった。

戦前のラジオドラマを脚色したものだと鑑賞後に知った。どことなく古風なのも納得。本多円谷コンビの作品なのに、観た印象はAIPあたりのB級映画に近い。

勿論つまらないということはない。
特にメカ描写は「マイティジャック」のリベンジ、円谷特撮の集大成とも言える本当に素晴らしいクオリティ。
しかし本編が…。ジョセフ・コットンのやる気があるのか無いのか分からない性格とか、意外に簡単に辿り着けるマリクのアジトとか、グリフォンやコウモリ人間の着ぐるみのおかげか、いまひとつ盛り上がらずに終わる。
制作にまつわるゴタゴタが本多監督のモチベーションまで下げてしまったんだろうか。盟友黒澤明が言うように、現場の空気はどうしてもフィルムに反映されてしまう。

一番残念なのは女優陣が魅力ゼロなこと。岡田真澄がリンダ・ヘインズに入れ込むのもイマイチ説得力が感じられないし、パトリシア・メディナと黒木ひかるはただのおばさん。
黒木ひかるは宝塚の人らしいけど、他の宝塚出身の女優さんと較べても古い人なのか、舞台演技そのまんまな感じでツライものがあった。
部下のハヤタ隊員の悪人面も、悪人面というより上官への不満顔に見えちゃったり。

もっとも全編演技は英語で撮影されて日本語に吹き替えたらしいので、英語版で観れば印象は違うのかもしれない。

ハッピーエンドともバッドエンドとも取れない余韻を持たせるラストは意外というか秀逸で、ジワジワ効いてくる。
もう一度観たいと思ったが今日で特集は最終日なのだった。

本多猪四郎「海底軍艦」@神保町シアター

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『地球防衛軍』と同じく、いまさらどうこう語る必要もない。

戦前の冒険小説を元にしているせいなのか、練り上げる時間が無かったのか、ツッコミどころは多い。
でもそれを気にさせないだけの勢いとノリがある。とても2ヶ月で作られたとは思えないし、当時の邦画界の底力が感じられる。
関沢脚本も絶好調で、いちいち細かいことを気にするよりも作品世界に身を委ねてしまうのが正しい見方だ。
本多監督もインタビューで仰っていたように、ムウ帝国の生活描写がもう少し必要だったかもしれないが、特に観ていて物足りなく感じるようなことはない。

“日本海軍のために”轟天号を建造していた神宮司大佐が、“世界のために”ムウ帝国に立ち向かう決心をするというストーリーは、昭和38年当時だと相当今と違う響き方をしたはず。
作品中でも終戦から20年を経ていること、日本が憲法で戦争を放棄したことが強調されて、“いまの”日本に誇りを持つ人々の気持ちが透けて見える。

べつにメカ好きではないから轟天号に思い入れは大して無いのだが、ドリルがあんまり活用されてないのはもったいないと思う。ムウ帝国の心臓部もドリルでブッ壊しながら突き進んで欲しかった。
ラストシーンの絵の具爆発はタネが分かっていても迫力あるが、死を覚悟して泳いでいくムウ帝国皇帝も哀しい。

本多猪四郎「地球防衛軍」@神保町シアター

神保町シアターの東宝特撮特集。なんとか最終日に駆け込みで「宇宙大戦争」以外を観ることが出来た。

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この名作についていまさら何を言うことがあるでしょう。ただただ文句無しの大傑作。
特撮が東宝名物にはなってもまだルーティン化する前、という時期の作品なので、こだわってこだわって繊細に演出されている。

この作品で一番凄いのはやっぱりモゲラ出現〜爆破に至る一連のシークエンス。
L作戦の上をいく、世界のSF映画史の中でも滅多にない完成度のシーンだと思う。

・佐原健二と警官ら一行が崩壊した集落を調査していると、川の上流から死んだ魚ばかりが流れてくる。
・さらに上流へジープを走らせると、ジープがパンクする。
・ジープから降りるとタイヤが焦げている。
・地面を触ってみると熱を帯びている。
・ガイガーカウンターを地面に向けると反応がある。
・困惑する一行の前方で山崩れを起こしてモゲラが出現する。

さらに、モゲラが町に侵入するシークエンス。

・画面奥の鉄塔をモゲラが破壊すると、手前の民家のミニチュアが明滅し停電する。
・暗くなり不安になった白川由美が風呂の窓を見ると、木々の向こうで静かにモゲラの目が明滅。
・同時に遠くからサイレンが聞こえてくる。

完璧。何度観ても鳥肌が立つ。
後年の作品では省略されてしまう日常から非日常への移行が丁寧に積み上げられていく。

モゲラへの攻撃も、やはり描写の積み重ねが秀逸で、それでいて通常兵器でなんとか破壊されてしまうあたりがとてもリアルだ。

・拳銃でも歯が立たないことを“電話で”聞いただけの警官は事態が把握できない。
・警官隊の拳銃による攻撃がモゲラのレーザー攻撃を誘発。
・家々に延焼。
・消防団の放水による消火活動。
・自衛隊の機関銃による攻撃。
・火炎放射器による攻撃。
・鉄橋を防衛線と決定する。
・ポンポン砲の砲撃と同時に鉄橋に爆薬をしかける。
・鉄橋とともにモゲラ爆破。

本編と特撮の連携も巧い。本編の火炎放射器から特撮の火炎放射器へ違和感を抱かせずにパンしたりする。

後半は一転して実在しない超兵器合戦になる。
光線が飛び交い爆発する描写も兵器ごとに工夫されていて、マーカライトを浴びたミステリアンドームの一部が爆発する前に露出オーバーで発光したり芸が細かい。
“直径200メートルのレンズ”のような突拍子のないものに説得力を持たせるにはこれだけの手間が要る、ということだろう。

科学者を軍人と一緒に前線に送っちゃまずいんじゃないかとか、ドームを中心に半径200キロには人がいないはずなのに、洪水シーンではドームからそう遠くない町を呑気に歩いてる人々が映ってたりとか、ツッコミどころが無いわけじゃないが、そんなのは些細なことだ。

ミステリアンの最期は悲壮なもので、マスク越しとはいえケロイド状に爛れた肉体が見える。
志村喬のセリフにもあるように、「ゴジラ」以来原水爆反対のメッセージは一貫しているが、それをうるさく感じさせず一級の娯楽作に仕上げる製作陣の手腕がお見事。

志村喬が村上冬樹に対して原水爆だけは使ってはいけないと説きながらも、他に手段がないことも熟知して黙り込んでいると、ハロルド・コンウェイが例の「グッニュース!ミナサン、ヨリコンデクダサイ」のセリフとともに部屋に入ってきて重苦しくなるのを防ぐ。
これは「ゴジラVSキングギドラ」に受け継がれたと個人的には思っている。

フィルムの状態も良くて、ゴジラ特集のときみたいにイタいお客さんだらけということもなく、楽しかった。
親子連れの男の子も観に来ていたのが嬉しい。楽しんでくれたかな。

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ロビーにギドゴジ。

立花隆「日本共産党の研究(三)」

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第三巻は、河上肇の転向〜党の終焉まで。本編は一冊のうち半分程度で、あとは付録や資料、そして膨大な参考文献リスト。

前巻に続いていろいろと事件は起こるが、ほとんどが陰惨なリンチ事件なので、読みごたえはあるものの面白いものではない。
〈党は誤謬をおこさない〉という大前提が間違っているので、起こる事件すべてが間違っている。もちろん、著者や共産党側が言うように、時代背景や体制側の弾圧についても考慮に入れなければアンフェアである。体制側だって似たようなもんだったんだから。

この巻でいちばん面白いのは付録。「研究」が文春に連載されていた最中に共産党からなされた反論や誹謗中傷に対して、著者が発表した記事が3つ再録されている。
揚げ足取り(イチャモン)への反論が主だが、多少感情的になったり、野次馬精神が露骨に出てきたときのほうが、立花隆は筆がノって面白いと思う。

立花隆「日本共産党の研究(二)」

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実話はフィクションより面白い。

読み物としてなら、武装共産党〜佐野学と鍋山貞親の転向までが描かれる第二巻がいちばん面白い。

スパイの暗躍、売ったり売られたり、資金がなくて方々に泣きついたり、脅したり、果ては銀行ギャングまでしたり、組織上部と下部がギスギスし出したり、捕まるときは意外とあっけなかったり。
面白いって言葉で済ましてしまうのも違うかもしれないが、法的、思想的なものは多少奥に引っ込んで、スパイと特高のやり合いが前面に出てくるので、中途半端に実感が湧かないぶん読みやすい。

本書の後半、共産党が思想的にではなく実際に犯罪シンジケート的様相を呈してくる時代へ移っていく。
やはりスパイである大泉兼蔵と、党支持者から党幹部になった野呂栄太郎との関係などは、出来すぎていてマンガっぽい感すらある。当時の共産党は必死だったんだろうけど、今の目で見るとどこか滑稽だ。なんだか残酷である。

大泉以前に活躍していたのが有名なスパイM(飯塚盈延)で、彼の半生は壮絶だ。著者の筆もノっているのでグイグイ読まされる。

職業的公安スパイとして生きることはそう容易なことではない。スパイたることは、人を欺き、人を裏切り、人を売りつづけることである。なまなかの人間には耐えられない仕事である。(略)
後に述べるように、たしかに彼は共産党を憎悪していたし、虚無的でもあった。しかし、それだけでは、彼がなぜすすんでスパイとなったのかの充分な説明にはならない。さらには、なぜ共産主義者として出発し、共産主義を憎むにいたったのか、なぜ虚無的な心情を持つにいたったかもよくわからない。“なぜ”を追っていくと、歴史の闇と、人に知るすべもない彼の心の深奥部とにさまたげられ、答えは永遠の彼方に逃げ去っていく。

一瞬、安部公房が「榎本武揚」で描いた厚岸の原野が目に浮かぶ。
スパイとしての活動はもちろん、生い立ちからスパイを辞めた後の歩みまで、丹念に取材されまとめられている。
周囲の人達からは愛される存在だったらしいMが、娘に語っていた言葉も鮮烈だ。

『人は不慮の事故で死ぬべきでない。それは注意不足だ。自殺もすべきでない。死ぬまで生きるべきだ。
生まれてこないのが最も幸せだ。しかし、生まれた以上はどんなことがあっても生きつづけるべきだ』

実話の面白さは人間の面白さだ。

立花隆「日本共産党の研究(一)」

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立花隆が「田中角栄研究」に続いて発表した「日本共産党の研究」。文庫版では全3冊でやっと読み終えた。
といってもつまらなかったわけじゃなく、第一巻の途中で半年ぐらい間を空けてしまっただけで、あとの二冊は面白くてすぐ読み終わってしまった。

第一巻の途中で読むのをサボったのは、怖い話は嫌いだからだ。

第一巻は結党から三・一五、四・一六を経て武装共産党時代に至るまで。
結党の経緯については松本清張の「昭和史発掘」で読んだ記憶があるのだが、どうも曖昧だ。しかもせっかく本書で読んだのにまた時間が経ってボヤけてしまった。

この巻では、〈前史としての共産主義運動のなかった日本にいきなり共産党を結党したことによる危うさ〉と、〈民主集中制が持つ構造上の欠陥〉がよく理解できた。
上の二点は“日本の”共産党特有の弱点として、この後も繰り返し指摘される。

特に民主集中制の、一見民主主義を装った強固な独裁主義は、いまの安倍自民党に通じるところ大。少なくとも自分にはそう思える。
暴力革命を目指す組織にはピッタリな組織原則らしい。怖。

さてこの民主集中制という組織原則で革命組織を律していくことを考えついたのはレーニンだが、それをいまのような官僚主義的、全体主義的方向にはぐくみ育てていったのはスターリンである。
民主集中制は「民主」「集中」の間で綱わたりするようなものだから、上に立つ者がよほど「民主」の側にバランスを傾けて運用しないかぎり、スターリン的組織になってしまう。官僚主義的体質の人間が上にたてば、スターリン化することはほとんど必然である。

このような民主集中制の危険性を認めていたレーニンは、コミンテルン第六回大会で〈もし諸君があまり従順でないすべての知識人を追いだし、従順な大ばか者だけをのこすならば、諸君はかならずや党を滅ぼすであろう〉と述べる。

レーニンがここでいわんとしていたことは、民主集中制という危険な組織原則を持つ党は、非従順な多数の知性(活発な知性はいつでも非従順だ)を包含して進むときにだけ健全でありうるということだったろう。
非従順な知性が追いだされ、従順な無知で満たされたときはじめて、なんでも満場一致、全党一致、拍手喝采でことが運んでいくスターリン主義的党組織が完成する。

どっかの国のバカ首相とそのお友達にそっくりだ。これに続く下の文も、そのバカ首相を形容したといってもそのまま通用する。

官僚主義者はなぜ非従順な知性を嫌うのだろうか。非従順さが官僚主義に背反することもさることながら、その背後にあるのは、劣勢な知力の優勢な知力に対する嫉妬心である。もともと官僚主義は、劣勢な知力の持主の自己保身術として発生し発達したものである。

第五章は三・一五事件後に強化されていった政府の取り締まり体制について述べられる。本書で一番読みごたえがあった。
治安維持法はもとより、ソ連の1926年刑法第58条(反革命罪)が、これまた安倍自民党の改憲案にそっくりである。憲法案と共産主義国の刑法がそっくりってどういうことだよ。怖。

「ソビエト社会主義共和国連邦、連邦共和国、および自治共和国の労働者農民政府を転覆、崩壊、または弱体化し、もしくはソビエト社会主義共和国連邦の対外的安全、およびプロレタリア革命の基本的な、経済的、政治的、ならびに民族的成果を崩壊または弱体化するすべての行為は、これを反革命とみなす」
この傍点部分によって、いかなる反体制的、反政府的活動をしても反革命になってしまうことがわかるだろう。いまの日本で日常茶飯事のごとく見られる、デモ、スト、あるいは反体制的言論活動など、もしやったらたちまち反革命である。

実際に“いまの日本(1976年)”から40年後の“いまの日本”では、デモをすると首相のお友達にテロ呼ばわりされる。

全三巻のうち、後の二巻のほうがスパイの暗躍やら惨いリンチ査問やら読んでいて胸の悪くなる事件は多いのだが、読んでいて一番“怖かった”のはこの一巻である。非合法時代の共産党史を研究しているはずが、いつの間にか現在の日本を研究しているような気持ちになってしまう。

だから怖い話は嫌いだ。