ビートたけし「浅草キッド」

殿の関連書の中では一番最初に読んでおくべき本を、いまさら読んだ。

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なんだかんだ言っても今の浅草は人気がある。個人的にも渋谷や新宿なんかより全然面白いし居心地のいい町だ。
たけしが芸人になった頃の浅草の廃れ具合はたぶん本書を読んでもちゃんと想像できていない。
ただまあとにかくはみ出した人達の吹き溜りだったということはよくわかる。まだ芸人に河原乞食の匂いが残っていた時代?(こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど。)

深見千三郎師匠やストリッパー達との日常が面白く、それでいて生々しく描かれる。
解説で当時の修行仲間が構成を担当していることが明かされてはいるのだが、それにしてもやはりどこか醒めていて俯瞰するような視点は北野武だと思う。

そのぶん本の終盤、マーキーを誘って新しいコントを作ろうとする芸人としての危機感溢れる文章とか、師匠に対するはにかみたっぷりの文章が効いてくるが、このへんはダイジェストとは言わないけど駆け足な感じがする。
本のメインはあくまでも前半のフランス座での修業時代なのだろう。

深見千三郎については以前「知ってるつもり」か何かで見た映像が印象に残っている。見えないように工夫していてもコント中にチラッと見えた包帯を巻いた左手と、焼死した際のアパートのニュース映像。

本書のラストも深見師匠の死である。“体中が打ちのめされた感じ”と訃報に接した際のショックを語ったあとに当時の新聞記事が引用される。本文の語り口との落差があまりにも鮮烈で生々しい。

最初にコンビを組んだマーキーは“頭が病気”になってしまったということだが、たけしとの稽古が彼をそこまで追い詰めたのだろうか。もともと繊細な人だったとはいうが、当時のたけしの芸人としての焦燥感が尋常ではなかったことの証明のようにも思える。

で、結局は兼子二郎さんと組んでやっていくわけだが、本文を読むまで裏表紙の解説文中にある〈乞食のきよし〉がきよしさんのことだと思っていた。すみませんでした。

安部公房「箱男」とグリーンボックス

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いったい何度目の『箱男』。
たぶん考察に考察を重ねれば、ここにまとめられた断片的な文章からひとつのストーリーを紡ぎ出すことも出来なくはないと思う。
でも一切の矛盾なしに完遂するのは作者以外にはムリだろう。作者は意図的に本作を未完成の状態に置いたとしか思えない。

いつも《書いているぼくと、書かれている僕の不機嫌な関係をめぐって》あたりから心地良い混乱に陥る。
この章が鍵、というか言ってしまえばネタばらしそのもので、虚構が虚構であることを暴露するような文章である。
しかしそれをそのままに終わらせたくないという葛藤もまた起こる。やっぱりこれを書いているのは偽医者なのか、そもそも最初から最後まで“僕”のノートに書かれた空想なのか。あんまりだから明確にはしなかったが、記述者は安部公房本人だったりするのか。

一見無関係のように思えるショパンの章の中にも、

じつはあれ以来、一度も箱から出た父を見たことがないので、はたして本物の父かどうかも疑わしい。

いまではもう僕の名前を知らない者はいない。世界で最初の切手の発明者、ならびに製作者として、ショパンの項が載っていない百科事典にはまずお目にかかれまい。だが、郵便事業が発達し、しだいに国営化されるにつれ、ぼくの名前はこんどは切手の贋造者として知られるようになった。

と、“僕”と偽医者の関係を読み解くヒントがサラッと書かれていたりする。本当に面白い。

このショパンの章と、贋魚の夢、アングルスコープで隣家の女性教師の便所を覗く少年Dのエピソードは特に好きだ。
贋魚は少し違うが、他の二つは〈見る/見られる〉という「箱男」のモチーフの変奏で、このモチーフの(ストーリーの、ではなく)完成度の高さ、汎用性の高さを示している。

『箱男』は小説というより、むしろ安部公房が採集した〈都市〉の定理や断片を収めた〈箱そのもの〉だと思う。
物語の解釈に疲れたというのも嘘ではないけど、そのようなものとして捉えたほうが遥かに読み手のイマジネーションを刺激すると思うのだ。

〈『箱男』=都市の断片の集積としての箱〉。
こんな連想を自分にさせたのはデュシャンのグリーンボックス。
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「大ガラス」制作の過程で書かれたメモや断片が収められたものだが、大ガラスの片割れでもあるし、副読本とも言えそうだし、設計図でもある。
「グリーンボックス」の所有者は、デュシャンの「大ガラス」をそっくりそのまま復元することが出来る。それはレプリカでもありオリジナルでもある。本物と偽物という概念の無効化。

でも、オリジナルかレプリカかはともかくとして、「グリーンボックス」にはとりあえず「大ガラス」という具体的な完成品が存在する。
だが『箱男』に収められた断片が形成する都市の完成形(もしくは本当のストーリー)は安部公房の頭のなかにしか存在しない。
だいたい公房の頭のなかに存在したかどうかも分からない。少なくとも脱稿までは、整理された作品の地図といえるものがあったはずだが、執筆が終わった段階で、それはまったく意味を成さないものになったのではないか。

読者は『箱男』を読むたびにその人なりの都市を、ストーリーを形成する。
それらはすべて本物だしすべて贋物だ。

本多猪四郎「空の大怪獣ラドン」@フィルムセンター

本当に久しぶりのフィルムセンター。
増税のせいで入場料が若干値上げされていた。それでも充分安いけど。

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なんてったって「ラドン」。いまさらなにも言う必要なし。

今まで観ていたのは発色が悪くて評判の初版LD(下)だったので、フィルムセンター所蔵プリントの状態の良さに感動した。
発色も解像度も高く、特撮シーンじゃなくても画面の隅々まで気が配られているのが分かる。
ブルーレイで観ればあんな感じなのかもしれないが、やっぱりフィルムには敵わない。

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冒頭はメガヌロンの兇行をホラータッチで描いていく。やはり初期の作品だけあって描写がひとつひとつ丁寧。
殺された鉱夫の奥さんが容疑者の妹(白川由美)に怒りをぶつけようとして周りの主婦に必死になって止められるシーンは、「ゴジラ」の巡視船の遺族の描写を思わせる。こっちは鉱夫同士の仲の悪さなんかも描かれているので余計に生々しい。

佐原健二が白川由美を慰めていると、突然メガヌロンが乗り込んでくる。本当にいきなりなので驚く。客席でも何人かが声をあげていた。
特撮ファンが対象じゃない回顧上映だと、失笑が漏れることもままあるなかで、珍しい体験だった。

ボタ山に逃げたメガヌロンを炭坑夫と警官たちが追うが、人数が半端じゃなく、このシークエンスがメインのストーリーの前座でしかないことを忘れてしまう。

空に航跡を残して華麗にラドンが登場してからは途端にテンポが速くなるが、このリズムも見事だと思う。
それにしてもパイロットの遺品のヘルメットは血塗れだし、片方のハイヒールを残して消えた新婚カップルはもう片方のハイヒールと共に白骨となって後半登場する。
後年では考えられない描写だが、生物としてのラドンに説得力を持たせることに成功している。

セイバー機のラドン追跡〜攻撃の特撮は本当に見事で、円谷・有川コンビの本領発揮。この重量感を備えたスピード感はその後の特撮映画にもみられない。
ラドンの航跡を延々と追っていくショットはどう撮ったのか未だに分からない。編集も見事。
西海橋下の水中へ着ぐるみごとダイブした中島春雄もすごい。
その後の衝撃波による橋の破壊もすごい。以降の飛行怪獣でもお馴染みの描写だが、やっぱり本作は群を抜いている。

福岡のシーンも何度も観ているのに、観るたびに圧倒される。
フィルムの状態の良さもあって、ミニチュアの細部まで確認できた。とても歩幅で測って作ったセットなんて思えない。
一枚一枚吹っ飛ぶ瓦、バウンドして転がっていく車、倒れてスパークする電線…本当に芸が細かい。
特撮映画を見る醍醐味はこのシーンに集約されてると思うし、本多監督もこの一連のシーンは「最高だ」とおっしゃっている。
(「『ゴジラ』とわが映画人生」実業之日本社)

ラストの阿蘇攻撃シーンは同じ効果音が延々と続くので、音響面で少し工夫して欲しかったものの、そんなのは些細なこと。
有名なラドンの最期は哀しいけど綺麗なシーンだ。
必死に羽ばたくものの力尽きて墜落するラドン。操演と偶然が生んだ奇蹟の瞬間。

「ゴジラ」「ラドン」「地球防衛軍」の3本は別格だとあらためて感じた。

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美濃部美津子「三人噺 志ん生・馬生・志ん朝」

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志ん生師匠の次女による回想録。
「三人噺」と題されているが、著者が一番語りたかったのは母親のことではないだろうか。芸以外はとことんダメな志ん生師匠の面倒を見たり、子供達に優しく接する姿が克明に描かれている。

志ん朝師匠も馬生師匠も、当たり前だが成長するにつれ美津子さんと接する時間は減っていくので、落語家時代の話はそんなに多くない。
若い時代のモダンな志ん朝師匠と、ひたむきな馬生師匠のギャップが印象的。馬生師匠は猫好きだったようで、猫がくすぐりに出てくる噺を思い出して微笑ましくなる。

それにしても現存する志ん生師匠のテープのほとんどに美津子さんの編集の手が入っているとは知らなかった。

浜離宮恩賜公園

海はもちろん好きだが、海を感じられる土地が好きだ。
海はほんのちょっと見えたり、潮の匂いがする程度でいい。

東京の中心部はそういう街だ。江戸の昔から、東京は水の都だった。
有楽町から銀座を抜け、晴海通りに沿って晴海大橋のほうへ歩くコースは大好きで、去年も歩いたしブログにも書いた。
(書いたと思ったら記事を削除してしまっていたので、再投稿した。)

オリンピックというバカと金儲けの祭典が来ることになってしまったので、東京の余命もあと6年となってしまった。
変化していくことが東京の魅力である。
それは充分承知しているけど、バカが主導してバカが乗せられてバカが稼ぐ、いかにも全体主義的な空気に東京がレイプされ殺されていくのは堪らないというだけの話である。

これからはもっと積極的に東京を歩こうと思った。死んでしまう街を記憶に留めておこうと思った。
スプレーの落書き収集やら他にも色々やり始めたのもそういうことである。

というわけで、唐突だが友達と浜離宮に行って来ました。
上のような事情も少しあるものの、単に最近ヘビーなことが多すぎてやんなっちゃったのでボケーッとしたいね、ということになったのです。

JRで行ったほうが速いのですが例によって堀切を眺めたくなったので東武スカイツリーライン(伊勢崎線)に乗ってのんびり向かいました。
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地下鉄の出口を出たらいきなり電通のビルなんかがあってうんざりします。潰れればいいのに。
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浜離宮についてはなぜか急に行きたいと思っただけで予備知識はふたりともゼロです。入り口で貰えるパンフレットを眺めつつ散策しました。
ヤマタノオロチのような三百年の松。
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三百年の松を越え、お花畑を進みます。春は菜の花、秋はコスモス、今は殺風景です。
少しすると水上バスの発着場に着きます。

築地川が東京湾に注ぐ場所のようです。堤防で仕切ってあるため川のようですが、れっきとした東京湾。この狭さと水門の向こうにチラ見えする水平線がたまりません。
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行楽日和だったので水上バスはお客さんでいっぱいでした。どうしようもなく落ち込んだときに独りで乗りたいと思いました。
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横堀水門を通って瀬入の池(横堀)へ。
海手お伝い場橋でなにか魚はいないかと池を覗き込んでいると、職員の方から干潟に住む魚やカニもいると教えて頂きました。でも結構小さいようで見つけられませんでした。

富士見山と勘違いして御亭山に上がりました。今は正面の瀬入の池(大泉水)の向こうには高層ビル群と東京タワーが見えますが、江戸時代には富士山も望めたのではないでしょうか。
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松のお茶屋を通って売店で一休み。
ここで休憩している人はみんなアイスキャンデー(文字通りのアイスキャンデー)を食べていて、当然自分達もアイスキャンデーを買いました。
ベンチは日陰で長閑です。アイスが美味しい。本当にボケーッとしていました。
140518 アイスキャンデー

猫さんがいました。
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大泉水のお伝い橋を渡って小の字島、中島の御茶屋へ。ここも素晴らしく眺めがいいです。
が、肝心の写真が撮れていなかったので(悲)、富士見山から見た中島の御茶屋の写真です。
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本当に空が広くていくらでものんびりしていられます。
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吉宗ゆかりのトウカエデを見つつ園内をほぼ一周。
トウカエデのトンネルを抜けて少し行くと道ばたに木いちごが生えていました。もう少し大きいイメージがあったけど、あれは小学生の頃の記憶だからか…。
140518 木いちご

さあ帰ろうというとき、広場で砂利を掴んでは投げ掴んでは投げを繰り返し興奮している男の子(幼稚園児ぐらい)がいました。今の都市部の小さな子供にとって砂利ってそんなに珍しいものなんでしょうか???

とてもまったりした時間を過ごせました。一人でもカップルでも家族連れでも楽しめると思います。

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大杉栄「大杉栄評論集」

立花隆の『日本共産党の研究』からの流れ(?)で、大杉栄の評論集を読む。
お前が勉強不足なだけと言われればそれまでだけど、虐殺されたこと以外ほとんど知られてない人っていうのも珍しい。
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表紙には〈大杉の炸裂する精神の動き〉なる言葉があるが、本当に炸裂している。〈アナーキスト〉という語感そのままの人間が、少なくとも文章だけ読むと立ち上がってくる。これはすごい。どれだけ生きにくかったことか。

ブライアン・ウィルソンは“I guess I just wasn’t made for these times”と歌った。
“僕はこの時代に合っていないのかもしれない”。邦題も的確に「駄目な僕」。
大杉も同じような思いに捉われるときがきっとあっただろうと思う。でもそこに「駄目な僕」なんて意識はなくて、「俺以外は全部駄目」という感覚が炸裂していたはずだ。

茶化してるように思われると困るのだが、この人のいかにも生き急いでいる文章は好きだ。
ただ、マルクス主義や社会主義特有の、あまりにも二元論的な論の進め方が多くて、多少辟易する。
〈美は乱調にあり〉で有名な『生の拡充』も、ダダに共鳴してるようで魅力的だが、根底にはやっぱり唯物史観があるので、乗り切れない部分はある。

いちばん惹かれたのは、『むだ花』という十三行の詩。

生は永久の闘いである。
自然との闘い、社会との闘い、他の生との闘い、
永久に解決のない闘いである。

闘え。
闘いは生の花である。
みのり多き生の花である。

自然力に屈服した生のあきらめ、
社会力に屈服した生のあきらめ、
かくして生の闘いを回避した
みのりなき生の花は咲いた。
宗教がそれだ。
芸術がそれだ。

むだ花の蜜をのみあさる虫けらの徒よ。

この炸裂する文章は、そのまま漱石の形容ではないか。
〈江藤淳が描くところの漱石像〉といったほうが正確かもしれない。彼の『夏目漱石』を十三行ですっかり代弁してしまったような詩だ。

大杉が言うところの〈みのりなき生の花〉である宗教(『門』)、芸術(『草枕』)に救いを求めるも叶わず、漱石は〈永久に解決のない闘い〉を強いられることになった。
〈むだ花の蜜〉で自分をごまかすことも出来ず、愚直に〈みのり多き生〉を生きた漱石が、やはり自己に忠実に生きただろう大杉と一瞬ダブる。

一瞬ダブりはする。『むだ花』の発表から一年後に漱石が行った講演、これまた最高な『私の個人主義』のなかで、漱石は自分が掲げる個人主義についてこんな風に述べる。

もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。
それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。

ここで漱石が述べる孤独は、大杉も知っている孤独だったと思う。
しかし漱石のほうが、大杉よりも遥かに個人主義者であり、アナーキストだったように思えるのだ。

それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理窟の立たない漫然としたものではないのです。
いったい何々主義という事は私のあまり好まないところで、人間がそう一つ主義に片づけられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここにはやむをえず、主義という文字の下にいろいろの事を申し上げます。ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気たはずはけっしてありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。

ふと、大杉に足りなかったのはユーモアの感覚じゃないかと思う。筆致からはユーモアも感じられはするが、ちょっと攻撃的に過ぎる嫌いがある。
あるいは二十歳近い年齢差や修善寺の大患が、漱石の思考を一段と深めたのか。
なんだか、パンクとゴッドファーザーみたいな趣。

木原浩勝「九十九怪談 第一夜」

小一時間潰す必要があった。あいにく文庫の一冊も持ってなかった。でもそこは神保町だったから、いつもの店の2冊100円ワゴンから2冊買った。

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「新耳袋」に続篇があるとは知らなかった。「新耳」の第十一夜として出せばいいんじゃないの?とも思ったが、それだとシリーズのコンセプト自体台無しになってしまうからだろう。でも中身はほとんど「新耳」。

章ごとのテーマがないのでやや冗長に感じられる。
もともと「新耳」自体〈怖い話〉というより〈奇妙な話〉という趣のほうが強いが、本作はその傾向がより顕著だ。
個人的には怖い話よりも奇妙な居心地の悪い話のほうが好きなので楽しめたけど、帯文見て買った人とか実話系怪談を期待した人ははぐらかされたような気分になりそう。

奇妙な話の中でもとりわけ、虫の知らせとかそんな感じの話が多い。泣ける話も。
人間同士の感動話は鼻で笑えるのだが、動物や幽霊が会いにきてくれたり助けてくれたりする話には弱い。何度も泣きそうになる。
最終話の(例によって一つの話が数回に分けられている)のんちゃんの話はつらい。悲しい。とりあえずはハッピーエンドなので多少救われた。

一番怖かったのは抜け毛の話。

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