「夢の島少女」の深層 (08) 少年は空を見上げる

「位置そのもの、戦後そのもの」である夢の島で、佐々木が感じ取った静かな感動は、彼の孤独な内面と反響を始める。
「戦後そのもの」という時間をもつ夢の島に立ったとき、佐々木の意識に立ち上がってきただろうイメージは、やはり川に関する記憶だったと考える。

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佐々木は東京市渋谷区上原に生まれ、世田谷区代沢で育った。疎開地を転々とした後、戦争が終わると生地に帰ってきた。彼にとって代沢の家と、そのすぐ近くを流れる目黒川は切っても切り離せないもののように思われ、少年時代の記憶にまつわるエッセイにはしばしば目黒川が登場する。目黒川は彼の家のすぐ近くを流れていた。

川は、どこまでも続いていた。川の表面はいつの間にか凍りついていた。私は、川の凍ったスキ間から、母親の記憶の中に入って行った。目黒川がこだました、機関銃の断続音が、母の腹の中の私にきこえていた。二・二六の年、私は、母の腹の中で銃声を聞いた。
(「無季 持続する川の移動ショットから」『放送批評第一〇三号』一九七七年二月号)

頭の中にずーっとあるんだ。有名な川から言うと、利根川でしょ。隅田川はだいぶあと。荒川。江戸川。うちの近くを流れてる、今はコンクリートの下だけど、目黒川。昔、ヤンマだとかトンボとった川なんだ。(「川の記憶」『創るということ』)

引きあげてきた東京の目黒川は、以前と同じだった。でも対岸は全部焼けてるんだ。田舎の川を泳いでても思い出してた。目黒川を泳いでやるんだって。(同)

で、一度ぼく妹といっしょに、目黒川沿いを空襲のさ中に逃げたことがある。川は真っ赤になってて。(同)

目黒川のコンクリートをめくるとそこから川の音がきこえた。(「無季」)

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佐々木は目黒川を回想するときに、この川が現在では暗渠化されてしまっていることを付け加える。目黒川自体は大橋からまた地上に現れ、昔と変わらず豊洲から東京湾に注いでおり、暗渠化されたのは佐々木の地元である世田谷区周辺などの一部である。
だが彼にとって、物心ついた頃からの思い出の場所である川が一部でも埋め立てられてしまったことに、時間の流れというものを意識せずにはいられなかったに違いない。
川の埋め立てもまた、戦後復興の為に東京都が行った政策のひとつである。

戦後の下町の復興は、東京大空襲による瓦礫の処理から始まる。当時、東京都には、この瓦礫の処理について二つの考えがあったようだ。一つは、東京湾の埋め立て地に運ぶ方法であり、もう一つは、江戸から続いた掘割を残土の棄て場として埋め立てるという方法であった。
結局、東京都側は、手近なところから第二の方法を主として選んだ。既に利用度の薄くなった河川を埋め立て、宅地をつくった。その土地を売って灰じん処理費を埋め合わせられるということから、外濠川、東堀留川などの埋め立てが進められた。
(岡本哲志・西川哲也「戦後の水際空間」『水辺都市 江戸東京のウォーターフロント探検』)

埋め立てられた川の多くは宅地化された。終戦直後の慌ただしさが一段落し高度経済成長期に突入すると、埋め立ては進み、川の上には高速道路が通された。

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(1963年5月にNHKで放送されたドキュメンタリー「現代の記録 都市と水路」より。日本橋川に首都高の高架を建設している。)

日本は昭和三〇年代には高度経済成長期に突入する。東京では都市内交通の増大が予想されることから、戦前からの懸案であった都市内高速道路が計画され、昭和三四年(一九五九)から建設が始まった。
この高速道路の路線を下町のケースでみると、路線延長の九割以上で河川(水路)が利用されており、そのほとんどが高度経済成長期に完成をみている。(中略)首都高速道路K・K線は、外濠川、京橋川の埋め立て跡地にビルと一体化して建設された。日本橋川の場合、埋め立てこそされなかったものの、水面の上に高架式で首都高速道路が建設された。(「戦後の水際空間」)

都市機能整備のための土地要請と「不用河川」、さらに子供にとって危険というきわめて近代的思考の高まりの中で、昭和三〇年代から河川・運河の埋めたてが活発になり、あるいは河川・運河を利用して高速道路が建設されるようになり、ついに隅田川の上にまで高速道路が造られた。
隅田川への建設が活発になる一方で、安価な生活、生産条件のために汚水が隅田川に注ぎこまれ、外観も内観も隅田川の面影が消失してしまった。(『東京・隅田川の歴史』)

このように、戦後の下町における埋め立て地の跡地利用の変遷をみてみると、それが戦後の日本のたどった軌跡と重なっていることに気がつく。(「戦後の水際空間」)

主に埋め立てられたのは下町の川だが、それは夢の島から東京を望むとき、眼前に広がる風景である。下町の川の埋め立ては、戦後の東京が辿った時間の象徴でもあった。佐々木はそれを眺め、埋め立てられた目黒川の記憶を想起させられたのではないだろうか。

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目には見えない川が、彼の想像力を刺激する。夢の島、東京、川、海、生、死…。『夢の島少女』を構成するモチーフは、このとき佐々木の脳裏に立ち現れた。それは一瞬の出来事だったに違いない。出揃ったモチーフから、さらに彼はイメージを膨らませていく。
一九八〇年一二月に『広告批評』誌に掲載されたインタビュー「私の言いたいこと」(後に『創るということ』に再録)で、佐々木は次のように語っている。

これから考えようとしている“世界の川は音楽”、仮題だけど、その川の物語のシノプシスをやっていて、ようやく一〇年越しにやってきたなっていうことがわかった。川を描かなくても川は描けるし、やっぱり人間だなと思った。川っていうのは、川である前に人間の意識なんだ。(中略)今、流れてなくって地球の歴史の中で消えていった川ってたくさんあるんだ。それを全部人間の意識の流れがすくってきたっていうのかな。

佐々木自身も後に気付いたように、『夢の島少女』もやはり「川を描かなくても川は描ける」を実践した作品だったのだろう。表層には描かれていなくても、作品の底には通奏低音として佐々木の川の記憶が沈んでいる。
その意識の発端が夢の島だった。彼の意識はこのときから川シリーズに到るまで一貫している。

見上げる空。空を見上げるのは常に少年。(中略)大人はめったに空を見上げない。
(「director’s note 第一五回 四季・ユートピアノ」『調査情報』一九八〇年一月号)

『四季・ユートピアノ』の創作ノートにそう記した佐々木は、『夢の島少女』のときにも空を見ていた。佐々木少年は夢の島から東京の空を見上げて、『夢の島少女』を描いた。

次回は、佐々木の川の記憶を辿ってみる。

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〈2014年の追記〉
本文中にキャプチャ画像を使用した「現代の記録 都市と水路」は、2002年にNHKアーカイブスで放送された。
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東京オリンピック前年であるだけに、多くの問題を孕んだまま進められていく川の暗渠化や高架道路の建設など、急速な都市化を強いられる東京の様子がよくわかる。この番組もNHKの公開ライブラリーで観ることができるはずだ。

「夢の島少女」の深層 (07) 位置そのもの

佐々木が『夢の島少女』の構想を得たのは、一九七二年秋のことだった。彼は旧版と新装増補版『創るということ』のなかで、その日のことを振り返っている。なお、佐々木が訪れたのは厳密には「新夢の島」(十五号地)だが、佐々木の記述に従ってここでは「夢の島」とする。

でもある日、パッと夢の島を歩いた時に、片隅っていう感じを受けたんだ。ああ、ゴミと同じように、星屑と同じように、人間も生命を持って、この世に生きてるっていう感じを受けた。捨てられるゴミに意味を持たすんじゃなく、ああいう砂漠みたいな所にいって、パッと立ってみると、ものすごく人間がたちあらわれてくるようなイマージュを喚起されたわけ。
(「夢の島少女」『創るということ』JICC出版局・一九八二)

『夢の島少女』という題名は、一九七二年の秋に考えついた。
トラックがひっきりなしに往復して、夢の島に土砂を捨てていた頃だった。
私の目的地は、彼方にドーム型に見えていた15号埋立地だった。私はヘリポートのグリーンの金網に沿って、歩いた。川にでた。川は私のすぐ左側を流れ、海につながっていた。私は川に沿って歩いた。川が海と出会う所に細長い仮橋があった。そこから先が15号地だった。水は、緑色。風も雲もない一日だった。
ドーム型の15号埋立地からは、Y字型の東京湾が見えた。遠くに羽田の管制塔が光っていた。ここは突端の島だった。島はほぼ埋立てを終わっていたが、東京の人たちがつい昨日まで使っていた靴、ドレス、オーバー、帽子、縄とび、机、椅子などが埋もれていた。それらは皆、意味を持って見えていた。見えている意味をそのままナマで表現するか、アイロニーを人物の遥か背後に据えるか、答えはその場ではっきりしていた。
私は島から、いま歩いてきた川を振り返って見た。緑色の水面の彼方に、東京の街が小さく見えていた。音は、トラックのかすかなエンジンと、羽田空港を往き来する飛行機の音以外、何も聞こえてこなかった。
(「フィルモグラフィ」『新装増補版 創るということ』宝島社・二〇〇六)

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佐々木は夢の島のどこに想像力を刺激されたのだろうか。彼は夢の島を歩いていて、「片隅」という「感じ」を受けたという。それは感覚的な、静かな感動だったに違いない。
確かに夢の島は東京の片隅である。発展、拡大を続けてきた都市が吐き出した、土砂と廃棄物で形づくられた人工の島。
東京に住み生活を営む人々から、不要の宣告を受け見捨てられたものが行き着く巨大なゴミ捨て場は、人々の生活空間から遠ざけるように、人々の目に触れないように都市の辺境に置かれている。

評論家の上野昂志は、コミック誌『ガロ』に連載していた「目安箱」というコラムで夢の島を取り上げている。(一九七六年五月号)

「オレは、状況劇場の芝居を見に行ったときに行ったね。行ってみて驚いた。去年の秋だったと思うけど、赤テントの横っ腹がパッとめくり上げられると、運河越しに東京が見えた。そのとき、ああコレだなと思ったね。あんな風に一望の下に東京を見たことはない」
「位置が決ったんだね」
「夢の島は位置そのものだもの」
「毎日毎日東京から吐き出される廃棄物が、一箇所に集中して夢の島を作る。(略)」

「状況劇場の芝居」というのは、唐十郎率いる状況劇場のテント公演のことを指す。上野が観たのは、おそらく一九七五年に公演された『糸姫』だと思われる。『糸姫』は夢の島と、大久保ロケット工場で公演された。

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このエッセイで注目したいのは、「夢の島は位置そのもの」という指摘である。「位置そのもの」とはどのような意味なのだろうか。
「夢の島は位置そのもの」と語る話者は、「赤テントの横っ腹がパッとめくり上げられると、運河越しに東京が見えた」体験を語り、そのとき、「ああコレだな」と思ったという。「こんな風に一望の下に東京を見たことはない」。
「一望の下に東京」が見える場所、それが夢の島の「位置」である。
「位置そのもの」とは、東京と夢の島がもつ機能的関係が、そのまま二つの場所の位置関係として現れている、ということではないか。

人は夢の島に立つとき、東京を一望の下に眺めることが出来る。東京から出たゴミが、今自分の立っている地面を形作っていることを、理屈ではなく、五感を通して確認する。そのゴミが「あそこ」から「ここ」にはるばる運ばれて来て捨てられたということに、空間的想像力を働かせる。そのようなことが可能な「場」が、夢の島であり、「夢の島は位置そのもの」ということである。

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埋め立て地の空間的特性を、法政大学・東京のまち研究会の西川哲也は、『水辺空間 江戸東京のウォーターフロント探検』(陣内秀信編・朝日新聞社・一九八九)の中で、つぎのように分析している。

都市とは人間の営為によってつくられたものであるが、中でも埋め立て地は、その造成のすべてが人間の手によって行われた、ある意味では、もっとも都市的な空間である。したがって、それぞれの埋め立て地の空間の構造には、それぞれの時代の人々の思惑が如実に反映されているはずであろう。

この説に依るならば、夢の島の「空間の構造」にもまた、「それぞれの時代の人々の思惑」が反映されているはずである。

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夢の島の埋め立て造成は、前にも記したように高度経済成長と並行して進められた。そして夢の島には高度成長期の人々の思惑が、ものの見事に映し出されてしまっている。「消費は美徳」の、「使い捨て」文化。それは東京都民だけではなく、戦後の日本国民全体の思惑でもあったのだろう。そういった意味では、夢の島は「位置そのもの」であったと同時に、「戦後そのもの」であったともいえるかもしれない。
西川とおなじく東京のまち研究会に属していた植田暁と金原孝興は前述『水辺空間 江戸東京のウォーターフロント探検』で次のように述べる。

13号埋め立て地に立った我々の前に広がる風景は、一見、ニューヨークのマンハッタン島を望むそれと類似するかのようである。だが、そこに展開する眺望の対象は高層ビル群という単一エレメントの集積、統一感のある美しさではない。どちらかというと雑然という言葉が合いそうなこの風景の中に、東京の全体像を読み取ることができるのである。そこには生活の場から業務空間、物流基地としての都市の姿から巨大なそれを支えるエネルギー源、あるいは交通網までを我々は見ることができる。一方、この風景の中には、江戸から現代に至るまでの東京の歴史的象徴がちりばめられている。まさにそれは現代に至るまでの堆積した時間、東京の発展史そのものである。

この文章は、佐々木が夢の島に立ってから一七年後の一九八九年に書かれたものであるが、埋め立て地から東京湾越しに眺める東京の印象は、本質的には変わっていないと考える。違いは十七年分の時間の堆積である。

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佐々木の回想と上野のエッセイにおいて共通している点は、空の広さを思わせる文章である。夢の島からの眺望を、佐々木は「緑色の水面の彼方に、東京の街が小さく見えていた。音は、(中略)羽田空港を往き来する飛行機の音以外、何も聞こえてこなかった」といい、上野は、「運河越しに東京が見えた。(中略)あんな風に一望の下に東京を見たことはない」という。
両者とも、海と運河の彼方に見える東京を眺めて、そこに堆積する時間の重さを感じ取ったに違いない。現在の自分が立っている場所と東京との関係、そしてその東京が背負っている歴史を、一瞬のうちに、感覚的に認識できる場所が、夢の島だった。

「夢の島少女」の深層 (06) 夢の島

夢の島の名は、いつだれがつけたのか明らかでない。

夢の島は、東京都江東区の南部、荒川放水路の河口につくられた埋め立て地、第十四号埋立地の別称である。その名前の由来については、『江東の昭和史』(江東区・一九九一)のなかで上のように記されており、詳細は不明のようである。

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もともとこの十四号地は、飛行場を建設するために東京市が昭和一四年七月に埋立免許を取得し、海面約百七十四ヘクタールを埋め立てようとした場所であった。しかし、戦時中の資材不足等もあって工事は中止となり、戦後の一時期は海水浴場として都民に親しまれていた。
その後、再び、この地を埋め立てる計画が持ち上がり、昭和三十一年策定の、「東京港港湾計画」に依って、昭和三十二年十二月から十四号地の、昭和四十年十一月から一五号地の埋め立て造成がそれぞれ開始された。

江東区地先の一四号地(夢の島)では三二年十二月からごみの埋立てが始まった。その後、四〇年一一月からは一五号地ごみ埋立処分場(新夢の島)での埋立てが開始された。(『江東の昭和史』)

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夢の島の埋め立て造成は、高度経済成長時代の到来と並行して進められた。年々増え続けるゴミを、夢の島は飲み込んでいった。

昭和三〇年代後半からの高度経済成長は国民に物質的な豊かさをもたらした反面、大量生産、大量消費による「使い捨て」「消費は美徳」の社会意識も助長させ、その結果、ごみの量は増大し、三五年から四四年までの一〇年間で倍増した。また、質的にもプラスチック類の増加など多様化が進んだ。(『江東の昭和史』)

この間、昭和四十年には夢の島にハエが大量発生する。生ゴミなどの非衛生的な処理を行い続けてきたことが原因であった。強烈な悪臭と膨大なハエの群れは、江東区一帯に潜入し、区民を苦しめた。都は七月十六日、ヘリコプターによって空から二万五千リットルの重油を散布し、ゴミの山もろともハエを焼き尽くしてしまおうという「夢の島焦土作戦」を実行。一時的には効果を上げたが、埋め立てという処理方法の限界を示すような事件だったといえる。

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昭和四十二年、夢の島(十四号地)の埋め立て造成が終了する。引き続き新夢の島(十五号地)のゴミの埋め立てが進められたが、四十六年にはこの十五号地をめぐって、東京都と江東区とのあいだに、いわゆる「ゴミ戦争」が勃発する。
もともとこの十五号地の造成に対して、江東区は三九年に反対決議を表明していた。しかし都の処理能力などを考慮した結果、区が譲歩して埋め立てが開始された。

昭和三九年九月、第三回区議会定例会で「江東区地先一五号地ゴミ埋立処分場の建設反対に関する決議」を可決した。しかし、本区は都のごみ処分能力とごみ処分の必要性を考慮して、清掃工場が完備するであろう四五年度まで、万やむをえず埋め立てるものであるという都の誠意を信じ、一五号埋立処分場の建設を了承した。(中略)
ところが、工場建設が進展しないことを理由として、その後都は、一五号地の埋立期間を昭和四七年度まで繰り延べし、更に四六年八月五日には、五〇年度まで埋立てを延伸させて欲しいとの申入れがあった。この申入れは、焼却能力一八〇〇トンの江東清掃工場を認めてきた本区にとって、断じて受け入れられるものではなかった。区議会全員協議会は、九月六日ごみ投棄反対の声明文を採択した。また、九月一六日には「江東区議会ゴミ投棄反対対策委員会」を発足させた。
都では、美濃部知事が、九月二八日、第三回都議会定例会において「ゴミ戦争」を宣言した。(『江東の昭和史』)

この後、区はゴミ清掃車の夢の島への乗り入れを拒否する実力阻止に出る。
区と都のあいだで度重なる意見交換が行われ、ゆっくりと事態は沈静化していった。

佐々木昭一郎が夢の島を訪れたのは、ちょうどそんな「ゴミ戦争」の最中の昭和四十七年(一九七二年)のことである。
次回は、彼がどのようにして「夢の島少女」の着想を得たかについて見ていく。

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〈2014年の追記〉
本文の画像は、1972年4月にNHKで放送されたドキュメンタリー「あすへの記録 夢の島 〜現代の貝塚〜」からのもの。
(この番組は2006年に「NHKアーカイブス」で再放送されたが、放送日は偶然にも32年前に「夢の島少女」が放送された10月15日だった)

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「夢の島少女」から2年前の夢の島の様子を見ることができる。
職員や江東区の住民達の都への不満が多く語られ、夢の島の処理能力がすでに限界に達していたことがよくわかる。
また、社会科見学で夢の島を訪れた小学生たちが、バスを降りた途端に、「くさーい」と鼻をつまみ口を塞ぐ。海面からも腐敗ガスが噴き出している。

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NHKの公開ライブラリーで06年の再放送版を観ることができるはず。

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「夢の島少女」の深層 (05) 深層へ

(04)で見たように、『夢の島少女』に対する評論は、論理よりも感性の側に身を寄せて書かれたものが多い。

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これは他の佐々木昭一郎作品にもいえることであるが、とりわけ本作にはその傾向が強い。その原因として、一九九六年にBS放送で佐々木昭一郎の特集が組まれるまで、本作が一度も再放送されず、またファン主催の上映会等にもフィルムの貸し出しが行われなかったため、視聴自体が永らく困難であったことが挙げられる。他の佐々木作品は初期のものも含め、八〇年代以降であれば数年に一度、上映会などで観ることができたが、『夢の島少女』はその限りではなかったのである。またそのことが、作品への冷静な評価を妨げる一因となっているとも考える。
(14/10/13追記:『夢の島少女』も上映会にかけられることはあったそうです。コメント欄でご指摘頂きましたので追記しておきます。)

もうひとつ、佐々木の作品を論じる際には、その撮影手法について言及されることがほとんどであった。
彼の作品は、厳密な台本を使用せず、非職業俳優と信頼関係を築いた上で即興的な演技をさせるという、いわば非常に密度の濃い共同作業によって撮影されている。確かにこの手法は独特なものであり、作品の魅力の一端もこの手法から生れていることは疑いない。しかし、その撮影手法だけに着目することもまた偏った見方だと考える。
いうまでもなく、作品は作者の意識から出発するものである。佐々木昭一郎の内面については、その撮影手法などと比べて語られる機会が少なかったのではないか。

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佐々木昭一郎という作者の内面と、『夢の島少女』の背景にあるものを佐々木自身の手による文章を踏まえて検証することが本論のテーマである。
『夢の島少女』は難解な作品である。難解さそのものといってもいい。解釈されること、批評されることを拒んでいるが、だからこそ古くならず、永遠に新しい。
しかしだからといって、一切の解釈を放り出し、「わからないから素晴らしい」と讃えることは許されない。

評論家の鳥山拡は、前述のエッセイ「暗転の時代」で、龍村仁『海鳴り』とともに『夢の島少女』を取り上げ、次のように述べている。

従来の平面軸の座標からは、この二作品の構成は理解不可能に近いにちがいない。『夢の島少女』を、理解できない、芸術派の作品と批評することは、おそらく最も安易な姿勢なのである。

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おそらく『夢の島少女』を論理的なストーリーに当て嵌め、個々のシーンが意味するものを読み取ろうとすることは無意味だ。多くの作品で佐々木と仕事を共にしたプロデューサーの遠藤利男は、(04)でも触れた「友人知人仲間エッセイ集」のなかで、その魅力について十二の箇条書きで記している。その中からいくつかを抜粋してみる。

1.
佐々木君の映像作品は内容も表現も、オリジナルであり、他と比べることができない。テレビといわず映像作品というのは、それまでの映画にもテレビにもなかった内容・表現であり、その枠や領域を超えたものであるから。
(特に日本の映像作品・映画もテレビも、ほとんどは物まねであり、手本がある。物まねのほうが、わかりやすく、評価しやすい。だから安心される。)

6.
人の心と同じように、表現は(テーマを追い求めるための)構造をもたない。したがって、ストーリーによって語らない。

8.
ショット・シーンは自立的で多義的であり、そのつながりは限りなく緩やかで、ストーリーによる必然性を求めていない。

10.
従来の・既成の完成度の拒否。

11.
私は誰か。そしてあなたは…存在論的問いかけを論理ではなく感性で。

遠藤が的確に指摘してみせたように、佐々木のドラマは「人の心と同じように、表現は(テーマを追い求めるための)構造をもた」ず、「ストーリーによって語らない」。また、各々の「ショット・シーン」は「自立的で多義的」であり、「ストーリーによる必然性を求めていない」。このような「従来の・既成の完成度」を拒否した作品を論じることが出来るのだろうか。

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ここで、佐々木が自作を論評する者に対してたびたび引用して示す、マーク・トゥエイン『ハックルベリー・フィンの冒険』の冒頭部分も思い出しておく必要があるだろう。

Notice;
Persons attempting to find a motive in this narrative will be prosecuted ;
persons attempting to find a moral in it will be banished ;
persons attempting to find a plot in it will be shot.
By ORDER OF THE AUTHOR
Per G.G., CHIEF OF ORDNANCE.

この物語から、動機を見出そうと企てるものは、告訴されましょう。
この物語から、道徳を見出そうとするものは、追放。
この物語から、筋を見出そうとするものは、銃殺。
著者の命令により
英国近衛第一兵大隊、兵器部長

銃殺を覚悟して、『夢の島少女』と佐々木昭一郎の内面を読み解いてみたい。

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次回はまず、作品の舞台、一九七四年の夢の島を見てみよう。

〈2014年の追記〉
本文冒頭の「論理よりも感性」というのは今読むとイマイチ曖昧な記述だが、技術的な側面について多くは語られなかった、ということを書きたかったのだと思う。実際そのように述べるこの章自体がやや客観性に欠けるきらいがあるが、当時の自分が持っていた熱が感じられるのでそのままにしてある。ご了承下さい。

「夢の島少女」の深層 (04) 評価

『夢の島少女』に対するメディアからの評価は、放送当時の番組表などを含め、数えるほどしかない。大手の流通ルートには乗らなかったミニコミがいくつかあったと思われるが、現在それらを入手することは困難である。

放送から十六日後、岡本博が『毎日新聞』夕刊の「映像時評」に本作を取り上げた。「記録の“一回性”ということ」という副題が付けられた本論は、作品の撮影手法について述べたもので、『夢の島少女』は方法論の枕に使われただけという印象である。彼は『夢の島少女』を、ロッセリーニの作品や、岩下恒夫、加藤滋紀、田原総一朗らのテレビ・ドキュメンタリーと関連して、ジャーナリズム、カメラの視線の持つ一種の拷問性について論じている。

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鳥山拡は、リアルタイムで佐々木昭一郎を評価してきた評論家である。『夢の島少女』については放送後に三つの評論で取り上げている。そのどれもが、時代と作品との関わりを論じたものであるが、カメラの視線を問題にしたという意味では、岡本と通じる面もある。

まず、『夢の島少女』放送直後の『放送批評』一九七四年月号に、「“愛の狩人” 佐々木昭一郎 -『夢の島少女』(NHK)によせて-」と題する評論を発表した。
鳥山は「現代における愛の成立は、いまや大いなる夢にすぎない」として、この感覚を抜きに愛のドラマは成立しないと前置きし、『夢の島少女』を、一九六三年のラジオドラマ『都会の二つの顔』の「愛のおとぎ話」を「さらに徹底化した作品」と評している。そして、本作から佐々木の「詩人的率直さと独自の抒情的なイメージ」が影をひそめてしまったのは、佐々木もしくはカメラマンの葛城哲郎が、『さすらい』と本作とのあいだに「変質を起す何か得体の知れぬ出来事」を持ったのではないかと指摘する。鳥山はイメージ・カットの挿入が乱れていたことを「時代の要請なのだ、という気がする」と述べている。

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同誌のコラム「テレビジョン同時代者群」の第一回「イメージの姦淫者・佐々木昭一郎」(一九七五年四月号)でも、鳥山は『夢の島少女』を取り上げている。「イメージの姦淫者」とは、本作における佐々木とそのカメラが持つ少女の性への視点を形容したものである。
鳥山は本作を、「感性で受けとめるべき」作品で、「このイメージの流れについて感じることを拒否する姿勢は、論理や筋道を拒否するのと同じ罪」であると論じている。彼は本作の時代を「いまの時点で」つかみとることは難しいとしながら、いつの日か『夢の島少女』の別の姿が見えてくることは信じられると述べている。
それは、『シナリオ』一九七五年一月号掲載の「暗転の時代」でも変わらない。彼は「『夢の島少女』を、理解できない、芸術派の作品と批評することは、おそらく最も安易な姿勢」であると論じ、そのような批評は、作品自身によって、「確実に裏切られていく」ものと断じた。

また、鳥山は同時代を記録する目として葛城哲郎に注目している。『和賀郡和賀町 -一九六七年・夏』(企画構成・工藤敏樹)、『海鳴り』(演出・龍村仁)、『夢の島少女』(演出・佐々木昭一郎)といった彼が撮影した一連の作品群に、同時代の影がしっかりと刻み込まれていることを指摘している。『夢の島少女』を葛城哲郎という切り口から論じたのは鳥山のみで、その視点の鋭さには感嘆するしかない。

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脇地炯は、一九八四年三月二十四日、NHK放送博物館で『アンダルシアの虹』の試写会が行われた際に講演し、『夢の島少女』に触れた。
脇地は『夢の島少女』を、佐々木が最も激していた頃の作品であるといい、近年の作品(『四季・ユートピアノ』~川シリーズ)とは正反対の「激烈さ」を持っていると指摘する。
彼はこの作品に、佐々木の内面的モチーフが「最も直截的に、強烈なかたち」で表出しているとし、「この作品をまっとうに論じられなければ、佐々木さんという演出家を論じることはできない」と断じている。だが、当時すでに『夢の島少女』の放送から十年近くが経過していたため、脇地の講演には『さすらい』と『夢の島少女』を混同してしまっている部分がある。

二〇〇四年三月、放送人の会主催「佐々木昭一郎の世界」が横浜の放送ライブラリーで行われた。その際会場で二百部が無料配布された「友人知人仲間エッセイ集」には、約七十人の関係者による佐々木評が掲載されていた。『新装増補版 創るということ』(二〇〇六年・宝島社)に再録された六本のうちの三編が本作について語っている。
かつて『夢の島少女』を扱ったミニコミを発行していた池田博明は本作を、批評することの不可能な作品であり、「『夢の島少女』ほど印象に残る作品とその後、出会っていない」と記している。

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九州朝日放送のアナウンサーであり、自らも佐々木へのオマージュとしてラジオドラマ等を制作している奥田智子は、『夢の島少女』のインパクトを散文詩のような形で述べている。

自由な映像などない。そこに自由を感じとれるかだ。(中略)
モチーフなどない。オートメーションからは百万光年離れたまるで通り魔のようなイマジネーションの発露が幻視の傷口から止め処なく流れ出すかだ。(中略)
ストーリーなどない。映像が物語を語り始めた瞬間その継ぎ目傍若に破り真実という実存を剥き出そうとするかだ。(中略)
“夢の島少女”などない。それは私そのものだからだ。

テレビマンユニオン代表取締役・副社長の浦谷年良は、おそらくリアルタイムで『夢の島少女』を観た際に記したメモを寄せている。彼は本作に「死の匂い」や「汚い大人社会への殺意のようなもの」を感じ取り、佐々木が抱える「痛みというか不幸の重さ」が反映したものだと考察している。

〈2014年の追記〉
本文ですら一応は論文のくせにのめり込み気味だが、追記ということで客観的な視点はとりあえず置く。

個人的には『夢の島少女』が“難しい”作品とは思わない。
タルコフスキーやデュラスにも通じる映像作品であり、佐々木本人は不本意でもやはり〈映像詩〉という形容がしっくりくるように思う。そもそも形容なんて野暮が作品に求められるかどうかは別として。
しかし、いわゆる〈物語〉を求めて〈NHKのドラマ〉を見ようとチャンネルを回したような視聴者には意味不明と受け取られても仕方がない気がするのも事実で、そのような人々にストーリーを説明するのは確かに“難しい”だろう。

「夢の島少女」の深層 (03) 夢の島少女とは

『夢の島少女』は、一九七四年一〇月一五日、NHKで放送されたテレビドラマである。作・演出の佐々木昭一郎にとって、三作目のテレビドラマにあたる。
断片的なイメージの集積による作品であり、受け手によってストーリーの解釈も異なると思われるが、簡単に要約すると以下のようになる。

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東京のある運河で、一人の少年が一人の少女を救う。少年は少女をアパートへ連れて帰る。少女はさまざまな記憶を呼び起こす。故郷の海、集団就職による上京、東京での孤独な日々。やがて少女は少年のアパートを抜け出す。少年は少女を探して、自分の妄想と少女の記憶の世界へ足を踏み入れていく。二人は記憶の中で再会し、少女を背負った少年が夢の島を歩いていく。
 
上の要約は脚本を参考にしたものだが、少女がアパートを抜け出してから後の展開は、説明はほぼ不可能に近い。
九〇分のドラマとして完成した作品は、佐々木の意気込みに反して、局内からの反発が強く、最終的に七五分に編集される。この再編集も作品の難解さに拍車を掛けたものとみていい。
当初予定されていたイタリア賞への参加も、局の意向により直前で取り消されてしまう。作品は芸術祭に出品されるが、佐々木の作品中では唯一受賞歴がない作品となってしまう。以後、「放送要注意番組」のレッテルを貼られ、二〇年以上に渡ってNHKの倉庫で眠り続けることになる。

スタッフ、キャストを以下に記す。

制作:藤村恵 作:佐々木昭一郎、鈴木志郎康 撮影:葛城哲郎 録音:太田進撥、長谷川忠昭 効果:岩崎進 演出助手:川口孝夫
現像:笠原政洋 フィルム送像:鈴木洋 ビデオ技術:藤田克好 編集:松本哲夫 エグゼクティヴ・プロデューサー:各務孝
演出:佐々木昭一郎
出演:中尾幸世、横倉健児、若林彰、東京の人々、八森の人々
(参考:佐々木昭一郎『新装増補版創るということ』二〇〇六・宝島社)

「夢の島少女」の深層 (02) 佐々木昭一郎・略歴

佐々木昭一郎は、一九三六年(昭和十一年)一月二五日、東京市渋谷区上原に生まれた。五歳の年、太平洋戦争が勃発する。父親は佐々木が生まれると間もなく、出稼ぎのために満州に渡ってしまい、毎年夏に短い休みを取って帰ってくるだけだったという。六歳のとき、その父親を汽車のなかで亡くす。父親の病気が何であったかは語られていないが、吐血した父親の血を全身に浴びるという経験をする。

戦局の悪化とともに、佐々木は母親と妹と三人で宮城県仙台市の父方の伯父の家に疎開する。やがて家族はいったん東京都世田谷区代沢に戻り、そこで何度か空襲に遭う。その後、今度は佐々木一人だけが母方の伯母の故郷、三重県熊野市に疎開する。この地での体験はのちに佐々木自身の手によって『七色村』(一九八九)としてドラマ化される。一九四五年八月、この地で終戦を迎える。

佐々木は東京に引き揚げるが、間もなく母親が肺を病んでしまい、再度伯父の家に戦後疎開することになる。伯父の家で使用人として働きながら学校に通った。彼は中学二年までをここで過ごすことになるが、戦時中の疎開と同様、周囲とは溶け込めなかったようである。この頃からほとんど人と口を利かなくなり、空想に耽るようになったという。彼は疎開先の苦しみから家出を試み、二度の失敗を経て、三度目に東京に帰ってくることに成功する。

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中学卒業後、佐々木は高校には行かず英語を学び始める。母子家庭だったため、早く独立して家計を楽にしたいという思いがあり、当時流行していた通訳を目指したのだという。それと並行して、母親の知り合いの会社に入社するが、給仕の仕事に嫌気が差し、一ヶ月で辞めてしまう。学歴で差別されることを身に沁みて感じたという彼は、一年遅れで高校に入学する。

高校入学の頃から、佐々木の内向的な性格はますます酷くなり、ノイローゼのような状態が数年間続いたという。対人恐怖症から五回の転向を繰り返した。佐々木によれば、その間も彼は空想に浸って気を紛らわせていた。

中学から高校にかけての時期、佐々木は名画座に足しげく通っている。彼自身の著書『創るということ』によれば、「十代の半ばで千本を超える映画」を観ていたという。この頃に観た映画として忘れられないものとしてウィリアム・ディターレ監督の『ジェニーの肖像』を挙げ、「脳のスパークや痙攣を感じさせる」「たいへんテレビ的」なものと評している。他に好きな監督として、ヒッチコック、ブニュエル、フェリーニ、アントニオーニなどの名前を列挙している。

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高校卒業後、立教大学経済学部に入学する。ESS(English Speaking Society)に所属、四大学英語劇大会に役者として出演する。
一九六〇年、NHK入社。芸能局ラジオ文芸部に配属され、一九六一年、『手は手、足は足』(作・宮元研)でラジオドラマ初演出を手掛ける。一九六三年『都会の二つの顔』で翌年の芸術祭奨励賞を受賞。この作品で佐々木は即興的な演出方法による独自のスタイルを確立する。
続く一九六五年、寺山修司との共作による『おはよう、インディア』を発表。後の『マザー』への布石となる作品である。芸術祭ラジオ部門大賞受賞。翌一九六六年の『コメット・イケヤ』も寺山修司との共作による作品。本作で一九六六年イタリア賞国際コンクール・ラジオドラマ部門PRIX / ITALIA受賞。

一九六七年、テレビに転じ、長期海外取材による大型ドキュメンタリー『明治百年』特別取材班に一年半のあいだ所属、吉田直哉に師事する。このときの撮影経験が後のテレビドラマ制作の際に生かされている。
一九六八年、テレビドラマ部門に配属され、一九六九年、テレビドラマ第一作『マザー』を発表。一九七一年モンテカルロ国際テレビ祭ゴールデン・ニンフ賞受賞。一九七一年、『さすらい』を発表。一九七一年度芸術選奨新人賞、一九七二年芸術祭テレビドラマ部門大賞受賞。

『さすらい』の後、二年間、彼は作品製作から引き離され、他のディレクターのADに付くことを余儀なくされる。そのような中でも彼は企画書を提出し続けていた。そのなかで陽の目を見たのが一九七四年の『夢の島少女』である。当時のテレビ界にとっても、佐々木自身にとっても異色作であるこの作品は、当初予定されていたイタリア賞への出品取り消し、九〇分から七五分への再編集の強制を経て放送された後、NHKの倉庫内に「要注意番組」として保存されていた。

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一九七六年、自身が企画した「劇画シリーズ」三本のうちの一本として、つげ義春原作『紅い花』を発表。本作は同名の劇画だけではなく、『沼』、『古本と少女』など、数篇のつげ作品からストーリーを再構成してのドラマ化である。本作で一九七六年度芸術祭テレビドラマ部門大賞、一九七六年テレビ大賞個人賞を受賞。また一九七七年国際エミー賞ベストスリーにノミネートされ、優秀作品賞を受賞した。

一九七八年から『四季・ユートピアノ』の制作開始。一九八〇年一月に放送。本作は後の一連の作品へと続く「音」と「川」というモチーフが主題として描かれた初めての作品であり、彼の代表作である。第三三回イタリア賞国際コンクールRAI賞、一九八〇年国際エミー賞優秀作品賞受賞。
一九八一年、『四季』につづき中尾幸世演じるピアノ調律師・A子が登場する、川シリーズの第一作、『川の流れはバイオリンの音』を発表。一九八一年度芸術祭テレビドラマ部門大賞。一九八二年モンテカルロ国際テレビ祭招待、一九八二年トロント世界テレビ会議招待。一九八三年、第二作『アンダルシアの虹』で、プラハ国際テレビ祭最優秀監督賞受賞。翌年の第三作『春・音の光』で、一九八四年度毎日芸術賞、一九八四年度芸術祭優秀賞受賞。『春・音の光』をもって、佐々木の意向とは裏腹に川シリーズは打ち切りとなってしまう。以後は、海外との共同制作が主になる。

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一九八六年『東京・オン・ザ・シティー』、『夏のアルバム』、一九八七年『クーリバの木の下で』、一九八八年『鐘のひびき』を発表。翌一九八九年の『七色村』は、自身の疎開体験を下敷きにした自伝的作品。本作でバンフ国際テレビ祭審査員特別賞、ゴールデン・フリース国際テレビ祭特別賞、ソビエト国際テレビ映画祭特別賞、チェコスロバキアテレビ賞名誉芸術賞を受賞。
一九九一年、『ヤン・レツル物語~広島ドームを建てた男~』、一九九三年『パラダイス・オヴ・パラダイス』、一九九五年『八月の叫び』を発表。
一九九五年、NHKを退社し、フリーとなり、文教大学教授に就任し十年間教鞭をとる。二〇〇六年、退職し、テレビマンユニオン入社。

二〇一〇年には、渋谷ユーロスペースで行われた特集上映「佐々木昭一郎というジャンル」上映後のトークショーに飛び入りし、現在、自身の映画製作会社を設立し、新作の準備中であることを明かした。
二〇一四年、その新作映画『ミンヨン 倍音の法則』がいよいよ公開予定。

「夢の島少女」の深層 (01) はじめに

大学の卒業論文のテーマは、佐々木昭一郎監督のTVドラマ「夢の島少女」だった。

久しぶりに読み返すと、作品との距離の取り方が曖昧で、批評ではなく賞賛、論文ではなく長い感想文のようなものだった。
指導担当の教授には、学部で出している雑誌(だったか紀要だったか)に載せないかと仰って頂いたのだが、いつの間にか多忙のせいにしてウヤムヤにしてしまった。ウヤムヤにして良かったと思う。
しかし当時の自分としては全力を注いで書いたことは間違いないので、バッサリ切り捨てるのもそれはそれで惜しい。
チマチマ粗を直して、ブログに分載するぶんには悪くないとも思った。

ということで、これからヒマを見ては少しずつ「『夢の島少女』の深層」を投稿していこうと思います。
何回分の記事になるかは分かりません。論文ではなく一種の感想文としてお読み頂ければ幸いです。


夢の島少女(3)

〈追記〉
「『夢の島少女』の深層」は全25(24+1)回です。
日付順に見ていくと途中で無関係なエントリーも挟まるので、カテゴリーで絞って見ることをおすすめします。
https://omisnuffs.wordpress.com/category/%e3%83%86%e3%83%ac%e3%83%93%e3%83%89%e3%83%a9%e3%83%9e/%e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a8%e6%98%ad%e4%b8%80%e9%83%8e/%e3%80%8c%e5%a4%a2%e3%81%ae%e5%b3%b6%e5%b0%91%e5%a5%b3%e3%80%8d%e3%81%ae%e6%b7%b1%e5%b1%a4/

本多猪四郎「ゴジラ 60周年記念デジタルリマスター版」@TOHOシネマズシャンテ

まず。
リマスター云々以前に、「昭和29年」の「ゴジラ」を「初日」に「日比谷」で観ることを疑似体験できるだけで嬉しい。
もちろんシャンテだから日劇とはちょっと場所違うけど、ここで観ることの意味の大きさに変わりはない。

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雨のゴジラ像。天気がいい時とは違った迫力があります。

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個人的にはもうちょっと工夫して欲しかったポスター。オリジナルを活かすという意味ではしょうがないか。

リマスターは当然楽しみだったが、特撮の粗が目立ってしまうんじゃないかという不安も当然あった。
一番心配してたのは、東京湾沿いに鉄条網が張り巡らされるシーンの合成で、やっぱり背景に対して鉄塔部分が揺れてしまっているのだが、モノクロのおかげで色調の違いは感じないので、それほど違和感はなかった。
(勿論そういう観点で観た場合の話なので、今回初めて観る人からすれば、なんだバレバレじゃん、となるかもしれない)

合成技術のレベルは相当高い。
大戸島での出現シーン、品川上陸シーンも合成であることは分かっても、マスクの設定が絶妙なのでほとんど気付かないうちに次のカットに移ってしまう。
品川のシークエンスは実相寺昭雄も分析した名シーンだ。
円谷英二の編集テクニックが冴えに冴える。

画質が鮮明になったことで、着ぐるみの動きもより生々しく伝わってくる。

この作品での中島春雄の演技は、後の“怪獣演技”とは異質のもので、演技というよりゴムの塊をなんとか動かそうとする苦闘そのもの。
特に顕著なのが隅田川から東京湾に逃れるシーンで、セイバーの攻撃にうるさそうな仕草を見せるゴジラの演技。おそらくはもっと大きく動きたかったんだろうなぁと、苦闘ぶりがものすごくリアルに伝わってくる。
このシーンは東宝のステージで撮影に立ち会ってるような臨場感だった。

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正直云って画質の向上は『羅生門』ほどではない、と思った。
でもあちらは画そのものに語らせようとした作品、こちらは本編と特撮の空気感を統一させることにまず神経を注がなくてはならなかった作品なので、比較してもしょうがない。

リマスター効果は音のほうにより顕著に感じられた。
咆哮と足音の迫力、音楽の奥行きが、DVDはもちろん、フィルムセンターで観た状態の良いプリントとも雲泥の差。音圧ときめ細かさの両方を備えた素晴らしい音。
(これも普段40〜60年代の邦画を見慣れているからこう思えるだけで、やっぱり普段そういう映画を観ない人からすればセリフも聞き取りづらいし、音の潰れも気になるかもしれない。でもこれは相当いい仕事だと思います)

作品自体について言うと、ちょっと演技の甘さが気になったりはする。

主演の3人についてもそうなのだが、一番不満なのは有名な「ゴジラに光を当ててはいけません!」と山根博士が群衆にもまれながら言うシーンの、群衆の演技。
危険区域にある自分の家や逃げ遅れた家族友人がどうしても心配で居ても立ってもたまらない、自衛隊員に静止されようがその先に行きたい、だからああいう状態になってると思うんだけど、なんとなく押されたり押したりしてるだけで、切迫さが足りない。
志村喬の演技は当然巧すぎるので、どうしてもそこが気になってしまう。

しかしそれも些細なことで、今回あらためてこれは怪獣映画というよりも戦争映画、もっと言えば空襲を描いた映画だと思った。

いまさら強調するまでもないこんなことを書きたくなるのは先日の産経新聞の記事が酷すぎたから。
この映画を〈単なるアナーキーな娯楽映画〉として観られる人はいろいろ足りてないとしか思えない。

ゴジラが海に去ったあと、負傷者や遺児で溢れかえる病院の描写は、この映画がなにを語ろうとしているのか、無言のうちに強く物語っている。

映画の楽しみ方なんて観る人それぞれの自由だし、観客が100人いれば100通りの映画が誕生する。
しかし、どうしても見誤ってはいけない物語の核というのは必ずあると自分は思う。

枝葉をどう生やすかは各人の自由だが、与えられる根はひとつだ。

この作品が〈反戦・反核映画ではない〉と言い切ってしまうのは、絶対に違う。
ラストの山根博士のセリフを聞けばそれは明らかだ。

国会で山根博士がゴジラと水爆との関係を示唆したあとの、事実を公表するか否かをめぐる代議士達のやりとりは、ある意味でこの映画でもっとも古くなっていないシーンかもしれない。
作り手がいかにシビアに現実を見つめていたかの証。

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映画の楽しみ方なんて観る人それぞれの自由、と書いたけど、自分にとって今回の鑑賞のいちばん重要なポイントは、冒頭でも書いたように、〈日比谷で観る〉ことに尽きる。

子供の頃とは違って東京の土地勘も少しはあるので、上陸したゴジラが新橋のほうから近付いてきて通過、国会を壊して皇居を一周して隅田川から海へ抜ける、という地図も頭に描ける。
まさに海のほうから今ここにゴジラが向かっているわけで、臨場感が違う。当時、日劇のシーンで日劇の観客が沸いた気持ちを少しだけ追体験できた。
(国会が破壊されるシーンで拍手もしたかった)

上映終了後に、宝田明さんとエドワーズ監督によるトークショー。
宝田さんはお元気で、伊福部先生の生誕百年にも触れていて嬉しかった。「ゴジラVSモスラ」LD-BOX特典映像での、打ち上げで伊福部先生とお会いした宝田さんの嬉しそうな表情が思い出された。

エドワーズ監督はやっぱり日本の観客の反応が気になるようだった。デル・トロみたいにオタクオタクした人じゃない(ような気がする。同族嫌悪と言われようがオタクは嫌いだ)。

ただトークショーの雰囲気が内向きというか、なんとなく狭いファン層に媚びてるように感じられてしまって少し微妙な気持ちになった。

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復刻版パンフレットは少し高いけど、紙質も結構頑張って再現しているらしい。講談社の「グラフブック ゴジラ」の巻末付録と較べても確かに鮮明さは増している。東宝写真ニュースの復刻も嬉しい。

シャンテを後にして、さっきスクリーンの中で壊されたばかりの雨の日比谷に出た。

フランソワ・トリュフォー「暗くなるまでこの恋を」@早稲田松竹

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「暗くなるまでこの恋を」も悪くなかったけど、これはカトリーヌ・ドヌーヴだから観ていられるのかもしれない。言ってしまえば性悪女の話だし。
いろいろ不満のあるストーリー展開なのにドヌーヴが可愛くて許せてしまう。あれだけの美人を前にしたら誰だって破滅してしまうだろうさ。
ベルモンドってカッコイイのか疑問だったけど、この作品での役柄は結構奥手というか過去の傷を引きずってなかなか恋が出来ずにいる繊細な人だから、見るからに二枚目な俳優じゃなくて彼みたいなタイプで正解なのかもしれない。
基本的に破滅的な二人の逃避行を描いたストーリーは好きなのでとりあえず許せてしまう。
ラストシーンが綺麗、そしてフランスの車は見ているときが一番カッコイイ。