「怪獣大進撃 The Modeling of GODZILLA」

ワンフェスの日に復活した「怪獣大進撃」を手に入れて感慨にふけってる。

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初めて買ったのが20年前の「怪獣大進撃3」。
前年の「ゴジラ超獣伝説」は読んでたものの、今度はガメラもウルトラも載っている。とにかくガレージキットの存在自体が衝撃だった。

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「3」で紹介されてた酒井ゆうじさんのキンゴジ出現が欲しくてたまらなくて、親に頼み込んで晴海開催だったワンフェスに連れてってもらったのが95年1月。歳を取ったことを実感して切なくなる。

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当たり前だがその時手に入れたキンゴジ出現は子供の手に負える代物じゃなかったので(ムクのレジンキットだもん)、エポキシ系接着剤でベタベタにした上にアクリル塗料かなんかを厚塗りしてベタベタにした。

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たしか後々ガッシュでリペイントして完成させた記憶はあるのに、なぜか氷山はサフ吹きのまま、いまだに押し入れに眠っている。
手許に残ってる数少ないGK。

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久々に引っ張り出して00年に発売の「ゴジラ名鑑」と並べてみた。
奥が製品、手前は発売当時定番の改造になってた「キンゴジ出現2」。

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この頃はGKを買うより食玩を改造するほうが多くなってた。
それだけ食玩のクオリティが上がっていた証拠でもあるし、相変らずGKは簡単に買える値段じゃなかった。

今回の「大進撃」、内容自体については少し期待外れだった。値段が値段なんだから、前回から12年の間に出た全キットのリストぐらい欲しかった。
少なくとも当時のEXではその年に出たキットはフォローしてたし、「超獣伝説」では入手可能なキットをほとんど網羅していたはず。
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レジェンダリー版ゴジラも酒井さんが作ればカッコ良くなる。どうしても今回のデザインが好きになれないのは、脇を締めていない立ちポーズのせいかもしれない。南海ゴジラのような愛嬌があるわけでもなく。
映画の中でカッコ良く存在していれば問題ないのはわかっているものの、ゴジラということや映画の内容を切り離して考えればトライスター版のほうが好み。

「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」

レジェンダリー版も公開されて、ゴジラ関連本の発売ラッシュである。できるだけ書店で手に取ってみることにしているが、個人的には当たりがない。高額なものほど内容が中途半端だと思う。そこそこ良かったのは「pen」と「夕刊ゴジラ」ぐらい。

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そんな中ようやく登場した本命が「初代ゴジラ研究読本」である。24日発売でものすごい密度なのでまだ少ししか読んでいないが、とにかく凄い。

まず表紙に成田亨画伯のゴジラを持ってくるところに、ただのムックじゃ終らせない作り手の気概を感じる。この絵はウルトラ怪獣と混載のカードのものだったはずだが、キングギドラなんかはアレンジしてあるのにこの絵だけは成田タッチじゃなくて初代ゴジラの着ぐるみを尊重している。そこがまた素晴らしい。

メイキング写真に珍しいものが多いのは研究読本では当たり前になってしまった感があるが、それでもこの量には驚く。さらに当時の宣材類にも、いままで見たことのないものがチラホラ。紙細工(竹細工?)製の立体看板は「ゴジラの逆襲」のものは見たことがあったが、鎌倉カーニバルなんて催しに第一作のものが参加していたなんてまったく知らなかった。
ゴジラじゃないが、RKO版「キング・コング」宣伝のために鎌倉に建てられたコングの写真なんていうのもある。とんでもなく貴重な写真だろう。

写真を中心に眺めているのでまだインタビューやコラムは読めてないが、坂野義光監督がインタビュアーを務める本多猪四郎監督のインタビューでは、本多監督が第1作に込めた思いが語られる。詳しくはとにかく読んで頂きたい。

これはぜひ秘宝の意地を見せて、円谷英二存命中の作品だけでもすべて「研究読本」化してほしい。かつての「東宝SF特撮映画シリーズ」に変わる新たな定本になるように。

ムーミンプレミアムコレクション2014@西武船橋

1月の銀座三越には行けなかったので、「おしりクッション」を買うために名古屋に行くことまで一時は真剣に考えた今年のプレミアムコレクション。
近場の西武船橋で開催ということで、おしりクッション目当てで行ってきた。

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いちおう夏休みシーズンだけど平日なのでほどよい空き具合。男性客は自分一人でも気にしない。
2メートルぐらいのムーミン屋敷の模型がなかなかよく出来てた。中にはちゃんとムーミン一家がいる。

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ムーミン屋敷全景。

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花の手入れをしているママと、部屋の中にムーミンとスノークのお嬢さん、スニフ。

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ご先祖様には額縁が似合う。

まんじゅうのように積まれたおしりクッションを購入。かわいいけど汚れやすそう。
そんなこと気にしててもつまらないので、いっそ猫さんたちに豪快に遊ばせてあげようか。

おしり

The Who 初来日10周年

The Whoが初来日し、横浜でライブをしてから今日で10年。
まさか10年後まで生きてるとは思わなかった。歳取る前に死ぬのは難しい。

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日本のファンの前で手を抜かずに演奏してくれるのか?
開演前にゴネて帰っちゃったりしないか?
いやそもそも本当にザ・フーが日本に来てるのか?

「I Can’t Explain」のイントロが鳴らされるまで(たぶんそれからも数秒は)本当にフーが目の前にいることが信じられなかった。
その後、予想以上の反応にバンドも本気になったのか素晴らしい演奏が続き、待望のギタークラッシュ。
ダイノジの片方が、ピートは破壊用の安いギターに持ち替えていたというデタラメをどっかで流していたが、彼は何を見ていたんだろう。可哀想に。

まさか再来日があるとは思っていなかったので、あまり良い席ではなかったけど必死になってステージを見ていた。申し訳ないけどエアロは見ないで帰った。
翌日の大阪も行きたかったけど金銭的に無理だった。無理をしても行くべきだったと思っている。

横浜はプロショット映像がCSで放送されたし、横浜大阪ともアンコールシリーズで発売されたのが嬉しい。
08年の武道館ライブもまだ発売延期という認識で決して諦めていません。

「夢の島少女」の深層 (11) 入水する女の記憶

少年期に自分自身が溺死しかけたという体験とは別に、もうひとつ佐々木のなかで川と生死を結び付けているものとして、〈入水女〉の存在がある。

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(「四季・ユートピアノ」より)

この入水女は、やはり佐々木が七色村に疎開していたときに目撃した。「無季~持続する川の移動の中から~」(『放送批評第一〇三号』一九七七年二月号)のなかに、次のような記述がある。

四里離れた分校場へ行く途中に、小屋があり、アマという頭のおかしい若い女の人が一人で住んでいた。(中略)どこから来た人か、分らなかったが、きれいな人だったのを記憶している。北山川から、着物のまんま、ずぶぬれになって出てくるのをよく見かけたが、何のために川へ入るのか、分らなかった。

また佐々木は『ドラマ』誌に連載していた「脚本と真実の周辺」の第六回(一九八五年五月号)でも、この女について回想している。

最も鮮明な想い出は、毎日朝と夕方に、浴衣姿のままで、川に入る女の人のことだ。彫りの深い顔だち。色白の美しい女の人で、不幸があって記憶を喪失しなっていた。川に入った姿は少年の私の目には魅惑的だった。当時私は母と離れ離れだった。母がどこに居るのかわからなかった。

この入水女は、ひょっとすると夫に先立たれた戦争未亡人だったのかもしれないが、詳しいことはわからない。同様の人物は『七色村』(一九八九)にも登場し、けい子という名前を与えられている。このけい子ははっきりと戦争未亡人として描かれている。
どちらにしても、単身疎開して孤独の中に身を置いている佐々木少年にとっては、“頭のおかしい若い女”はどこかシンパシーを感じる存在だったのではないだろうか。次の部分にもそれは窺える。同じく「脚本と真実の周辺」第六回から。

三歳の妹の目。火。川っ淵の入水女。隣の女の人とそっくりの人がこの東京の中に、地方の村にいるのだと思っている。見ようと思えば、いる。(中略)みんな途方もない運命にまき込まれ、言葉も吐けず、目立ちもせずに生きている人が今でもいると考える。私は、また、川を歩いた。川は、人間の目に見えない何かを映し出して流れた。

彼にとって入水女は、自分と同じように周囲から蔑まれ、運命に翻弄されて生きている孤独な人間として映ったのではないか。『七色村』でも、村の子供たちに石を投げつけられているけい子を、少年時代の佐々木を模した主人公の少年が、少し離れたところから寂しげな目で見つめているというシーンがある。
実際のところ、着物のまま毎日のように川に入る行為は普通ではないとはいえ、彼女がしていることは水浴びに過ぎない。しかしその彼女に〈入水女〉という名を与え記憶していることからも、彼女が佐々木少年に与えた印象の強烈さが窺える。戦時中という死が氾濫する状況においてなおである。

『夢の島少女』のトップシーンは、構想の段階ではより、〈入水女〉を連想させるようなものであった。
二〇〇六年、日本映画専門チャンネルが佐々木昭一郎演出の全作品を放送した際、それに伴う特別番組『映像の詩人 佐々木昭一郎 -映像の夢、音の記憶-』を制作した。佐々木と中尾幸世、葛城哲郎、吉田秀夫らとの座談会の席上で、このトップシーンの当初の形が述べられている。

葛城 いやほんとはあの、二、三メートル離れたところに仰向けに浮いててもらうとか言ってたんだけど、そんなことしたら死んじゃいますよとかって、近所のおじさんかなんかがそんとき(僕のところに)来て言ったんだけど。じゃまあね、濡らしとけば、まあ入ったということになってね。
佐々木 そう。ヘドロのすごい川だったんだよ、あそこ。やっぱ入れれば良かったな、今はな。

結局、少女は仰向けに川に浮んでいるのではなく、完成作品のように川べりに横たわっている形となった。

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(「映像の詩人」より)

トップシーン以外にも、入水女は死の匂いとして少女の身体に残存している。それは作品の最後、少女が夢の島に立ち、濡れた髪の毛を指先に絡ませながらカメラを見つめるシーンである。
作品終盤の一連のショットは、セリフも一切なく断片的なカットの積み重ねによって構成されており、バックに流れるパッヘルベルのカノンと相まって非常に印象的な、作品のクライマックスと呼べる場面である。一方で、ストーリーや意味といったものを見出すことは難しい。この場面の脚本をみてみる。

43.夢の島
死んでいる少女、

花が咲いている、

死んでいる少年、

死んでいる少女、

太陽が溶明する、

少女は、太陽の中に消えて行く。

シーン・43では、完成作品では散乱したゴミの上に横たわっていて生死のはっきりしない少女と少年が、「死んでいる少女」「死んでいる少年」と明記されていることに驚かされる。しかし、(09)で述べたような脚本の性質を鑑みると、果たして本当に少年少女が死んでいると言い切ってしまっていいのか判断に困るところではある。
「死」という言葉にしても、このシーンの横たわっている二人からは肉体的な死と一緒に、現実社会との関わりを唾棄してしまったような、脱落感と表裏一体の清々しさを感じられる。

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シーン・43をどのように解釈するにしろ、ここで何かが終わった。彼らが社会を捨てたのか、社会から捨てられたのか、その両方なのかはわからないが、少年と少女は「夢の島」に横たわっている。
続くシーン・44では二人の再生が描かれる。

44.死の国 ―再生
少女は水に濡れている。

少女の頬に流れる水しづく。

少女は、遠くを見る、遠くを見続ける。

少女の再生、少女の永遠。

少女は、かすかに微笑む。

「かすかに微笑」み、濡れた髪に指を絡ませながら「遠くを見続ける」少女は、水と、或いは死と戯れているかのようである。実際には、佐々木と葛城カメラマンに強い印象を与えた、中尾幸世の眼の力強さから発想されたカットかもしれない。
佐々木は初めて中尾に出会った際、少女のイメージを彼女に次のように話した。

十五、六歳の少女で、故郷はあるんだよね。おじいさん、おばあさんはいる。だけど兄弟はない。いきなり東京で働いていて、東京の少年と知り合って、その時自分の記憶が蘇った時に、故郷が思い浮かんだりすると。で、全時間を真剣に生きている女の子の物語ですって言ったんだ、なげやりじゃあなくって。当然、自分を取りまく社会っていうのは、十五、六歳の少女が東京に出て来たら、だいたいすぐ嵌められていくっていうのが常識でしょ。そういう状態もあるし。

また、先に引用した「脚本と真実の周辺」第六回には、次のような一文がある。

大人になってからも苦労して働いている女性を見るたびに、七色村と川の女を想い出す。

「苦労して働いている女性」の延長線上に、本作の少女がいる。「全時間を真剣に生きている」少女を思い浮かべたとき、佐々木の脳裏には入水女のイメージが重なって見えたに違いない。
冒頭の川べりのシーンと同じように、少女は赤いワンピース姿で、「水に濡れている」。冒頭ではずぶ濡れで川から救い上げられ、「蘇生」した少女が、ここでも水に濡れた姿で、死から「再生」する。二つの再生。ドラマはここで循環構造を成す。「少女の再生、少女の永遠」とは、この少女の生死の循環のことを指す。

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カノンが聞こえてくる。

終わりのない永遠のカノンがきこえている。

それは少女そのもの

永遠の少女を流しだす永遠のカノン。

入水女のイメージは六年後、『四季・ユートピアノ』の栄子の母の入水自殺のシーンに引き継がれる。

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(「四季・ユートピアノ」より)

〈2014年の追記〉
どうもこのへんは文章が回りくどくて何が言いたいのか分かりづらい。
夢の島というあらゆるものの終点で死んでいき、再び川から生まれてくる少女、という循環を言いたかったのかもしれない。
もう少し整理が必要だ。

「夢の島少女」の深層 (10) 溺死の恐怖

佐々木の少年時代の記憶から、ここではまず疎開先の川の記憶を見てみる。

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(「紅い花」より)

佐々木には三度の疎開体験があり、一度は戦後疎開である。疎開先は二つで、宮城県仙台平野にある南郷町と、和歌山県と三重県の県境にある七色村である。南郷町には鳴瀬川、七色村には熊野川が流れていた。
それらの川の記憶にはもちろん楽しい思い出も多いが、同時に死のイメージもまた強く結びついているのである。
それは佐々木の後の作品中でもたびたび重要なイメージとして現われるが、初めて作品に表出したのがこの『夢の島少女』の冒頭シーンであるように思う。

川にまつわる死のイメージは如何にして形成されたのか。まず佐々木自身が、川で死に瀕した体験を持つ。彼は著書『創るということ』の、「川の記憶」という章段のなかで、疎開先の宮城県にある鳴瀬川であやうく溺死しそうになった体験を語っている。

もうひとつ疎開していた宮城県の仙台平野に鳴瀬川っていうのが流れてる。(中略)そこで溺れかけたことがある。(中略)その鳴瀬川で得意になって泳いでた。(中略)ある時、向こう岸まで行こうと思ったんだ。で、泳ぎはじめて、平泳ぎでずーっと行って立ち泳ぎをやろうとしたら足が立たない。その瞬間ビックリして、水を飲んじゃった。で、何を思い出したかっていうと、おふくろのことだった。やっぱり「おかあさん」って言ったらしい。友達のことは思い出さなかった。必死で、ああいうのを本当に必死っていうんだけど、岸に這い上がって気が付くまでの記憶がないんだよね。泳いで岸に這い上がってああ苦しかったって。で、やっぱり、おふくろのことを思い出すんだなって、その時に思った。それが鳴瀬川。

また、『夢の島少女』制作開始とほぼ同時期に執筆されたと思われるエッセイ「空想錯誤」(『放送批評第七十二号』一九七四年二、三月合併号)でも、べつの疎開先の川での体験が語られている。
前述の鳴瀬川のある宮城県へは、母親と妹との三人で疎開した佐々木だったが、一家でいったん東京に引き揚げたのち、佐々木一人だけが母の姉に引き取られることになった。今度の疎開先は、和歌山県と三重県の県境を流れる熊野川の上流にある七色村である。
その七色村での体験が、「空想錯誤」では語られる。自分ひとりだけが母親と妹から引き離されての生活であり、『創るということ』で語られている宮城での体験よりも悲愴感が強い。

私は毎日のようにかばんに蛇を入れられた。裸にされ川に投げ込まれ何回も死にそこなった。そのたびに犬かきをしてはい上り、大量の水を吐き出した。

ここでも川は死の恐怖と結び付いているが、さらにここには屈辱感や孤独感も加わっているとみてよいだろう。
これらの体験は、死という漠然としたものへの恐怖であると同時に、「大量の水を吐き出した」とあるように肉体的に苦痛な体験でもあった。肉体的な苦しみの記憶は、冒頭の川のシーンよりもむしろ、少年がアパートで少女の蘇生をはかるシーンの源流となっているのかもしれない。
再び脚本を参照してみると、生への強い執着が感じられる。

少年は、少女のずぶ濡れの

ワンピースをぬがす、

髪の毛をふく、

体をたたく、裸の背中をたたく、

たたいて、回復させようとする。

「大丈夫?・・・・」
少女の白い肌、白い胸、

少女は、一瞬、我に帰る。

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溺れたものの服を脱がせ、「裸の背中をたたく」イメージは、本作以降、『四季・ユートピアノ』にも登場する。
これらのシーンの演出は実にリアルで生々しく、観るものに強い印象を残すものである。同様のイメージが幾度も自作中に顔を出していることから、少年時代の佐々木にとって川で体験した死の恐怖は強烈な体験だったに違いない。

ビートたけし「菊次郎とさき」

殿が両親を追慕する短篇2編を収めた『菊次郎とさき』。
表紙は92年の「平成教育テレビ」でさんまさんから「たけしさんこれ僕いけないと思うよ」と言われた”だったマン”時代の写真を使用。

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志ん朝師匠のお姉さんが描いた本を思い出すような下町の人情模様で、菊次郎さんもさきさんもエキセントリックな面が強調されてはいるが愛せる下町のおじちゃんおばちゃんとして描かれている。
ただおそらく筆致をソフトにしてあるので、実際の状況は相当苛烈だったはず。
息子達からも、いわゆる〈父殺し〉の対象と最初から見なされていないような菊次郎さんが哀しい。たけしだけはそんな父に親しみを(ほんの少しとはいえ)覚えたりもしたようだが。

最期の章「北野さきさん死去」は、母親の死を客観視するためにあえてこのタイトルをつけたらしい。「浅草キッド」で深見師匠の死を新聞記事の引用で突き放して描いてみせたのを思い出す。常に自分に溺れるのを恐れている観察者としてのたけしがそこにいる。

あとがきで大さんが笑わせてくれる。種明かしすぎな気もするが。

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