「夢の島少女」の深層 (18) 龍村仁「海鳴り」

もうひとつ、葛城哲郎と『夢の島少女』の関わりを考える上で重要と思われる番組がある。龍村仁演出のドキュメンタリー『人間列島・海鳴り』(一九七二年)がそれである。

47年、ドキュメンタリー『海鳴り』では、一つの土地に腰を据えたこともあって、風景と人間と伝説に身をひたしながら、はじめて、撮影におけるデッサンとでも云うべきものを試みてみた。これは、結果的に、49年、ドラマ『夢の島少女』のための習作ともなった。

この『海鳴り』は当初一時間の番組として編集されたが、局内からの反発により、三十分に再編集されて放送された。おそらく一時間版のフィルムは現存しないだろう。
『海鳴り』の一時間オリジナル版を観た斉藤正治は、『シナリオ』(一九七五年一月号)に、「海鳴り -セピア色の世界」と題した評論を発表している。この文章から、漠然とだが『海鳴り』の姿を想像することができる。

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私の見た『海鳴り』は、放送された三十分のテレビ番組ではなく、龍村仁がはじめに完成した一時間のそれである。(中略)
『海鳴り』の構造はまことに興味深いものを提示している。外房の漁村を表現するために、彼は大胆なイメージの重層をはかった。まず構造から見てみよう。
基調になっているものは、当然のことながら、漁村の風景や、住民たちの姿だ。(中略)
進水する船、荒れる海、未完成のまま放置されているイケス、花嫁行列と、赤子の宮参りなどの村の風景の点描、安息を願っての浜辺での食物供養もあった。人と風景による村の日常的・可視的な現況部分である。

『海鳴り』は千葉県銚子市のある漁村を舞台にしている。この外房の漁村風景にみられる「花嫁行列」や「食物供養」といったモチーフも、葛城の内部に蓄積されていったのだろう。『夢の島少女』にも類似のモチーフが散見される。
また、『海鳴り』の舞台が『やなぎ屋主人』、『ねじ式』等でつげ義春が好んで描いた房総であることも、制作者間でのイメージの伝達を考える上で興味深い。

『海鳴り』に見た三番目の構造は、実際には存在しなかったことを、実際あったかのように仕掛けて、漁民の日常性を衝撃する方法である。
「きょう見かけない人、来ませんでしたか」と家々を訪ねていくマイクとカメラ。漁民の無気味がる反応や不思議そうな表情が、暗いセピア色の画面のなかにとらえられる。その部分には「変死体発見報告書」などと聞きとれはするが、ほとんど意味もあいまいなつぶやきもかぶさってくる。
漁村の日常性と、それと同時に起っている事件を地誌的に連結しさらには実在しない不可視なものまで稼動して、龍村仁は『海鳴り』の構造の方法とした。そうすることでいま外房にあるひとつの漁村の総体を浮彫りにするのである。

『海鳴り』の特異性のひとつが、この非ドキュメンタリー的な手法である。斉藤はこれを「呪術演劇的」とも評している。このような手法を用いて龍村が描こうとした「ひとつの漁村の総体」とは、「日常的・可視的」な部分に潜んでいる、閉塞的な共同体意識という「不可視」なものだろう。

龍村はそのような日常性に、「きょう見かけない人来ませんでしたか」とごく原初的な方法で、ウワサとして伝播することで、彼らの眠りをさまし、深層をつついて、漁村の、あるいは漁民の本来的なイメージを喚起したかったのだろう。そこから、彼の見た漁村をドキュメントした。

龍村とともにこの「訪問」を繰り返したであろう葛城にとって、この「漁民の本来的なイメージ」は、八森での『夢の島少女』の撮影にも無意識の内に作用したのではないかと思う。ケンが小夜子を探してさ迷い歩くシーンなどに、『海鳴り』の残像が見て取れる。

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稼ぎ手を集団就職で都会へ出さざるを得ない疲弊した農村の風景と、歴史的な重みを背負った「本来的」な漁民のイメージ。葛城が持ち込んだこれらの要素が、佐々木の想像力との相乗効果により、作品に更なる奥行を持たせたことは間違いない。
次回からは、『夢の島少女』から『四季・ユートピアノ』に至る佐々木の意識の流れを、彼が散発的に雑誌に発表していたエッセイから読み取っていく。

「夢の島少女」の深層 (17) 葛城哲郎と「睦合出稼ぎ年表」

少女の故郷の海が背負っている暗さは、「死の匂い」によるものだけではない。それは少女の故郷である地方の漁村という風土そのものが持つ暗さである。

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両親のいない少女は、他の同級生たちと共に集団就職という形で上京する。
集団就職も、戦後日本の高度成長を考えるときには欠かせない政策のひとつだが、佐々木が、集団就職を描くことによって殊更に同時代性を強調しようとしたとは思えない。彼はそのような大局的な視点からの創作というものを嫌う体質がある。
一九六五年のラジオドラマ『おはよう、インディア』制作時のエピソードとして、佐々木は次のように述懐している。

国家っていうのがもうひとつの主題になってるから、それをあらわすために、韓国の女の人をもう一人、登場させて、国の問題で悩んで、自殺するっていう設定があったんだ。これをぼくはカットした。韓国問題がいやだってことではなくて、「国家で区切ることのできない友情」っていう、全人称のドラマをつくる気がなくなっていた。というのは、そういうことすればドキュメンタリーに負けるし、もっとパーソナルなものの発露なんでね、企画の原点が。
(「おはよう、インディア」『創るということ』)

これは佐々木の作家としての姿勢であり、後の作品にも一貫して当て嵌まる。『コメット・イケヤ』の人間蒸発、『マザー』の嬰児遺棄、『さすらい』の在日米軍基地、『紅い花』、『四季・ユートピアノ』の太平洋戦争など、同時代的なテーマは描かれていないわけではないが、作品の奥深くに通奏低音として沈められているのだ。聴き取れる人には聴き取れるが、主旋律は佐々木の言うように「パーソナルなもの」であり、人間そのものである。
『おはよう、インディア』に、「国家で区切ることのできない友情」というテーマを持ち込もうとしたのは共作者の寺山修司だった。

イラさんていう人がいる、ケンちゃんがいる、ぼくの中にやりたい主題というのが明確にある。だけど作家にはそれを全部、受け渡すことができなかった。作家の領域の中で書いてくるわけだから。
(「おはよう、インディア」『創るということ』)

佐々木と寺山の方法論の違いが現れたのだろう。脚本は佐々木が現場でアレンジして録音することが多かったようである。

では、『夢の島少女』の場合はどうだったのだろうか。佐々木が『夢の島少女』を述懐する際にも、少女の故郷のシーンがどこから発想されたかを語ることはない。前項に述べた、「空想錯誤」とつげ義春の作品にイメージの源泉を求めることはできるが、果たしてそれだけなのだろうか。

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『夢の島少女』の撮影を担当した葛城哲郎は、『映画テレビ技術』(一九七五年八月号)に、「フィクション・テレビ・フィルム -ドラマ『夢の島少女』制作メモから-」と題するエッセイを発表している。この文章は、『夢の島少女』の撮影がどのように進められていったかを窺うことの出来る興味深いものだが、葛城は次回作の準備のために佐々木に呼ばれた日のことを次のように記している。

演出の佐々木(昭)ディレクターと台本担当の鈴木志郎康氏が”ちょっと話があるから”と顔を出したのは、NHK放送センター10階にある、狭苦しいフィルム編集室の一室だった。昭和49年2月、そのとき私は、明るい農村 “村の記憶” -睦合出稼ぎ年表-という番組の編集に没頭していた。(中略)
 しかし私は、担当ディレクターの真しで粘り強い態度に牽引され、番組のイメージにあまり強く結びつけられていたので、ドラマの打合せに現われた二人の話を聞いていても、このドキュメンタリー番組の続編をつくるような気分を変えることができなかった。ディレクターが少女について語り、台本担当者が東北の風土について語った、ということもあるかもしれないが、それは、ごく自然な成行きなのだった。

『明るい農村 “村の記憶” -睦合出稼ぎ年表-』の編集作業中だった葛城は、佐々木と、台本担当の鈴木志郎康に物語の概要を聞かされても、『睦合出稼ぎ年表』の「続編をつくるような気分を変えることができなかった」という。
葛城にとってこのドラマは、まず「農村から出稼ぎに出てきた孤独な少女」というイメージが先行していたのではないだろうか。東京での少女の孤独に意識を向けていた佐々木との、微妙なズレが垣間見られる。
では、『睦合出稼ぎ年表』とはどのような番組だったのか。同じ葛城のエッセイから引用する。

少女の身売り、出征、出稼ぎという形で、村を連れ出され、引き立てられ、大都会に吸い込まれた挙句、二度と再び、生きて故郷の土を踏むことのなかった農民の歴史を、”年表”という形式で記録し、かれらをこのような運命に追い込みつづけているものへの告発と抵抗の文集としてまとめ上げた、一中学校教師と、その文集が番組のモチーフとなっていた。

番組は睦合村在住の女子高校2年生を“かたりべ”として登場させるとともに、年表追跡の中に彼女自身のイメージをダブらせていくという構成方法をとり、さらにトークのほか、詩、わらべうた、音楽などの音声テープも同時にダブル編集をしていったために、その作業は、かなり“腕力”のいるものであった。

葛城は、この番組に参加した気持ちをそのまま、『夢の島少女』の撮影まで意識的に持ち越した。それは彼の、従来的な撮影手法によるドラマへの反発心でもあったし、『マザー』、『さすらい』と組んできた佐々木とのコンビネーションがマンネリに陥らないようにとの考えもあったと思われる。
集団就職を捉えるカメラの目線は、佐々木の意識というより葛城の意識が強く反映されたものだったといえるのではないだろうか。

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佐々木と鈴木が東京で主人公となるべき少女を探している間、葛城はロケハンに出発する。行き先は睦合村のさらに北、北秋地方だった。

ともかくロケハンをはじめてくれ、という指令が出たのは、三月初旬だった。(中略)夢の島は、他の番組でも何度も行ったことがあり、掌を指す様に承知している。ためらうことなく、私は東北へ向うことにした。また”村の記録”の上田ディレクターから、「睦合村から更に北へ行ってみてはどうか、いわゆる北秋へ」と提言され、大館、能代、五能線経由で弘前までを予定して、3月14日、上野駅をひとりで出発した。
(「フィクション・テレビ・フィルム」『映画テレビ技術』一九七五年八月号)

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葛城はこのロケハンで、秋田県の北西部に位置する、八森町の風景に魅了される。

大館周辺の小坂鉱山、花岡鉱山を手はじめに、能代から八森町まで行ったところで、五能線を下ってきた演出補と合流した。私たちは、いろんな人と会い、数多くの場所へ出かけたが、いつの間にか八森町、そして五能線沿いの海岸の風景に、すっかり心を奪われており、夢の島に対置されるべき現実の土地として、いつの間にか自明となっていた。山は大きく海岸線にせり出す。細長くどこまでも続き、途切れては現われる集落。トンネルや鉄橋で、かろうじて縫うように走っている線路。海岸の黒い砂と漁具小屋。斜面にしがみつくようにして、いたるところに立つ墓石。漁期を過ぎて、静まりかえっている小漁港、その突堤に立ってふり仰ぐと、古電池分解工場の煙突から、ゆっくりと黒い煙が立ち上がっている。(同上)

完成作品にみられる、少女の故郷の海の暗い気配が、この文章からも伝わってくる。海岸の「黒い砂」、煙突から立ち上る「黒い煙」。色彩を感じさせない、重苦しい風景。八森と五能線沿いの海岸風景は、過疎化の進んでいた当時の漁村そのものだった。
葛城が魅了された風景の暗さは、佐々木の海の記憶のなかの風景と重なる。もう一度、「空想錯誤」から佐々木の記憶を引用する。

黒く曇った空がそのまま海につながっていて風が吹いている。波のうねりの間に間に私の父親の体が見えたり隠れたりして浮いている。黒いボコボコの岩が無数、陸地から海に向って蛇行していて、突端の蛇の頭のような岩の上に坐って下駄をはいた私が海を見ている。

「黒く曇った空」、「黒いボコボコの岩」と、やはり色彩感に乏しく暗い。この二つの風景の類似は、佐々木の構想に対する葛城の理解の深さを示してもいるだろう。結果的にこの八森で、『夢の島少女』の撮影が行われることになり、葛城を魅了した風景は完成作品にも映し出されている。

〈2014年の追記〉
『睦合出稼ぎ年表』もおそらくNHKアーカイブスでの再放送版がライブラリーで鑑賞できるはずだが、なかなか時間が作れずまだ観ていない。本当なら本論を書く際に観ておくべきだったのだけど。なるべく早く観に行くつもりである。

〈2015年の追記〉
葛城のエッセイ中に、”台本担当者が東北の風土について語った”とあるのを見落としていた。少女の背景について鈴木志郎康が語ったのはどんなことだったのだろう。

井上ひさし「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」

ちょっと文章を書きたいと思っているので、なにか参考になるような本をと積ん読の山から掘り起こしたのがこれ。
岩手県一関市で井上ひさしが「文学の蔵」建設基金づくりのためのボランティアで開いた〈作文教室〉の内容をまとめたもの。

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以前読んだ「自家製文章読本」もそうだが、読んだ後に辞書を買いたくなるような本ってのもあんまりない気がする。とにかく井上ひさしの言葉への執念は凄まじい。ここまでいかないと「吉里吉里人」は書けないわけだ(と言いつつ「吉里吉里人」も積ん読のままなので早く読みたいところ)。

非常に共感させられたのは大企業(要はマスコミとか広告代理店)がどれだけ日本語を破壊しているかを痛罵するところ。

よく若い人たちの言葉づかいを批判する大人がいると、わたしは「冗談じゃないよ。日本の企業が、どれだけ日本語をぶっ壊しているか知っているの」と言ってやるんです。(中略)
わたしが怖いのは、力があってお金のある人たちが、どんどん日本語を変えていっていることです。それがわたしたちの生活に、やがて効いてくるだろうということなんです。

この講座が開催されていた頃よりも、井上ひさしの存命中よりも、さらに状況は悪くなってると思う。
センスがないというか、クリエイティブを自称する連中の内輪だけで受けているような言葉がダラダラ垂れ流されている。自分は使わない、ということで抵抗するしかないんだろうが、イライラしてしょうがない。

文章の書き方や日本語についての講義からたまに脱線して、憲法観や戦争体験を語る場面もある。脱線してまで、ということはどうしても語らなければいけない、という気持ちに駆られてのことだろう。さすがに重い言葉である。今だから余計に。
“長期記憶”の問題というより、日本人はタチの悪い健忘症なんだと思う。

井上ひさしは最後に受講生に向かって〈恩送り〉という言葉を紹介する。
全世界共通の、人間の営みの基本を一言で表す言葉が、江戸時代には普通に使われていたのだ。

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いとうせいこう「想像ラジオ」

エッセイとか「見仏記」ばかり読んでるから、いとうさんの小説は「ノーライフキング」以来。

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今、というかいつであっても生きていく上で一番大切なのは想像力だと思う。他者の気持ちを完璧に想像することは絶対に出来ないが、それでも想像することを絶対に辞めてはいけない。自分もしょっちゅう人を傷付けていると思うので偉そうなことは言えないけども、それにしても震災後の状況は酷過ぎやしないかと思うのだ。
どう頑張っても福島や沖縄、在日外国人の人たちの気持ちを完璧に理解することは出来ないけど、だからといって想像することをやめたらおしまいである。現在のこの状況は“おしまい”である。冷笑も傍観もしたくない。でももうどうにもならない、という気持ちも消せない。

この小説も、“想像せよ”と呼びかける。死者の声にも、もちろん生者の声にも耳を傾けよと訴える。直裁的だからこそ迫ってくる。
〈樹上の人〉という言葉自体が想像力を喚起させる素晴らしいものだと思う。
そしてラジオ。とにかくラジオは大好きなので、その素晴らしさは実感として分かり過ぎるほど分かっているつもりだ。ハガキやメールが読まれたときの歓び、パーソナリティとの一体感、いつの間にか他のリスナーが他人ではなくなっている感覚…。本当にラジオは最高なメディアだと思う。

これだけ自分の好きな要素が入っていながら、実は最終章を読んでいる途中で少し醒めてしまった。
多分それはこの章で描かれる〈多数同時中継システム〉がSNSや2ちゃんの実況を彷彿とさせるものだからだと思う。
まったく個人的な感覚だけど、実況しながら、あるいは実況を見ながらラジオを聴いても、一人で聴いているときの半分も面白くないのである。あくまでも聞き手はパーソナリティーと一対一の関係にありながら、他のリスナーを“想像”する、そんな聞き方がベストだと思っているので、他のリスナーの存在がはっきりと明示され、リスナー同士のやりとりなんかも始まってしまうと、どこかラジオの本質がぶれる気がする。

たぶん、感覚が古いんだとは思う。ラジオはほとんどradikoで聴くようになってもツイート欄は見ないようにしてるし。震災当時はSNSを始めていなかったので、それがどういう形で役立ったのかも体験できなかった。(2ちゃんだけは見ることができて、いろいろ情報も得られたのだけど、SNSとは少し違うものだろう)。

自分の中で今まで作ってきたラジオとの関係と、緊急時のSNSも含めたラジオとの関係がうまく整理できてないので、それがすっきりしない読後感に繋がったのかなぁと思う。
物語は感動的だ。感動的ではあるけど、どうしても想像ラジオのリスナー達の“ノリ”というか、それが同調圧力を思わせて居心地が悪くなる。7月の頭に官邸前に行ったとき感じた居心地の悪さと同質のもの。

他者の気持ちを想像することが大切なのは痛感していながら、連帯の気配にはすぐ距離を置きたくなる。それとこれは別のことだとも思うのだが、結構難しい。

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朝吹真理子「きことわ」

大学時代、その年から数年前までの芥川賞受賞作を題材にしたゼミが一年次の必修科目だった。
十二〜三作ぐらいは読んだはずだが、十二〜三作ぐらいはつまらなかったので、〈芥川賞受賞作=つまらない〉という公式が頭の中にしっかり刷り込まれてしまった。吉田修一の「パーク・ライフ」が多少マシだった気もするが、単に自分の担当で読み込まざるを得なかったので覚えているだけかもしれない。
確かに安部公房も石川淳も松本清張も安岡章太郎も受賞してるが、時代が違う。そもそも石原慎太郎が選考委員にいるような賞がまともなわけはないのだ。
そういう認識なので、近年の芥川賞受賞作というだけでナメてかかる(というか読まない)癖が付いてしまった。

kikotowa

じゃあなぜこの作品は読んだかというと、友川かずきが絶賛してるのをツイッターのbotで知ったからだ。ツイッターもたまには役に立つ。ハードルを5センチぐらいまで下げていたのもあるが、これは紛れもない傑作。

はじめはまだるっこしくてリズムが合わない文章だと思ったが、いつの間にか引き込まれていた。文庫カバーにある通り、“小説の愉悦に満ち”ている。
終始白昼夢のような淡い日常が続く。アンゲロプロスの「永遠と一日」のような浮遊感。画を想像するのがとにかく愉しいので、絶対に映画化なんかしないで欲しい。

かといって具体的にどう好きなのかを説明するとなると難しい。感想を書くと霧散していきそうな感想が手許にある。
とりあえず、夏に読みたくなる小説が増えたことが嬉しい。芥川賞を毛嫌いするのもほどほどにしよう。

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安部公房「けものたちは故郷をめざす」

新潮文庫に入っている安部公房作品のラインナップはどのように決まってるんだろう。
絶版のままの作品もあるし、絶版ではなく版は重ねていてもカバーが新装されないものもあるし、その差がよく分からない。
いっこうに新装版が出ないので『無関係な死・時の崖』は絶版になるのかと不安になったりする。『題未定』が文庫化されるようなことがあれば、現在絶版になっている作品も復刊してほしい。

『けものたちは故郷をめざす』も、現在は文庫のラインナップから落ちている。それでいて古本を手に入れる気がなかなか起きなかったのは、公房の大陸を舞台にした作品(『終りし道の標べに』『鴉沼』あたり)が苦手なのもある。
それがたまたま神保町で2冊も購入してしまったので、ようやく読む気になった。

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で、やっぱりちょっと苦手だ。物語がやや冗長な感じもする。
歴史背景や地理的な知識が乏しいのもあるけど、想像力が足りないのかもしれない。だったら落ち込む。
ただ、生理的感覚に訴えてくる寒さや飢えの描写は作者にしか描けないもので、やっぱりさすがだと思う(だからこそ余計読んでて辛いのだが)。
そういう意味では『砂の女』に直結してる作品なのかもしれない。でももう一回読む気になるまではしばらくかかるだろう。

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「夢の島少女」の深層 (16) つげ義春・Ⅱ

佐々木昭一郎とつげ義春の関係を語る際には、つげから佐々木への影響に注目されることが多いが、そもそも両者は表現者として似た資質を持つ。

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つげの略歴を振り返ってみると、彼が佐々木と同じような少年時代を過ごしたことがわかる。
つげ義春は一九三七年(昭和十二年)十月三十一日、東京市葛飾区に生まれた。四歳まで、伊豆大島で暮らしていたが、五歳のとき、母親の実家のある千葉県の大原町に引っ越す。父親は東京の旅館に出稼ぎに行っており、大原に住んでいた一年弱の間、一度も帰ってこなかったそうである。この大原で、つげは幼稚園に入園するが、集団生活に馴染めずに三日で退園してしまった。
翌年、出稼ぎ先の旅館で父親が亡くなる。死因はアジソン病だった。

死の直前の父は錯乱状態だった。出稼ぎ先の旅館では、営業にさしさわりがあるとみて、父を人目につかない薄暗い蒲団部屋の中に隔離していた。
天井までとどきそうに積みあげられた蒲団の谷間のような隙間に、父はどす黒い顔をして挟まっていた。目はおびえたように大きく見開き、のび過ぎた爪で空を掻くような真似をし、誰も近づけさせなかった。その場の事情を呑み込めなかったぼくと兄は、部屋の入口でぼんやり立っていた。母は、「お前たちのお父ちゃんだよ、よく見ておくんだよ」と絶叫しながら、二人をひきずるように父の目の前に立たせた。ぼくは、ただ事ではない恐怖を覚えた。おそらく生れて初めての恐怖であったと思う。翌朝、父は昨日と同じように蒲団の間に挟まり、しゃがんだまま死んでいた。
(「断片的回想記」)

死の間際にいる父と絶叫する母。佐々木のように死そのものを目撃したわけではないが、幼少の頃に肉親と凄絶な別れ方をしたという点で、つげと佐々木は共通している。もっとも、戦時中に少年時代をおくった彼らの世代にとっては、珍しいことではなかったのかもしれないが。
つげは佐々木とおなじく母子家庭に育つこととなった。

一家は翌年、葛飾区立石に転居した。翌年、つげは小学校に入学するが、空襲は激しさを増しており、休校になることが多くなってきた。学校嫌いだったつげは休校になるのが嬉しく、毎日空襲があればよいと思っていたという。
彼はこの頃、近くの高射砲連隊がB29を撃墜する様子を目撃している。つげと佐々木の戦争体験の違いは、空襲に対する意識にある。
つげは空襲を体験してはいるが、この事件があってから、高射砲連隊が頼もしい見方のように思えて、「空襲の恐さを知らないで」過ごすことができたという。空襲の中を逃げ回った佐々木とは対照的だ。

やがてつげも新潟県の赤倉へ集団疎開することになったが、やはり集団生活には馴染めなかったようである。

ちょうどその頃から、ぼくはタチの悪い赤面恐怖症になってしまった。この奇癖のおよぼす影響は、すべての将来をろくでもないものに決定してしまった。とにかく、人に名前を呼ばれるだけで、不意に背中をこづかれたようにギクリとなり、赤くなるぞ赤くなるぞと思うと、顔中が火事のようになり、口をきくことも笑うこともできなくなってしまうほどで、できるだけ人前では目立たないように常に気を配っていた。学校でも国語の朗読や唱歌の時間になると、だんだん自分の番が近づいてくるのが耐えられず、急に仮病をつかったり用足しに立ったりして難をのがれるようにしていた。
この傾向は、のちに六年生頃にはもっと著しくなり、秋の運動会のとき、大勢の人の前で走るのが恐しくて自分の足の裏をカミソリで切ってしまった。怪我をしたと偽れば、運動会に出なくてすむと思ったのでそうしたのだが、傷は計算以上の大きさになり、数日も治らなかった。
(「断片的回想記」)

つげは赤面恐怖症に苦しめられ、その後長きに渡ってノイローゼに苦しめられることになる。このような屈折した思春期を過ごしたこともまた佐々木との共通点であり、二人のその後の創作に強い影響を及ぼしたと考えられる。

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『放送批評第九十三号』(一九七六年三月号)に掲載された佐々木のエッセイ「脈らくなく流れる川を見つめながら つげ義春と私 −劇画シリーズ『紅い花』への出発−」から、一部を抜粋する。

「佐々木さんの『夢の島少女』、あれこそ記憶といえば記憶ですね。ぼくは忘れられないんですあのフィルム、ぼくも確かにあの少女に会ったはずだ、と考え込んでしまう。(後略)」

この人も、記憶が芽生えてから、自分の目でモノを「見」「感じ」とってきたことだけを書き続けているのだ。私も、私自身の記憶から出発した。私の記憶にある最も古い風景は、黒い海に、人影が見えかくれして浮いている図だ。それは私の父だ。(中略)記憶はノスタルジーだけではないのだ。つげ義春もその頃、同じような海に立ち戦後をかけぬけたはずなのだ。

以上の引用を読むと、創作における「記憶」の役割について、佐々木とつげは同じような考えを持っていることが窺える。
「記憶」は、決して単なるノスタルジーではなく、創造の源であり、現在に対して働きかける力を持つ。そして、誰かの記憶は、同時代を生きた誰かにも追体験できる。根源的な部分で人々と繋がっているもの、それが佐々木とつげにとっての「記憶」である。

佐々木の記憶の海は黒い岬を挟んで、つげの記憶の海に繋がっている。その海のイメージを、佐々木は『夢の島少女』のなかに描いたのだろう。

次回は、「夢の島少女」に大きな影響を与えたもう一人の他者、葛城哲郎について考察してみる。