Happy 70th Birthday, Eric Clapton.

ちょっと前にレココレの『Slowhand』特集号を買ったので、最近Claptonを聴き直していたら今日が70歳(!)の誕生日だそうな。
おめでとう!

先日もJohn Renbournが亡くなったばかりだし、この年代のミュージシャンの訃報が増えてきて、しょうがないことだと分かっていても悲しいものは悲しい。だから元気な人達には長生きして好きな音楽を楽しんで欲しい。いまさら新境地なんて誰も期待してないし。悪い意味じゃなく。
どうしても70年代後半のアルバムばっかり聴いてしまうけど(といっても実は『Slowhand』はそれほどでもない)、最近80年代の音が気持ち良くなってきたので、迷走してる時期のアルバムも楽しめるかもしれない。聴いてみよう。


アルバムでは『No Reason To Cry』が一番好き。

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高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」

130millions

おなじ文章指南ものでも井上ひさしは「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」。
かたやこちらは「一億三千万人のための小説教室」。BIG3ゴルフの前口上みたいで景気がいい。

高橋源一郎の小説は読んだことがない。身も蓋もない。なんとなく小説家というより思想家みたいなイメージがある。

本書も小説をいかに書くかがテーマ。そうなるとやっぱりたくさん文章を読みましょうということになる。
当然ながら引っ張ってくる文章は井上ひさしとは全然違うので、それもまた面白い。名文を読む、というより文章を楽しむ、著者の言葉を借りれば〈小説と遊ぼう〉。
どんな文章でも自分なりに楽しもう、その上で自分の好きな文章を真似てみよう、と書くと陳腐だが、著者が書けば説得力がある。
で、“小説は捕まえるものだから、さあ書こうと思って書けるものじゃない。そのときを待つだけ”、となっておしまい。
投げやりにも思える終わり方だが、まぁそうだわなと思う。

小説に限らずなにかしらの着想はあっちから来るものだし、捕まえられるかどうかは自分次第。寝かしておくかすぐ手を着けるかも自分次第。
何かを創る楽しさは、その過程にももちろんあるけど、着想が来る瞬間の快感というか一種の躁状態がほとんどを占めてると個人的には思う。
あの快感を味わいたくて日頃から何か思いついたら書いたり録ったりしているだけのことで、創作ってのも能動的なんだか受動的なんだか分からない行為だ。

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「ランボー詩集」(堀口大學訳)

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海外の詩を日本語訳で読むことにどれぐらい意味があるんだろう。
いや、もちろん意味はある。むしろ翻訳の過程で生じるズレもまた創造的行為だとすら思う。
ただ、原詩を忠実に読みたい場合にはこのズレは致命的だ。

小説とか随筆であれば、(例外が山ほどあるのは承知で)大雑把に言葉はイメージを表す手段と言ってもそんなに差し支えないと思う。
でも詩となると言葉そのものが鑑賞の対象になるから、別の言語に訳した時点で別物になってしまう。
いくら日本語訳された詩を読んだところで原詩を読んだことにはならない。
元の言語が持つ響きや音韻を意味を変えずに他言語に訳するなんて不可能だ。

だからこれも“堀口大學の”「ランボー詩集」であって、“ランボーの”「詩集」を読んだわけではない、と思う。

今回は一冊読み終わるまで常にそんなモヤモヤが晴れなかった。なぜかといえば目次に並んだ二つの題名のせい。

「みなし児たちのお年玉」
「『居酒屋みどり』で」

居酒屋は個人的に引っかかっただけで特に変な訳ではない。でもフランスにお年玉ってあるの…?
気になって調べたら一応お年玉と似たような習慣はあるらしい。でも当然日本の習慣とは違う。となると原詩ではなんと書かれていたのか気になる。中也も金子光晴も“お年玉”と訳したようだ。(小林秀雄は?)
細かいことは考えずに、お年玉と訳せば原詩のニュアンスに最も近づけると考えればいいんだろうけど。

訳詩は訳であると同時に詩でもありたい〉と堀口は書いている。
訳と詩を同時に兼ねることの難しさが分かる気がする。

肝心の詩はどうだったかといえば、後期の詩にいくつか良いなぁと思えるものがあっただけであまりピンと来なかった。
『地獄の一季』を抄訳で読んでもしょうがないとは思うけど、じゃあ全訳を読めば良さが分かるかといえば自信が無い。

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R.I.P. John Renbourn

ツイッターは訃報だけはよく教えてくれる。
ジョンまで逝っちゃうとは…寂しいね。
プレイスタイルで言えばバートのほうが好きだけど、ジョンも名盤が多い。というかこの2人は水準以下の作品が一切無い。
『Faro Annie』『The Hermit』は特に眠り際に聴くととても気持ちいい。


それにしても一度は2人のプレイを生で観たかった。
R.I.P.

スウィフト「ガリヴァ旅行記」

gulliver

ガリヴァが訪れたのは小人の国だけじゃないことは一応知っていたし、漱石がスウィフトを高く買っていたのも漱石自身の言葉で読んだ。

それにしても…だ。
それにしてもここまで厭世的で悪意に満ちた作品だとは思わなかった。
前半の二章(小人国と大人国)だけを抜粋して子供向けに翻案しちゃうのも、よく考えるとなかなかすごい話だ。
どう考えても後半の悪意に充ち満ちた二章を読まないと「ガリヴァ旅行記」を読んだことにはならない。

とはいえ前半だって毒まみれである。
大人国での描写は特にリアリティー重視というか過剰なデフォルメというか。
身体が大きいぶん、肌の汚なさや悪臭も凄まじいし、ガリヴァを大人のおもちゃ扱いする婦人までいる。
人体縮小(巨大化)ものでは省略されがちな、臭いや排泄行為まで細かく説明される。

実際に巨大な人間がいれば体臭もキツイだろうし、人形サイズの人間がいればおもちゃにするかもしれない。
肝心なのはそれがSFとしてのリアリティーを高めるために描かれてるんじゃなくて、すべてスウィフトの人間への嫌悪感に由来しているだろう点。人の尊厳を貶めようという悪意と、読者を不愉快にしてやろうという悪意の産物に違いない。

人間嫌いは、人間を観察する能力がありすぎて人間嫌いになるんだと思う。スウィフトも然り。
ただスウィフトの人間嫌いは普通のレベルを超えている。人類史上いちばん人間を嫌った人間じゃなかろうか。

最後に訪れるのはフウイヌム(馬)の国。
フウイヌムの話し方とか思考体系も、それはそれで当時のイギリス上流階級を諷刺したものではあるらしい。でもそんなことが霞んでしまうほど、ガリヴァと彼の主人になったフウイヌムの会話からは人間一般への嫌悪が噴出している。
(ガリヴァが丸め込まれてる面もあるんだろうけど)

フウイヌムの国を追い出されてガリヴァはイギリスに帰ってくる。
すっかりヤフー(人間)を侮蔑の目でしか見られなくなったガリヴァ(しかも自分自身もヤフーだ)にとって、ここからの余生は地獄じみたものでしかなかったろうし、それはスウィフトにとっての現実だった。

ちゃんとした注釈書とつき合わせて読んだら相当面白くなるんだろうなぁと思う。勉強したい。

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平田オリザ「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」

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タイトル通り、他者と分かり合えないことを大前提に、共有できる価値観や方法論を探っていくのが本来の意味での〈コミュニケーション能力〉なんじゃないの、というのが著者の主張。
とても論理的、実証的で分かりやすい。

コミュニケーション能力だなんだと大仰に言われるが、生活していく上で必要なマナーとか知識みたいなもんなんだから、最低限押さえておけばいい、なにも自己啓発や人格否定までして手に入れるようなものじゃない、と言ってくれて個人的には楽になる。
逆に〈コミュニケーション能力〉って単語に過剰に拒否反応を示すのも、それを過剰に珍重する人達と変わらないので改めないとなぁと思った。

コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない。その程度のものだ。その程度のものであることが重要だ。

まっとうな大人がまっとうなことを述べているだけだが、そういう本ほど実は珍しい気もする。
楽観的でも悲観的でもなく、それはそういうものとして引き受ける大きさというか、成熟した大人の態度というか。
やたらと声を張り上げたり手を繋ごうとしてくる連中とは対極にいる。信頼してもいいと思えるのはこういう人だ。

日本人はもう少し大人になれよ、ということだろう。毎度のことながら。

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フェディリコ・フェリーニ「甘い生活」@早稲田松竹

Ladolcevita

『甘い生活』
『道』が不完全燃焼だったぶん、こっちはオープニングからフェリーニに望んでいるものそのものといった感じで盛り上がる。
冒頭のキリスト像とかラストの魚とか、いろいろと象徴的なモチーフが出てくるし、細部までは分からなくても、こう考えれば収まりがいいんだろうなっていう解釈はそれなりに思いつく。 でもただひたすら退廃的で狂躁的なシーンの連続に身を委ねてるほうが(そういったものへの批判的な側面もあるけど)、“人間なんてそんなもの”という諦観を、もっと言えば『8 1/2』の〈人生は祭だ〉というセリフに通じるものを感じさせてくれて気持ちいい。
自分にとってのフェリーニの魅力はどこか退廃的なところ。
結局人間なんて騒いでたと思ったら急に死にたくなって本当に死んじゃったり、近しい人が死んだら落ち込むけど他人が死のうが平気だったり、セックスさえ出来ればそれでよかったり、その程度のものなんだと思う。

『道』も『甘い生活』も人間に対する視線は肯定的だけど、肯定の仕方が若干違っているように思える。
〈誰だって生きているだけで何かしらの役には立っている、だから生きよう〉なのか、〈もともと生きていることに大した意味はない、だから生きるも死ぬも自由〉なのか。
個人的には後者のほうに救われる。

そういえばニコが出てた。そういえばで済む端役ぐらいの印象しかないけど。
それよりもアヌーク・エーメが好きなので、出番が少なく感じられたのが残念。サングラスでクルマを飛ばす彼女の格好良さ!いきなり娼婦の家に行ってマストロヤンニと寝る飛び方も素敵。

ニーノ・ロータの音楽もエレピが効いてていかにも60sな感じで凄まじくカッコいい。