伊福部昭の芸術

最近、ノイズとかアンビエントってことに逃げたような曲ばかり作っていて、さすがに飽きてきた。
どうせならちゃんと作曲を勉強したいし、楽譜を読めるようになりたい。というか書けるようになりたい。

なので、できるだけ易しそうな本を選んで楽典を勉強してるのだが、面白い。
ギター弾き始めた頃にもその類の本に手を出したことがあった。でもよくわからなかったのですぐに諦めた。
それから15年ぐらい経って、理論無視の素人作曲にも良さはあるけどそれだけじゃ保たないよねってことが身に沁みて分かった。
ちゃんとした語り口の本なら体に入ってくるもんなんだなぁと。

ほんの少しでも拍子や音階のことが分かってくるようになると、伊福部先生の作品が面白くてしょうがない。

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名盤中の名盤『伊福部昭の世界』(1977)。

特撮もののサントラは、〈ゴジラの音楽〉っていう原体験を抜きにして今の耳で聴いても、ジョー・ミークなんかにも通じる音響的な面白さがある。大友良英が言うようなオーケストラのヘタウマさと音圧も凄い。

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片山杜秀編集の文藝別冊を読みながら、『伊福部昭の芸術』シリーズも聴き返している。
転調と変拍子の嵐で、実際の調と拍子が自分の耳ではまだ分からない。しかしここまで本当の意味でオリジナリティの高い人は滅多にいないと思う。

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文藝別冊の上野耕路さんインタビューで、テリー・ライリーも伊福部先生宅を訪ねたことを知った。凄い…。
上野さんは「リトミカ・オスティナータ」をフェイバリットに挙げていた。聴いたことがなかったので、『伊福部昭作品集』を買った。

駅前ブートみたいなヒドいジャケだが、内容は最高。「リトミカ」も一発で好きになった。
伊福部先生ご自身はピアノはあまり好きじゃないと仰ってたけど、これは「ピアノと管弦楽のための」名曲。


脱帽。本当に凄い。

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国会前

国会包囲、昼間は用事で行けなかったので夕方から合流。

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さすがに人は減ってたけど涼しくて良かった。

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のべで30万人以上集まったとか。でもこれで満足したらお終いだよ。
「歴史に残るデモになった」とかそんなことはどうでもいい。それを言うなら目標を達してからだ。

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E.W.サイード「知識人とは何か」〈第四章〉〜〈第六章〉

第四章は〈知識人とアマチュア〉。
サイードによる知識人の定義に使用される“アマチュア”の意味について。

said

十九世紀における知識人の表象は、知識人の個性を強調する傾向にあった。(略)ところが、一般に知識人とかインテリと呼ばれる集団に属する男女(略)、いうなれば意見を求められ金を支払われる人びとの数が増えることで、独立した声としての個人という知識人のありかたがはたして維持できるかどうかが問われずにはいられなくなったのだ。
これは途方もなく重要な問いかけであり、現実主義と理想主義の双方をにらみあわせたかたちで考える必要がある。

この問いに対して、サイードは“どのような人間も、社会によって規制される”と述べる。だからといって妥協すべきではない、とも。
十九世紀の知識人像のように超然とした個人でいることも、求められていると予想される意見を述べるだけの専門家になることも避けなければならないという。
現実として付きまとう役職や専門家としての立場、それに付随する様々な圧力と、普遍的なものに依拠して思考する亡命者としての立場を両立させるときに、有効なのがアマチュアという立場なのだろう。

その蔓延ぶりにかかわらず、そうした圧力にゆさぶりをかけることはできる。そのようなゆさぶりをかけるもの、それをわたしはアマチュア主義(アマチュアリズム)と呼ぼう。アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。

第五章以降では、そういった圧力のなかの一つ、専門分化について特に詳しく述べられている。第五章のタイトルは〈権力に対して真実を語る〉。
サイードは第四章の最後で、〈知識人が権威と権力と関係を持つことはどうしても避けられない〉と述べるが、ならばそれらとどういう関係を保っていくべきなのか。

客観性を構成しているものに関するコンセンサスが消滅したのを嘆くことは正しいとしても、同じ理由から、自己充足的な主観性へと、ふらふらとずれこんでゆくようなことがあってはならない。また専門職とか国民性のなかに逃避することは、たんなる逃避にすぎない。(略)

私見によれば、知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げ込むことである。(略)

知識人にとって、このような思考習慣はきわめつけの堕落である。

当たり前のことだが、当たり前のことができていない自称知識人や自称メディアが多いことを再確認する。

すでに自分が属するものを優先するような姿勢をつらぬこうものなら、和解などとうてい望めない。「われわれの」文化の栄光についての、あるいは「われわれの」歴史の勝利についての鳴りもの入りの宣伝は、知識人が心血をそそぐような行為ではない。とりわけ、自国民を顕彰するような、このような還元化は、多くの社会が異なる人種や異なる民族的背景からなりたっている現代世界において、およそ実情にそぐわないというほかない。

いろいろな方々に突きつけてやりたい文章でもある。

第六章は〈いつも失敗する神々〉。ある思想を崇拝すること、そこから転向することへの批判。
崇拝は盲目的な行為であって、それだけで知識人云々以前の行為だと思う。しかも自分も陥ってそうな(簡単に陥りそうな)ところがまた怖い。

転向と変節には一種独特の不快な美学があること、また、個人的レヴェルで考えるとき、体制へのにじり寄りと背信行為とをおおやけにすることが知識人のなかに一種のナルシシズムと露出趣味をうみだすこと、そして、そのようなナルシシズムと露出趣味は、知識人が、みずから奉仕すべき集団とか社会過程といったものとの接触を失ったことのあかしであるということだ。

わたしはこう問いたい。あなたたちはなぜ、神が存在するなどと、まがりなりにも信じたのか、知識人であるくせに、と。またさらに、こうも問いたい。あなたたちが最初いだいていた信念とその後の幻滅を、これほどまでに重要なものと想像する権利を、いったい誰があなたたちにあたえたのか、と。

リチャード・クロスマンの『失敗した神』(『神は躓く』)は読んでないが、サイードの要約から、冷戦期の知識人の〈共産主義への傾斜→幻滅→反共産主義への回帰〉にまつわる懺悔録、と捉えておくことしかできない。
が、二つめの引用はカッコイイし、刺さる。思い上がるなよ、と。
訳者はあとがきで、〈すべての人間が知識人であるということではない〉と断りつつ、〈知識人論としても出色の本書は、同時に、読者そのものをも議論の対象としている。本書の読者もまた、知識人としての責務から逃れられない〉と書く。だから自分に引き寄せて考えることも完全に間違ってはいないと思いたい。だからこそ、刺さる。

最後にもうひとつ。

自分自身のためだけにとか、純粋な学問や抽象的な科学のためだけに書くと公言してはばからぬ知識人は、知識人として信頼されることはないし、そもそも信頼してはいけないのだ。(略)
自分の書いたものが社会のなかで活字になった瞬間、人は、政治的生活に参加したことになる。したがって、政治的になるのを好まないのなら、文章を書いたり、意見を述べたりしてはならないのである。

これは、知識人だけ、“政治的な”文章や意見だけに限らず、すべての表現に対して言えることだと思う。
政治的な発言はしたくないというミュージシャンやら、好きなタレントがそういう発言をしたのを聞いて幻滅した、みたいなグチをよくみる。
でもすべての表現は、〈政治的であること〉からは逃れられない。
政治性を表面に出していない作品でも、作者がそうした“意図”が必ずあるわけだし。“語らない”という意図そのものだって政治性を孕んでいると思う。

鑑賞する側も「どうしてこの表現を素敵だと思ったのか」と同じように、「なぜ直接的な表現は避けたのか」「どうして言及しないことを選んだのか」を自問して掘り下げるものだと思うんだけど、そうじゃない人も多い。

なんでも掘り下げる過程がいちばん愉しい。

E.W.サイード「知識人とは何か」〈第三章〉

『知識人とは何か』読了。第三章と第四章は特に面白かった。長くなりそうなのでとりあえず第三章だけ。

said

亡命など経験せず、一つの社会で一生暮らす知識人たちも、いうなればインサイダーとアウトサイダーにわけられる。いっぽうには現状の社会そのものにどっぷりと浸かり、そこで栄耀栄華な暮らしを送り、反抗とか異議申し立てだのという意識にとりつかれることもない人びと、いうなればイエスマン。もういっぽうにはノーマン、すなわち社会と角突きあわせ、それゆえ特権や名誉に関するかぎり、アウトサイダーとも亡命者ともいえる個人。知識人をアウトサイダーたらしめるパターンの最たるものは、亡命者の状態である。

あまりにも二項対立的に過ぎないかとも思うけど、その後に続く〈亡命者の状態〉についての記述が説得力に満ちていて、なんというかこうありたいと思わせてくれる。。

つまり、けっして完全に適応せず、その土地で生まれた人びとから成るうちとけた親密な世界の外側にとどまりつづけ、順応とか裕福な暮らしという虚飾に背をむけ、むしろ嫌悪するような生きかたである。

文学や映画の良さは、未知の認識とか不安へと読者(観客)を連れていって放り出すことにあると思う。
予定調和のカタルシスもあるが、自分はそういうわけのわからないもの、不安にさせてくれるものが好きだ。
絶えず揺さぶって欲しいし、多少の悪意も込めて、他人の認識も破壊したい。

↓ (参考: 安部公房の講演。文学の本質について)

また、亡命者はある対象を、〈あとに残してきたもの〉と〈現実にいまここにあるもの〉の二つの視点から眺めることができ、そこにパースペクティヴが生まれるという。
ある対象を把握するとき、複数の視点を持つのは大切だ。というか持たないと危ない。拠って立つはずの普遍性を見失ってしまう。そういう意味でも亡命者的な視点は重要だとサイードは言っている。

たとえほんとうに移民でなくとも、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる。おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである。

自己欺瞞的な読み方になっていないか自問してみる。でも、知識人にしても表現者にしても、響いてくる人には必ず亡命者的な資質があるという確信もある。少し前に書いた松本隆についてのツイートにも通じること。

とりあえず第三章で紹介されたアドルノの『ミニマ・モラリア』はすぐに買った。序文だけでも面倒臭い文章だが、面倒で嬉しくなる。
もうひとつ、アウトサイダーといえばコリン・ウィルソンだが、あれも難しくて途中で挫折した。正続持っているので、そのうち再チャレンジしてみるつもり。

風街レジェンド2015@東京国際フォーラム

21日の〈風街レジェンド2015〉に行った。

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公演発表の瞬間に、絶対に行くと決めた。
メンバーがすごいのはもちろん、やっぱり“はっぴいえんど”。
細野さんは何度か観たし、茂さんとの絡みもTINPANでこれからも観る機会はあるだろう。でも松本さんがドラムとなると…。
〈All Together Now〉が最後のチャンスだったんだろうと思いながらずっと生きてきた(その翌年生まれ)ので、今回はなにがなんでも行くしかない。
もちろん大瀧さんがいないのは寂しい。でも3人揃うことだけですでに奇蹟なのだ。

だから当日、『風街ろまん』のジャケットが映し出されたスクリーンが上がり、そこにあの3人が立っているのを目の当たりにした瞬間、本当に鳥肌が立った。(出来れば立ち上がりたかった)
一曲目は「夏なんです」。はっぴいえんどでいちばん好きな詩。写真で見る猫背とまったく同じ姿でドラムを叩く松本隆を生で観ている!!!!
途中少し不安定になったりするものの、逆に緊張感を感じさせていい。
次はかなりヘヴィになった「花いちもんめ」。オリジナルより良かったかもしれない。
そして「はいからはくち」のボーカルは大滝さんに代わって佐野元春。あらためて文字にすると豪華すぎて意味が分からない。
「ソロだ!」で松本さんのドラムソロ。凄い!

その後のセットリストはまさに生で観る『風街図鑑』。風街ばんども鉄壁。
まずは太田裕美「木綿のハンカチーフ」。裕美さんの曲は松本さんの歌謡曲仕事のなかでも、松田聖子と並んで特別な位置にあると思う。シングルだけじゃなくてアルバムも作り込まれてて名盤が多い。
それにしても、裕美さんって全然変わらない。なんであんなに可愛いんだろう。

原田真二「てぃーんずぶるーす」。てっきり作曲も茂さんだと思ってたけど編曲だけだった。ピアノを弾く姿はカッコイイが、「タイムトラベル」でサビを合唱するように会場をけしかけるのはちょっと。ああいうのは好きじゃない。ごめんね。

大橋純子、石川ひとみ、美勇士あたりはそれほど思い入れがないので平静を取り戻す時間。当たり前だけど歌が上手い人ってのはすごいなと。

「東京ららばい」を歌うのは中川翔子。しょこたんにも思い入れはない。でも結構アウェイな中で熱唱する姿は滅茶苦茶カッコイイと思った。好きなものを「好き」って言い続けてきたことの強さを見せつけてくれる。曲も好きなので文句なし。

再結成イモ欽トリオは再結成はっぴいえんどと同じくらいの奇蹟、かもしれない。ベタだけど笑わせてくれるし、これは聴くというより観る曲なんだなと思った。スターボーも再結成すれば良かったのに。

山下久美子「赤道小町ドキッ」、早見優「誘惑光線・クラッ!」。このへんはちょっと順番が曖昧。
シューベルト「冬の旅」の現代日本語訳を鈴木准テノール、河野紘子ピアノで。まったく毛色が違うとはいえ、あからさまに席を立つ人達にイラッ。

永井博さんのイラストを思い起こさせる情景がスクリーンに映し出されて、ここから予想外にして怒濤のナイアガラ・タイム!

ちゃんとチューニングのA音から始まる「君は天然色」。風街ばんどの音圧がまさにナイアガラ・サウンド。なんたってバンマスは井上鑑さんだ。
銀次さんと杉さんが並ぶと、銀次さんがギター低めのジョン・レノン立ち、杉さんがポール立ちに見えてきて無意味に嬉しくなる。

杉さんのMCにグッと来つつ、元春さんが再度登場して、トライアングルVol.1と2の「A面で恋をして」。
“シリアスな気持ち 横において”っていう歌詞が、大瀧さんを楽しく偲ぶ当日の雰囲気そのまま。

鈴木雅之は「Tシャツに口紅」と「冬のリヴィエラ」、渋い。
なによりも“ナイアガラの一員として”歌ってくれたことの喜び。

稲垣潤一が「バチェラー・ガール」と「恋するカレン」。
稲垣さんも声が変わらない。「カレン」の歌詞は正直言ってそんなに好きじゃないけど、歌の説得力に持っていかれた。

ナイアガラタイムが終わって、次は誰かと思ったら、摩天楼のヒロイン、南佳孝!
もちろん「スローなブギにしてくれ (I Want You)」。演奏も歌もコクがあって最高。これもスタジオ版より良かったかもしれない。
佳孝さんが茂さんを呼び込んで「ソバカスのある少女」。地味だけど嬉しい選曲。立夫さんのドラムも美味。ティンパンよりもキャラメルって呼びたい気分。

続いて茂さんのソロ「砂の女」。松原正樹、今剛と3人でギターバトル。凄かったよ。椅子揺らしすぎて隣の人は迷惑だったかもしれないけど、圧巻のグルーヴ。ホントにギター弾きたくなる演奏。

余韻に浸っていると、スクリーンには「しらけちまうぜ」の歌詞が! 客席で一番早く拍手した自信があります。
忠さんもカムバックしてからどんどん渋くてダンディになってる。滅茶苦茶カッコイイ。ここでも立夫さんのドラムが最高。
(スタジオ版のエンディングでシンバルを連打してピシッと止めるところも、曲の主人公が背中を向けた瞬間を表してるようで最高にカッコイイ)
忠さんは意外にも1曲だけ。もったいないよー。「流星都市」とか、どうせなら「暗い日曜日」でも演ってくれたら面白かったのに。

スクリーンにでっかく「矢野顕子」! 別格。ティンパンタイムだったのか。
アッコちゃんが歌うならはっぴいえんどか細野さん絡みの曲かと思ってたら、アグネスの「想い出の散歩道」と「ポケットいっぱいの秘密」だった。
「想い出の散歩道」は『風街図鑑』で聴いて本当に好きになった名曲で、今回もとびきりの名演。次のアルバムにでも入れてくれないかな。
「ポケットいっぱいの秘密」はいつも通りのアッコちゃんというか、ブッ飛んだジャズアレンジが最高。原曲のメロディの良さは消えない。そこは筒美京平さんの凄さでもある。

アッコちゃんと来たらミナちゃんだ。
美奈子のほうが何を歌うのか予想がつかなかったけど、薬師丸ひろ子「Woman “Wの悲劇”より」と松田聖子「ガラスの林檎」。
あまりにも意表を突きすぎ。そして歌が凄すぎ。神懸かってるとしか言いようがない。
どうせならター坊とアッコちゃん美奈子のティンパンのディーヴァ3人で、75〜76年頃の曲を演ってほしかった。贅沢言い出すとキリがない。

風街ばんどの演奏で「カナリア諸島にて」と「スピーチ・バルーン」。『NIAGARA SONG BOOK』な趣が嬉しい。
(演奏とは関係ないが、21日はスクリーンの映像とテロップの切り替えがイマイチでそこが少し残念。)

一息入れてスクリーンに「卒業」の歌詞。というか歌詞が映し出されるだけで観客がどよめくってのもよく考えると凄い。そんな曲だけで4時間。
斉藤由貴は鬼気迫るというと変だけど、なんだか神々しくてひたすら怖いぐらい綺麗だった。「初戀」も歌って欲しかったなぁ。

EPOは「September」。演奏も最高であらためて良い曲だなぁと。彼女については全然知らないのでアルバムを借りよう。

裕美さん再登場で「さらばシベリア鉄道」。なんとなく終わりが近いことを感じさせる。
それにしても裕美さんは可愛い。それしか言ってない気もするけど。友達でも従姉妹でも彼女でも奥さんでも不倫相手でも母親でもいいなぁと思えるのは香川京子さんと裕美さんだけ。

で「ルビーの指環」。正直言ってピンと来ない曲なんだけど、寺尾聦は絵に描いたようなダンディで格好良かった。なるほどこれが寺尾聦かと思った。

最後は再びはっぴいえんどで、「驟雨の街」。
イントロで細野さんのマイクがオフになってるというアクシデントはあったものの、淡々と演奏を進める3人にもう少しで泣きそうになった。(涙腺が硬直してるので泣けない)

細野さんのMC「はっぴいえんどって地味だよね」。笑ったけど、メインストリームではないところでこれだけのものを作ってきたことへの矜持が垣間見えた気もした。「はっぴいえんどは最後まで天の邪鬼なんだよ、悪い?」と。

その細野さんが柄にもなく全員を呼び込んで、「風をあつめて」。
アッコちゃんと裕美さんが楽しそうにしててこっちまで楽しくなったり、忠さんと美奈子さんが並んでてティンパンのツアー映像を思い出したり。思わず歌い出す。至福の時間。

最後に松本さんの挨拶。ちょっと泣きそうになってたようにも見えた。どうしても尖ってて不敵なイメージがあるからちょっと意外だった。
とか言いつつこっちも泣きそうになってたんだけど。(涙腺が硬直してるので泣けない)

客電が上がると、「スピーチ・バルーン」。余韻。
ライブ中、ここに大瀧さんがいたらと何度も考えたし、これからも何度も考えると思う。
でも〈いない〉ことによって〈いる〉ことはすごく大瀧さんらしいし、多分ご本人もムフフと笑っていることでしょう。
〈終わり〉は〈始まり〉なのだ。大瀧さんは風を起こして松本隆をけしかけただけで、充分満足してるはず。

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小津安二郎「長屋紳士録」@神保町シアター

小津の戦後第一作『長屋紳士録』も神保町シアターの「1945-1946年の映画」特集で。
ただ本作は47年封切。

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人情喜劇、しかも子供絡みは苦手な部類。でもそこは小津なので、過度に湿っぽくならずにいいテンポで流れていく。
子役よりも飯田蝶子が可愛い。怒った顔が怖くて特に。
谷よしのさんも笑っちゃうほど若いし、河村黎吉も渋くていい味出してる。

築地本願寺を捉えたショットが出てくるが、周りの風景が今とあまりにも違うので、しばらく築地本願寺だと分からなかった。あらためて観ると変な建築。あの川は築地川だろうか。

お約束で茅ヶ崎も出てくるが、本作の主役は東京。

斎藤寅次郎「東京五人男」@神保町シアター

神保町シアターの「1945-1946年の映画」特集。
斎藤寅次郎監督の『東京五人男』。
焼け跡でロケしたドタバタで“圓谷英二”が特撮担当、とくれば観るしかない。

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ただすごいなぁと。それだけ。
円谷さんの特撮は、冒頭の引揚者を乗せた汽車のミニチュア、疎開先から帰ってきた子供と一緒にお風呂に入ったロッパさんが歌うシーンの合成、大雨のシーンのミニチュア…ぐらいで、たぶん10カットちょっとあるかないか。

焼け跡はすべて本物の実景で、特撮は一切なし。
終戦から公開まで4ヶ月(!)だから当たり前といえば当たり前だが、地平線までなんにもない瓦礫だらけの東京を舞台に喜劇映画を作っちゃったバイタリティに驚く。しかも今観てもそこそこ笑える。
ギャグの内容は配給事情や物資の横流しを諷刺してたり、生死に直結するものが多い。その紙一重な感じも強烈。『ゆきゆきて、神軍』を観たときと少し似てるかもしれない。周りはみんな爆笑してるけど、これ笑っていいのかな…っていう。

ロッパさんの歌もいいが、石田一松の「のんき節」がすごくいい歌だった。三木鶏郎とかクレージーキャッツの先駆け。
帰りにジャニスに寄ったが、どのコンピに入ってるか分からなかったので服部良一とかエノケンを借りてきた。