岩井宏「30才」

何度か再発されているベルウッドのカタログの中でも、岩井宏の『30才』はつい最近まで聴いたことがなかった。

素朴な語り口で生活に根差した詩が、聴くほどに沁みる。
バンジョープレイヤーとしても相当な腕の持ち主らしいのに、そんな気配は一切感じさせず歌の伴奏に徹している。ジャケットともども、控えめで実直そうな人柄が伝わってくる。
録音は吉野金次さんで、センター少し奥に定位したバンジョーの音色がとても気持ちいい。

聴き手を包み込んでくれる豊穣な音楽は、自分が知らないだけでまだまだあることを実感させてくれる名盤。なのに、岩井さん自身はこれ1枚しかアルバムを残していない。30才をいい区切りとして表舞台から去ったのか。

タイトル曲「30才」は自身を見つめ直すような歌詞。この世代の人にとってこの年齢には、今の同世代のそれよりも大きな意味があったんだろう。行き当たりばったりで重みの無い自分の30年と較べて落ち込む。

「ほおずき市」は、足の速い雨雲の隙間から、突然陽光が射してくるような、視覚的に夏の到来を告げる一節が鮮やかで好き。
憂鬱な春も終わるし、大好きな初夏だ。
もう少し創造的になりたい。気持ちのいい曲を書きたい。

十一月の傑作群

『シルバー仮面』『ミラーマン』と観たら新マンも観たくなった。
新マンは番組中盤が好きなので、何本か借りた。

DVD8巻には、所謂〈十一月の傑作群〉の前半2本が収録されている。
でももう殊更に〈十一月の傑作群〉って持ち上げなくてもいいんじゃないかと思う。とっくに言われてることだろうけど。

たとえばこの8巻なら、オクスターの話だって(大泉滉の芝居が鬱陶しいが)傑作だと思うし、だいたい『帰ってきたウルトラマン』自体、初期から後期まで満遍なく秀作がたくさんある。
逆に「落日の決闘」は〈脚本:千束北男〉のクレジットに盛り上がるものの、そこがピークでそんなに好きでもない。

80年代のファンジンじゃあるまいし、いまさら新マンを低く見るような空気も無いから、殊更に再評価を促す言葉を使い続けなくても…と思う。ただ、言葉の響きが素敵だからつい使いたくなるのも解らなくはない。

どっち付かずになっちゃったが、とにかく〈『帰ってきたウルトラマン』といえば十一月の傑作群〉とか、〈『怪奇大作戦』といえば京都篇〉みたいな、「ここだけは押さえておけ」って感じの使われ方が好きじゃないのだ。

そんなカタログ的な見方してないで、全話自分の眼で観て、自分がどんな話に打ちのめされるかを楽しめよ。
説教ぽくなってきてイヤだけど。〈これだけは見ておくべき○○100〉みたいなやつ、本当に嫌いだ。

そうは言っても「悪魔と天使の間に……」なんかはやっぱり凄い作品だし別格、と思ってしまう自分もいる。
クレジットを見なくてもすぐに市川森一が書いたと判る脚本は作家性も強いが、ウルトラマンが番組終盤にしか登場しないことにもさりげなく意味を持たせるあたりが、職業作家として流石だと思う。

それにしてもゼラン星人役の男の子は。
「かまいたち」の小野松夫と同じぐらいハマりすぎだ。なまじ子供だけに、実生活で苛められたりしなかったか余計な心配までしてしまう。

The Beatles「Strawberry Fields Forever / Penny Lane」(RSD2017)

今年のレコードストアデイは、欲しいブツが殆どなかった。寂しいけど懐には優しい。

唯一欲しかったのが「Strawberry Fields Forever / Penny Lane」のシングル。
とはいえ、さんざん煽っといていつまでも売れ残ってるのがRSD商品だし、混んでるレコ屋は殺気立っていてイヤなのでのんびり構えてたら、早速結構な数がネットオークションに流れてきた。どこまで本当なのか、売り切れてて買えなかったなんてツイートを見ると落ち着かなくなってしまい…。

結局慌てて月曜日に都内某店に行くと、運良く数枚残っていた。
手に入れられたのは嬉しい。でも愉しいかというと微妙に違うんだよな。
普段レコード屋に来ない人を呼び込もうっていう趣旨は解る。でもそれが転売目的の連中だったら意味ないと思うよ。

あとこれ、オリジナルのモノミックスだったら最高だったんだけどなぁ。
ただシングルもアナログ再発されそうな雰囲気はあるから、気長に待とうか。

The Beatles「Strawberry Fields Forever / Penny Lane」(RSD2017) はコメントを受け付けていません。 カテゴリー: The Beatles タグ , ,

石川淳「マルスの歌」再々々々読

判りきっていたことだが、いっこうに「マルスの歌」が鳴り止む気配はなく、いくら「Non」の声をぶつけても歌声は大きくなるばかり。
鬱々暗澹軽蔑の毎日、狂気の季節は死ぬまで続くのだろう。
いや、〈わたし〉が言うように、マルスの季節にあっては、狂っているのは彼らではなくてこちらのほうだ。
ならば突き当たるところまで狂ってやろうと、『マルスの歌』を再々々々読。何回読んでいるか自分でも解らない。

『普賢』では自由に低空を飛び、現実を奇異にまで高めていたはずの作者が、忌まわしい(いやそんな大層な形容は要らない)バカげたマルスの季節に苦しめられ、地上に停滞している。

停滞していながら、この筆力はどうだ。
打ちのめされているように見えて、しかし力強く「ノン」と叫ぶときの声の図太さ。

精神衰弱に陥っている場合ではない。自分も「ノン」と叫ばなければ。
すべてを諦めて軽蔑しても叫ぶことはできる。

E.W.サイード「ペンと剣」

アレントを読んでるが、難しくてちっともページが進まない。だから息抜き(というにはこっちも重いが)も兼ねてサイードの『ペンと剣』を読了。

『知識人とは何か』ほどの知的興奮を与えてくれる本ではない。
ただ、訳者あとがきで中野真紀子さんも書いてらっしゃるように、〈格好のサイード入門書〉なのは間違いない。
彼の来歴や思想、人物像がとてもよく解るし、インタビュー形式なので読みやすい。

インタビューが行われた時期の関係で、93年のオスロ合意についての話題が多い。
PLO自体が変質して、パレスチナの市民達からも乖離していった末の合意(サイードの言葉を借りれば〈降伏〉)だったこと、合意以降のパレスチナ社会への展望など、個々の事象は絶望的なのにサイードは過度な悲観に陥らない。

これだけ透徹した目の持ち主ならば、絶望して厭世的になってもちっともおかしくないと思うのだが、そこがこの人の凄いところだ。

本書で特に刺さったのは、民族の解放運動が陥りがちな過ちについて、フランツ・ファノンを引いて語った言葉。

フランツ・ファノンの言葉を借りれば、「ネイションの落とし穴」です。ネイションの自覚が自己目的化し、エスニックな特性や人種的な特性の強調や、捏造によるところの大きい民族や国民の本質といったようなものの追求が、文明や文化や政党の目標になるときには、もはやそれは人間の共同体とは言えず、何か別のものになってしまうのです。

劣等感を拗らせて落とし穴に落ち、ひたすら自分達は凄いと根拠なく繰り返すだけのこの国は、人間の共同体ではない〈何か別のもの〉(当然ロクでもないもの)になってしまったのだった。

サイードは自身を〈楽観主義者〉と捉えていて、その意志の強靭さは本当に凄い。
たとえ市民から遊離したPLOが屈辱的な降伏を嬉々として受け入れても、絶望的な状況を直視しながら、尚且つ新しい道を模索するサイードがそこにはいる。

自分は筋金入りの悲観屋で厭世家なので、自分が納得出来るかたちに自分を保つには、日本を出ていくか自殺するしかないと思っている。実際に国を棄てられるほど金は無いし、手に職もないので、結局死ぬしかないのだが。いま自殺することは殺されることと同義だから踏みとどまってはいる。
(2~3年前の精神的にどん底だった時期よりも自殺は選択肢として現実味を帯びてきている。不思議なものね)

とにかく、バカどもの巻き添えでバカな国の土になるのは御免だ。

阿部彩「弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂」

〈社会的包摂〉という言葉が気になって読んでみた。

語り口が平易で解りやすい。著者が活動のなかで出会ってきたホームレスのおっちゃん達のエピソードも(語弊はある言い方だけど)面白い。

女性、子供、高齢者など、貧困のケースごとに踏み込んで書かれているわけではなく、日本の貧困問題概論といった感じ。

帯に〈入門書〉とあるように、貧困問題に関心を持って最初に読む本としていいかもしれない。自分もいろいろ再確認するのに有用だった。
貧困率の出し方、データの読み取り方なんかは何度読んでも忘れちゃうので。

少し前の本だからデータ類が若干古いのは難点だが、読みやすい良書だ。
解りやすいぶん、著者が訴える包摂力を伴った社会を構築することがどれだけ難しいか(本書執筆時よりもさらに排他的になった今の社会では特に)もよく解って暗澹とする。

阿部彩「弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂」 はコメントを受け付けていません。 カテゴリー: 貧困 タグ , ,

「DVD シルバー仮面 Vol.1」

『ミラーマン』の次は『シルバー仮面』。
DVD…これ本当にデジタルウルトラプロジェクトと同じスタッフが色補正したの…?原版の状態が悪ければどうしようもないか。

実相寺監督の2本は再見。特に第1話は傑作だと思うけど、自分が子供だったとして、来週も観ようとはなかなか思わないとも思う。
第2話も悪くはないが凡作。

実相寺・佐々木コンビはフォーマットを作っただけで、『シルバー仮面』は実質、市川森一と上原正三の作品と言ったほうがいい気がする。

特に市川森一はノッている。

第4話なんて大傑作だ。「私も科学者の端くれです。宇宙人の脅しになんか屈しません」と言って兄妹に協力の意志を見せながら、ラストでは「私だって春日博士みたいになりたかったんですよ」、そう言いながら研究書類や春日博士の肖像画まで(!)燃やしてしまう湯浅博士。

子供を宇宙人に拐われたんだから、湯浅博士の心変わりを責めるわけにはいかない。
でも本当にそうなのか?それでも科学者の良心を全うするべきじゃなかったのか?
人間の心の脆さを描いて、答えが出ない問いを発してエンディング。

市川森一の作家性が全開。
市川は『ウルトラマン大全集2』(講談社)の座談会でも、『シルバー仮面』に込められた寓意に惚れ込んでしまってやり尽くした、だから『ウルトラマンA』のときは脱け殻だった、と言っていて、本作や第9話を観るとそれはよく解る。

『シルバー仮面』はまさに『怪奇大作戦』の延長線上にある作品で、初期のウルトラ三部作では怪獣の姿を借りていた異端者が、科学犯罪者を経て本作では主人公になった。

〈科学を悪用して社会に復讐するもの〉を描くのが『怪奇』だったが、科学が〈悪用〉されているかどうかを判断するのは結局〈社会〉である。
宇宙人の存在すら信じられていない〈社会〉で、科学の〈平和利用〉を目標としながら、それでいて他人を巻き添えにして流浪する兄妹は、『怪奇』の犯罪者たちと紙一重のところにいる。

社会から排除される運命が定められている人間達が主人公とくれば、市川森一が乗らないわけがない。

上原正三ほどには『怪奇』の犯罪者たちに自分を託せなかった市川森一が、遂に開花したのが『シルバー仮面』だったのだろう。