細野晴臣「HOSONO BOX 1969-2000」

嬉しい買い物。『HOSONO BOX 1969-2000』。

中身は大昔にレンタルして何百回も聴いてるが、所有する喜びはボックスの場合、格別。

シュリンクとステッカー付きの美品じゃなきゃ嫌だったので、コンディションと値段が見合うものになかなか出会えずにいた。(レンタルしちゃって中身が判ってるぶん、他に聴きたいものを優先しちゃうというのはどうしてもあったし)

それが先日、予約特典の10インチ付きでポンと目の前に。こういうときは後先考えずに買う。

10インチのジャケ裏は細野さんのマンガ。さすが絵が上手い。解説書の奥さんとツイスト踊ってる絵も好き。

まだ『はっぴいえんどBOX』と『風街図鑑』を手に入れないといけない。
気長に集めよう。

ゴミについて

こんなときに限って風邪が酷くて国会前に行けず。
ずっとこんな国で暮らすわけじゃない(そうとでも考えて逃避しないと神経を壊される)からいいんだけど、ムカついてるって意思表示ぐらいはしておきたい。

自分が共謀罪なり安保法制なりに反対なのは、バカで想像力の無い連中の巻き添えを食うのが嫌だから。
なので、この国が好きで、国の行く末を考えて行動してる人達は偉いし、大変だなぁと思う。
この先、状況が良くなることなんて無いのに。

そうは言いながら、採決の様子やら政権に肯定的な意見を目にするとムカつくのは、まだどこかでこの国がそこまでバカじゃないと思ってるからなんだろうか。

だとしたらそこにいちばんムカついてしまう。中途半端なお人好し。どっち付かずは良くない。一度ゴミと決めたものはゴミなんだよ。

大島渚「夏の妹」@早稲田松竹

大島渚は苦手。そう言い切れるほど本数を観てないが、どうも合わない。
『夏の妹』は『さすらい』の翌年の栗田ひろみ目当てで、あとはまぁ寝てもいいかぐらいに思っていたら、いい意味で裏切られた。

だいたいATG×創造社の映画なのにアイドル映画なのが凄い。いや、アイドル映画として“成立”してるのが凄い。
ただそこは大島渚の力じゃなくて栗田ひろみとりりィさんのおかげな気もする。

『さすらい』の赤いワンピースの少女の面影はまったく無く、もうここにはアイドルらしくヘタクソなアイドルがいるだけ。
多分それでいいんだろう。実際いま観ても可愛いし。
ヘタに芝居が巧かったらりりィさんとのコンビネーションが破綻してるはず。

そう、とにかくりりィさんだ。無条件にさん付けしたくなるぐらい魅力的。
すっぴん(たぶん)のアップショットはソバカスがあるんじゃないかと思うぐらい若々しいのに、人生に疲れてそうな陰がある。
こんな先生にピアノ習ってみたかった。

あとはいつものメンツ。
殿山泰司や小松方正は本土の人間だからいいとして、佐藤慶や戸浦六宏が〈琉球人〉だと言われても無理がある。日本人にしか見えない…つーか佐藤慶と戸浦六宏にしか見えない。
出てくるだけで笑ってしまうのもいつも通り。

『ウンタマギルー』を観た直後だから余計に違和感を感じる。
ギルーを演じる小林薫にそこまでの違和感は無かったのに、こっちは違和感しか感じないのは、俳優さんが小林薫なんかより何倍も濃いからってのは勿論あるが、彼ら自身が琉球人をどう演じたらいいのかを掴んでないからってのもあると思う。

ただそれも怪我の功名なのか、重くなりすぎずに笑って観ていられる。
後半ディスカッションドラマになって〈琉球〉〈沖縄〉がどうのこうのと言われても、〈いつもの大島組〉そのまんまなので説得力がない。彼らの関係性は日米と沖縄の関係性を暗喩してるのに、ガハハオヤジのエロ話としか印象に残らない。

だからこそ、これでいいんだろう。日本が琉球や蝦夷地に対してとってきた態度は〈ガハハオヤジ〉のそれそのものだから。
ここは日本のガハハオヤジがもっともらしく沖縄を語ることで皮肉が利く。

で、そんな彼らを「嘘つき」と罵るのは若くて素人同然の栗田ひろみじゃなきゃダメなのだ。

ただどこまでが監督の計算通りだったのか、となるとよく判らない。
沖縄市内を観光バスで走るシーンやガマを観に行くシーンは、対象との距離感を掴みかねてる感じが、やけに生々しい。
それもいま観ると効果的(時代の記録としても有用)だが、当時どこまで意識して撮っていたのかが判らない。面白いからいいんだけど。

武満徹の音楽はもちろんいい。
エレピが優しいテーマ曲が無かったら、確実に作品の質が一段落ちる。

高嶺剛「ウンタマギルー」@早稲田松竹

久しぶりに映画館に来られた。それだけでもう嬉しい。ロビーのチラシ漁りまくり。
春が死んでしまえば情緒は安定してくるが、仕事はもっと忙しくなりそうなので、これからは観たい映画の1割も観られないだろう(T_T)

高嶺剛の映画も、少し前にイメージフォーラムで特集があったときにまとめて観たかったのに一本も観られなかったので、早稲田松竹に感謝。


(↑ポスターは小林薫じゃなくて本木雅弘似)

沖縄の伝承が基になっているそうな。
マレー(ブタの化身)と交わる禁忌を犯してしまいミイラになるところを、運玉森の妖精に助けられて不思議な力を得るギルー、さらにはその力を使って義賊ウンタマギルーになるギルー。

返還前の沖縄が舞台だし、シリアスな話だと思ってたからブッ飛んだ。
もちろん、客を取っている(いた)ギルーの妹チルーに、日米から虐げられる沖縄の比喩を見ることは容易い。監督の意図がそこに無かったとしても連想してしまう。
また、ギルーの母親の過食症や、去勢された親方も気になる。

しかしそんな隠喩の嵐を考える隙は与えず、それでいて南国の湿度や気怠さを感じさせるテンポが絶妙なので、過度に重くはならない。

狂言回し的に登場する照屋林助の音楽も楽しい。
オープニングで歌われる「これから世の中は変わっていくよ。あなたも私も、冷たい人になっていくよ」という言葉にギクリとさせられもするのだが。

いろいろあって、ギルーは生死不明になる。ここからタイトルバックのシーンに繋がるのか…と思っていると、冒頭と同じように、仕事の合間にマレーを抱く夢を見るギルー。
「夢オチか!?」と混乱していると、彼はギルーとは別人で、今は本土復帰後であることが判る。さらに混乱したところに、間髪入れず『気狂いピエロ』みたいなラストシーン。

ずーっと沈めておいた政治的主張が一気に浮上してきたような、それまでとははっきり異質なトーンが強烈。

沖縄の望みは日本への“復帰”でも、アメリカによる“統治”でもない、ということなのか。複雑な余韻を引きずったままエンドクレジット。
照屋林助の三線とは対照的に、沖縄音階は取り入れても神秘的で重たい上野耕路さんの音楽がいい。

観ている最中は単純に面白いし、それでいていくらでも深読みが出来そう。いい映画だ。はやく『パラダイスビュー』も観たい。

ウチナーグチを操る戸川純ちゃんの違和感のなさが凄い。多才な人だ。

古家杏子「晴海埠頭 / 東京」(RSD2017)

だって「晴海埠頭」…!
全然知らない人だったのにタイトルだけで買ってしまった。

フェードインしてくるギターのフィードバックノイズ(?)、乾いたドラムと最小限の音数を弾くベース。ベーシックトラックみたいに簡素なサウンドに、ター坊の「都会」に似たAメロ。

冒頭の数秒だけで、今よりも寒々とした辺境でしかなかっただろう、ウォーターフロント前夜の晴海埠頭が描き出され、一気に引き込まれる。
歌詞も素敵だ。一人佇む主人公に対峙する重い海、鉛色の空から降り注ぐ雨。

個人的なツボを抜きにしても名曲だと思うし、再発されるのも納得。

アルバムも聴いてみたいが、オンデマンドCDでしか再発されていない。2500円払ってCD-Rに焼いてもらってもなぁ…。
82年録音だから音質的には16/44.1で充分だと思う。普通にダウンロード販売してくれたらいいのに。
アナログで再発してくれればいちばんなんだけど。

Juan Hidalgo「nova musicha n.9 Rrose Selavy」

クランプスレーベルの〈nova musicha〉は、ジャケに惹かれていざ聴くと退屈、なアルバムが多い(ほとんど)。
この手の音楽は、現代美術と同じで作者の意図も把握していないと理解できないのは解ってはいるんだけど。ライナーを読む前に返却日が来ちゃったり、なんとなくうっちゃっといたり。


でもJuan Hidalgoのこれは音だけ聴いても結構気持ちいいので、たまに聴いてる。
デュシャンのジャケと『Rrose Selavy』のタイトルだけで借りたが、いかにもミニマルらしいミニマルで解りやすい。

こういう音楽を聴くと、これなら作れそう…とか不遜にも思う。
キーボード(すら無くても、DAWソフトだけでもいい)だけで作れるわりには、音数を増やせば増やすほど、予想外の音像が必ず現れるはず。

〈予想外〉のことが〈必ず〉起こることがわかってる時点で予想外ではないので、もちろん実験にも前衛にもなり得ないが、そこそこ愉しい暇つぶしにはなる。

厭な季節の終り

なんだかもう疲れてしまって。

ダメな国のダメな人達のために、いちいち怒ったり嘆いたり声をあげたりするのもバカバカしくなってしまった。
バカが自分で選んだバカに苦しめられて滅んでいくなら自業自得だ。みんなが大好きな自己責任だ。

ただ、まだ小さい子達や次の世代の人達だけは本当に気の毒で仕方ない。
生まれてきたことを恨めよ。親を恨んだっていいんだよ。国に刃向かったっていいんだよ。

自分の人生がいちばん大事なので、とりあえずこんな国のために無理に骨を折るのはやめようと決めた。
どうせ不可能だろうが、できれば国を出たい。

こんな国は棄てると決めた途端に、気が楽になったし、とてもスッキリした。

いろいろと吹っ切ることが出来たのは5月のおかげだ。だから好きさ、5月。

ダイナマイトに火をつけたあとは、自分のいのちを大切にして、さっそく船に飛び乗って、無事息災に逃げのびる手だてを考えたほうがいい。まさか、切っても血の出ない人民のために、バカがあとからよたよた歩いて来る道に、特製の緋毛氈を敷いておいてやるバカも無いだろう。(石川淳「白頭吟」)

いくらなんでもダイナマイトに火はつけないけども、救いようのない国が沈んでいくのを外から嗤って見ていたい。

ハンナ・アレント「ヴァルター・ベンヤミン」

ローザ・ルクセンブルク、ヤスパースやアイザック・ディネセンの章までは面白く読めたのだ。
ところがへルマン・ブロッホの章が自分には難しすぎて、何度読んでも頭に入ってこないどころか、2~3行で必ず寝てしまうようになる始末。
埒があかないので、ブロッホの章は飛ばして、他の本でいろいろ息抜きしてから「ヴァルター・ベンヤミン」を読むことにした。

ベンヤミンの作品は、例によって「複製技術の時代における芸術作品」とカフカ論しか読んでない。
それすらだいぶ前のことなので、ほとんど何も知らないようなもの。

ところが、ろくに作品を知らないせいもあって、アレントの描くベンヤミンがすごく人間臭く魅力的な人物に思えて、最後には妙な親近感まで覚えてしまった。
その最期まで含めて、いかにも暗い時代に生きた人ではあるのだが、カフカと同じくどこかダメ人間風情を漂わせている感じがする。

ごくわずかな収入を得る道はあるし、ごくわずかな収入で暮らす道もあるが、両方同時にやれる道はない。(『書簡集 第2巻)』

ただこれは、当時のドイツ系ユダヤ人社会の価値観、特に父と息子の相克を考えると特殊なものではないらしいので、こちらの身勝手な感情移入に過ぎない。

さすが「複製技術の時代における芸術作品」の作者だけあって、引用にこだわる彼の執筆方法は、シュルレアリスムやダダみたいだ。レディメイドだ。プリコラージュだ。

私の作品の中の引用文は、武力で攻撃してなまけ者の確信を奪う路傍の盗賊のようなものだ。

本論を読んでから「フランツ・カフカ」を読んでみると、確かに引用文が多い。
とはいえ今となっては珍しくない手法だし、シェイクスピアを引用して、ベンヤミンを〈真珠採り〉と形容するアレントもまたベンヤミンのようだ。
そして洞察力の偽造に馴れすぎた身として、ブッキッシュな文章に憧れる身として、次の一文に痺れた。

ベンヤミンは、この新しい「穿孔する」方法が結局は一種の「洞察力の強制」になるが、「……しかし、こうした強制に伴う洗練されない衒学者ぶりは、今日ほとんど普遍的な習慣になっている洞察力の偽造よりはましである」ことを承知していた。

彼の念願は引用文だけで作品を作ることだったらしい。その構想自体、20世紀芸術と大衆文化の行く末を暗示している。
それと、このブログのトップに固定しているエントリーにズバリ当て嵌まるので、少し嬉しかったのです。この会話に、いつかベンヤミンも参加してもらおうか…。

さて、知的興奮を誘う引用の引用による考察は置いといて、本論のもうひとつの個人的白眉は、ベンヤミンを「パサージュ論」に向かわせたパリの魅力を描いた一文。

他の都市では社会の最下層の人々に対してだけしぶしぶと認めていること-怠けてぶらぶらしたり、散歩したりすること-を、パリの街路は実際にすべての人に誘いかける。かくて、第二帝政以来、パリは生活の質や出世、あるいは特別な目標を追い求めたりする必要のない人々のパラダイス、したがってボヘミアンのパラダイスであった。それは、芸術家や作家だけではなく、そのまわりに集まるすべての人々のパラダイスであったが、それはかれらが政治的にも-家庭や国家も持たなかったがゆえに-あるいは社会的にも統合されえない人々だったからであろう。

また当てもなく彷徨いに行きたい。ベンヤミンが訪れてから1世紀近く経っても、異邦人にとってパリの魅力は変わらない。