鈴木光司「バースデイ」

『ループ』の消化不良から手を出してしまった。


ちゃんと番外編を謳っているから腹も立たないけど、収録されてる三作はどれも蛇足だったなと。

「空に浮かぶ棺」は『らせん』のなかでも特に秀逸なイメージだった高野舞の死を題材にした一篇。
でもあれは彼女が死んでいく過程も貞子の誕生もはっきり描かなかったからこそ、想像力を掻き立ててくれたわけで、わざわざ種明かしをするような短篇を書かなくてもいいのにと思った。

「レモンハート」は本当にどうでもいい作品だった。特に感想もなし。

「ハッピー・バースデイ」は、本当のシリーズ完結編。(『エス』『タイド』を読んでないので違うかもしれないが)
礼子は好きなキャラクターではあるのだが(少し年上の未亡人の魅力)、本作を書いた意図がよく解らなかった。
グダグダではあっても『ループ』できちんと完結してるじゃん。

あとは好みの問題だろうが、作者が描く家族像がイマイチ鬱陶しくて好きになれない。
歳を取れば変わるのかもしれないが、何回も読む作品でもないと思う。

DVD「逮捕しちゃうぞ ORIGINAL ANIMATION VIDEO SERIES」

実はOVA版『逮捕』はLDだけじゃなくDVDも(レンタル落ちだけど)持っている。
部屋を整理したら出てきたので久しぶりに観た。

FILE.1「そしてふたりは出会った」
アニメ版でFOX和尚が活躍する話って実はこれぐらいなんじゃないだろうか。もう一本ぐらいあったか。
それはともかく。二人の出会いが丁寧にテンポよく描かれてて楽しい。一話目から傑作なのだった。

FILE.2「東京タイフーン・ラリー」
ネコ絡みなのもあって好きなエピソード。堀切ジャンクション(たぶん。小管か堀切あたりがモデルには違いない)がほんの少し出てくるのも嬉しい。
台風の描写がすごく丁寧で臨場感を盛り上げる。特に音響は凝ってるなあと。

FILE.3「恋のハイウェイ・スター」
なんとなくテンポが悪い。

FILE.4「on the road, AGAIN」
最終話だけに力も入ってたんだろうけど、やっぱり続きが観たくなる熱量を孕んでる。
ここで終わらせるのはもったいないよねぇ、と関係者も思ったに違いない。

最近原作を読むまで、TV版はオリジナルストーリーメインで、OVAは原作に沿ったストーリーだと思ってたのだが、実際は逆だった。
OVAで原作が活かされてるのはFILE.3と4の一部だけ、ほとんどオリジナル。

作品の肝だから手を抜くわけにはいかなかったんだろうが、メカ描写は良く出来てると思う。
車にもアニメにも詳しくないけど、手書きのセルアニメで実在の車両を動かすのが大変なことぐらいは(それこそ『ルパン』なんか観てれば)想像がつく。CGでやってもこの味は出ないだろうし。

あと、小さい頃家にトゥデイがあったことも、『逮捕』好きに少し関係あるかもしれない。
確かに可愛いクルマで、歴代の愛車のなかでも、両親も特に気に入っていた気がする。

鈴木光司「ループ」

大学時代、大好きだった現代思想の授業で、先生が『リング』と『ループ』に触れた記憶がある。
ポストモダンを扱う授業だったが、はっきりとは前後の文脈を思い出せない。たぶんロラン・バルトの〈作者の死〉とか、そのへんに絡めた話だったはず。
(面白い授業だったなぁ。G先生、お元気ですか)

当時は『リング』と言われても映画版の貞子のイメージしかなかったので、先生がこんな小説の名前を挙げたのが意外だった。
「まぁ、メタの手法で書かれてんだろうな」ぐらいには思って、読もうとはしなかった。

というわけで、漠然とではあるものの一番大事なポイントについて知っちゃってたので、『リング』が仮想空間の出来事だと知っても驚きは感じられなかった。
(予備知識がなかったとしても、新鮮さを感じられたかといえば疑問だが)
ただ、それを抜きにしてもつまらなかった。

前二作にはあった、一気に読ませてくれる筆力が無い。
冗長だし、話の飛躍がイチイチ引っかかる。こうなるともうSFはダメだ。

三部作の完結編とはいっても独立した作品なのだから、『リング』『らせん』を読んでない人でも楽しめないとダメだと思うが、そうなっているかというと疑問。
かといってシリーズを読んできた人なら楽しめるかというと、これまた微妙。
『らせん』をフォローするために書いて失敗した、という感じ。

失敗した小説はその欠点ゆえに愛せる小説になったりするが、失敗した大衆文学はここまで無様なのかと思った。

石川淳「新釈雨月物語」

『雨月物語』は大学生の頃、溝口の『雨月物語』を観た後に読んだ。
そのときは映画への興味が先に立っていたので、「浅茅が宿」と「蛇性の婬」だけ読んだ。

で、秋成の原典をちゃんと読むこともなく今度は石川淳の『新釈雨月物語』。

「蛇性の淫」はなかなか怖いが、改めて読むと溝口の映画に活かされたのはほんの一部で、ほとんど別の話だ。
田中優子さんの本を読んだ後なのもあって、むしろ「白娘子永鎮雷峰塔」と比べてみたくなった。

特に面白かったのは、「白峯」「仏法僧」「夢応の鯉魚」あたりか。
三島が「夢応の鯉魚」を好きだったというのはなんか頷ける気がする。なぜだろう、全編を覆う淡水の生温さとか、捌かれて食われそうになるくだりが、『仮面の告白』の食人妄想や血の温度を連想するからだろうか。

著者は「秋成私論」で〈秋成の世界は日本独得の発明になっている〉と述べている。
仏教的な、来世の観念ではなく、〈次元からいうと実在の世界とほとんど相似のようなところに別天地〉を書いている、という。

これは実在の世界と未知の世界という二つの配置があって、同時のその双方に関係する、つまり論語にいう「両端をたたく」。端が二つあって、それを同時にたたかなければならない、そうしなければ世界像は完全につかめない。そういう世界観です。

ここが難しくて、自分は「白峯」でも「仏法僧」でも、亡霊たちがあの世から来たものとして読んでも違和感はない。
たぶん基になった中国白話や、先行する『今昔物語』『日本霊異記』と読み比べないと、その差は理解できないのだろう。

読み終えてみると、やっぱり解説にある通り原典と首っ引きで読むべきだったかなと思う。作者がどのように〈新釈〉を施したのかを知るにはそれが一番だろうし。
あともうひとつ、本作に関しては読みやすさを優先しないで旧仮名・旧漢字で読んだほうが良かったかもしれない。

角川文庫版は装丁やイラストも好みじゃない。ちくま文庫版を買ってそのうち『春雨物語』も含めて再読しよう。

鈴木光司「らせん」

『リング』を読み終えてそのまま『らせん』へ。
こちらは予備知識が無かったので前作以上に楽しめた。

前作よりSFテイストなところも好み。
それでも、さんざん趣向を凝らした作品中でいちばん怖かったのは、正体不明の女が高野舞のアパートから出てくる描写。結局はベタな恐怖描写に勝るものはないんだなと思ったり。
舞が〈空に浮かぶ棺〉で死んでいくイメージも秀逸。舞の名前から導き出されたシーンなのかもしれない。

ただちょっと、安藤と宮下が真相に気づくペースが遅いというか、先回りして読めちゃった部分もあって、そこは惜しいかなと思う。

後半、貞子がしっかりした文章の置き手紙を残すのもちょっと違和感がある。
安藤とのデートで映画のセリフに合わせて口を動かしたり、本屋に長居したりするのも、身体は成長していても内面が伴っていない故の、言葉を覚えるための「学習」みたいなものだと思ってたし、それゆえ不気味さを感じていた。
でもあの手紙によれば、生まれた時点で既に人格は完成してたわけで、それなら貞子は単にワガママな女の子として振舞っていたことになる(わかってて万引きしたことになる…)のが、なんだかなぁという感じ。

それと〈エピローグ〉、クローン云々はさすがに安易な気もする。それまで一応リアリティ重視で進んできたのに、一気にトーンが変わってしまう。

いろいろツッコミたくなるのは前作と同じ。でも今作も一気に読まされたし、そこがエンターテインメントで一番大切なことだと思うので文句はない。前作より好き。

鈴木光司「リング」

Jホラー直撃世代である。
自分はビビリなので一本も観たことないが、映画館に行くたび『学校の怪談』やら『女優霊』やら『死国』やら『富江』やらの予告編に目を瞑ってたのを思い出す。
(そのくせ『怖い日曜日』なんか結構観てたけど)
だから当然『リング』シリーズも避けてきたが、古本屋の一冊100円コーナーでなんとなく手に取ってしまった。ウイルスに感染したのか。

高山のキャラクター設定と、オカルトに精通してるはずの彼が、ビデオで「山」の字やサイコロを見ても山村志津子に思い到らなかったことに引っかかったぐらいで、結構一気に読まされた。
他にもいろいろツッコミたいところはあるが、それは読んだ後に思いついたことで、読書中に醒めることは無かった。

ただ、好みの問題だろうけど、地の文で人物の心理を描きすぎているように感じる箇所もあった。

流石にあらすじを知っちゃってるのでそんなに怖さはない。でもホラーは映像よりも文章に限ると思う。

それにしても〈呪いのビデオ〉って設定が懐かしい。
ケータイが普及しだした頃、〈不幸のメール〉なんてのが送られてくることが結構あった。
今でも覚えてるのは、東南アジアのブティックで行方不明になって、その後ダルマになって発見された日本人旅行者の話。
で、「読んじゃったら5人に送らないと不幸が起こります」みたいなやつ。
絶対ウソだって解っててもやっぱり怖かったな、ああいうの。

田中優子「近世アジア漂流」

『江戸の想像力』に続いて、田中優子さんの『近世アジア漂流』を読む。

雑誌掲載された短めの評論を集めたものなので、毎晩眠る前に読むのにぴったり。夜毎のアジア漂流を愉しめる。

とにかく筆者の分析力、想像力、それを定着させる文章力はすごい。
〈私にとって文章を書くことは、次のことを考えるために自分の中を通り過ぎつつあるものを描くこと〉とご本人も書いているように、思考が一箇所に停滞することがない。
アングルは次々に切り替わる。そのスピード感がすごく気持ちいい。
これも〈羅列の文体〉であり、〈俳諧化〉なのだろう。

筆者が次々と切り取っていく世界像を眺めていると、江戸時代について、日本について、アジアについて、近世について、つまるところは何にも知らないことを痛感する。
〈知る〉ということは、自分の帰属する社会とは異なる文化や価値観を受け入れることだ。
そこに偏見や妄想が介入することは避けなければならない。それは一見非の打ちどころもなく正しいことのように思われるが、筆者は次のように書く。

人間が異文化にエキゾティシズムをもたずに「客観的に」「全体的に」理解している、理解できると信じることは、あまりにも現実離れしているように思う。じっさい、歴史上起こっている出来事のほとんどは、様々な(じつに様々な)偏見 – オリエンタリズム、エキゾティシズム、人種偏見、階級的偏見、同情から敵視まで、贔屓から排除まで – の組み合わせの中で生起するように思えるのだ。それらを抱えこまなければ、歴史上の人間は見えてこないのではないか。

田中さんのダイナミックな視点の根本がここにある。
ネガティブな感情が生み出したものであっても、それもまた人間の世界認識の方法だと認めること。そのうえで、絶えず様々な(じつに様々な)視点に立ってみること、漂流すること。
〈歴史上の人間〉即ち今日を生きる自分達でもある。つまりこれは普遍的な視座であって、失ってはいけないことだ。サイードが言うように、異邦人でなくても、異邦人であろうと努力することはできる。

ところで、単行本が出版されたのは1990年。そのせいか、筆者も意識していないところで各章のタイトルにどことなく“その頃”の匂いがする。
「活劇わくわくの台湾」「近世日本のシノワズリ」「神話に満ちたシャム」…。
都市論とかアジアブームとか、どことなく日本が浮かれていた頃の匂い。
そういう意味で、内容とは関係のないところでも楽しめた。

石川淳「鷹」

『鷹』は読めば読むほど安部公房の初期作品に似ている。
一発で好きになったのはそのへんが理由かもしれない。
(三島の『月』が好きなのも同じような理由)

レッドパージ、二種類の「ピース」、明日語、鷹…と、ここまで解りやすくていいのかと思うぐらい、舞台設定や比喩の多くは解りやすい。

しかし一方で、鞭を持った少女や小犬は解釈が難しい。
小犬には、『アリス』のウサギを重ねることもできるが、少女に関してはさっぱり解らない。

彼女の登場場面は、作品中でも特に幻想的だ。
ここで国助は彼女を〈女王〉と呼び、彼女は自らを〈女奴隷〉と呼ぶ。
彼女に食いつかれるように唇を吸われた国助は、その苦痛を恍惚と感じる。ラストに到って、それが〈愛の苦痛にほかならないという単純なこと〉に気づくのだが、彼女に口を吸われている最中は、〈これはもしかすると男性どうしの愛にちかいものではないのかと〉疑ったりする。同志的な愛情という意味か。

国助という名前も引っかかる。
なぜ〈国〉助なのか。ここでいう〈国〉は、不潔な匂いのピースを吸う奴隷たちの住む今日の〈国〉ではなく、〈ここでつくられるたばこの味が完全に判った〉国民が暮らす明日の〈国〉を指すのだろうか。彼も活動に身を投じる中でEやKのように名前を喪失するのだろうか。

…と、いろいろ考え出すとキリがないのだが、何度も停滞しながら読むような小説ではない。
全作品を読んだわけじゃないが、石川淳作品の中でもかなりのスピード感を持った作品じゃないだろうか。
たとえば以下の文章。作者の筆のスピードを感じることは容易い。

いつもの癖で、たばこがはいっているはずのポケットに、しぜん手を入れた。手にさわったものを引き出して見ると、当然のことに、例のあやしき紙きれと、さっきの残りのたばこ二本とがそこにあった。しかし、この当然のことはかならずしも当然ではないはずであった。というのは、たったいまの厳重な身体検査に依って、それらのものは有力な証拠物件として押収されてしまっていたからである。それがまたどうしてここにあるのか。それらのものは小ぎたない牢役人のデスクの中に封じこめられることよりも、当然もとの国助のポケットの中に刎ねかえることのほうを好んだせいだと思うほかない。国助はこういう当然のことにはもうおどろかない癖がついていた。

全編こんな筆力で、あっという間にラストまで持っていかれる。
時代も色濃く反映されてるが、傷にはなってないし、ピースがますます不味くなっている昨今、『マルスの歌』と同じように今日性を増しているとすら思える。

もちろん、明日のピースの味がわかる日が来ないことなんて石川淳は百も承知だ。
それでもここまで前に進む力がある作品を書けるのは本当に凄い。
この作品はいつ読んでも絶対に面白い。

追悼・京マチ子

ちょうど石川淳の『新釈雨月物語』を読んでいるところだった。
京マチ子さんが亡くなった。

東宝系の映画やテレビ(主に特撮だけど)で育った人間なので、他社の俳優さん達の魅力に気づくのは、大学に入って名画座通いを始めてから。

その中で、まず魅了されたのが大映の女優陣だった。
京マチ子、山本富士子、若尾文子、岡田茉莉子、などなど、それまでの映画体験では出逢えなかった女優さん達。


↑神保町シアターでの〈大映の女優たち〉特集。

それまでは監督や脚本家で観る映画を決めていたが、好きな女優さんが増えるにしたがって、女優本位で作品を選ぶことも増えた。
映画はダメでも、好きな女優さんが綺麗に撮れてればそれで満足したり。

京マチ子さんは、それまでは『羅生門』しか知らず、しかも作品自体も大して愛せてなかったので、正直言うと印象が薄かった。

そんな印象も、新文芸坐で観た『雨月物語』と、神保町シアターで観た『赤線地帯』で当然のように覆され、大好きな女優さんの一人になった。

これも新文芸坐だったが、『楊貴妃』と『地獄門』の二本立てを観たとき、どちらの作品も京マチ子の登場の仕方がほとんど同じで笑ってしまった。
群衆がガヤガヤしだす、するとまず彼女の声だけが響いて、さらに一瞬の間を置いて京マチ子フレームイン。音楽は必ずハープの大仰なグリッサンド。周りの誰もがその美貌に口をポカーンとしている。
(微妙に記憶違いがあるかも)

その後は大作だろうとプログラムピクチャーだろうと、なんとなく面白そうならどんどん観た。


↑こちらも神保町シアター、〈豊田四郎と東宝文芸映画〉特集。

特に印象深いのは、吉村公三郎『偽れる盛装』と豊田四郎『甘い汗』。
『偽れる盛装』では、男を手練手管で手玉にとる芸者役だが、そこに戦後の逞しい女性像を重ね合わせているのが新鮮だった。
したたかに強く生きる京マチ子のかっこいいこと。
余談ながら、彼女に逆上し刃物を持って追い駆けてくる菅井一郎には、菅井一郎という役者には重すぎるだろう伊福部音楽がつけられていて少し笑う。

『甘い汗』の京マチ子も逞しい。
バーの女給として働くグダグダな現状に見切りをつけたいと思いながらもそう出来ない、型通りな言葉を使えばダメな中年女を熱演している。
この熱演度合が凄い。文字通りの体当たり演技で、劇中さんざん強調される夏の暑さと相俟って彼女の肉体が強烈な印象を残す。
前後のシーンはすっぽり抜け落ちているが、彼女が早朝、外でタバコを吸うシーンが個人的には好きだ。

まだ観てない作品もたくさんあるから悲しくはない。
でもやっぱり寂しいよ。

合掌。

石川淳「紫苑物語」

おそらく、傑作中の傑作なのだろう。
しかし隙のなさ故にとっつきにくいのも事実。何度読んでもきちんと読めている自信がない。

国の守が優れた歌詠みであることがどういう意味を持つのか。文庫版解説で福永武彦が言う様に、〈自己が死ぬことによってしか自己の使命を知り得なかった、不幸な芸術家の運命を主題に〉したものと言い切っていいのか。
国の守と平太の関係は何を隠喩しているのか。紫苑とはどういう花なのか。特に『今昔物語集』とは関係があるのか…等々。読み込もうとするとキリがない。

作者に言わせれば、そんな読み方はおそらく間違っている。
国の守の暴発するようなエネルギーさえ読み手に伝われば、あとはどうでもいいと言うかもしれない。
それで納得できればいいのだが、この作品は他の石川作品と比べても相当精緻に〈構築〉されている気がしてしょうがないのだ。
〈小説はどこで終わってもいい〉と作者は『文学大概』他評論などで繰り返しているが、本作に関して言えば、その言葉も韜晦と聞こえる。

そんなこんなで、例によってネットで読める先行研究を探そうとしたら、オペラ『紫苑物語』のサイトがトップに引っかかってきた。
サイトのコラムで、高橋源一郎は言う。

「石川淳」の名を聞くことは少なくなった。「石川淳」の作品について論じられることも同じである。ほんとうに信じられない。わたしのように長く、日本文学を読んできた者にとっては。だが、そのことを「石川淳」本人は落胆などしないだろう。美は儚いものであると彼自身が主張していたのだから。

しかし高橋はコラムの最後で、〈絢爛たる言葉で紡がれた言葉の館をわたしたちはもう一度さまようべきだ〉とも述べる。
その通り。
再び訪れたこのマルスの歌の季節にあっても、石川淳の作品世界をさまようことを忘れてはならない。「Non」と叫ぶことを忘れてはいけないのだ。
紫苑の花言葉は「君を忘れず」である。