「夢の島少女」の深層 (24) おわりに

『「夢の島少女」の深層』は、とりあえず今回で終了です。最後までお読み頂き、ありがとうございました。

当初は『ミンヨン』の公開に間に合わせるつもりでしたが、結局一ヶ月程遅くなってしまいました。BSプレミアムでの佐々木ドラマ再放送と重なったので結果オーライではあります。
(リマスター版は、まだ全編通して鑑賞していませんが予想以上の画質の向上に驚きました。
ソフト化は困難でも、きちんと原版が保管され、鑑賞することも以前ほどは難しくない状況を嬉しく思います。)

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『夢の島少女』の前後に書かれた企画書、エッセイ、インタビュー等に目を通すと、本作の底に沈められた物語の層の厚さ、受け手の想像力を入り込ませる余地の広さにあらためて気付きます。
特に73年の「思いつき企画書」は、着想を得てから間もない時期に書かれたと思われるだけにイメージが鮮烈で、叶うことなら全文を読んでみたいものです。

この「思いつき企画書」でも示唆されているように、やはり少女は〈死んでいる〉存在であり、作品自体を〈少女の死体を拾った少年の妄想〉とすることも可能だと思います。
だとすれば、作品完成時に批評的だったNHK上層部や批評家は作品に沈められた危険性を感じ取っていたわけで、じつはそれほど作品を誤読していたわけではないようにも思えます。だからこそ尚のこと当時どのような批評がなされたかを詳しく知りたいと思うのですが。

もしかしたら最初の90分版では、『夢の島少女』が〈少女の死体を拾った少年の妄想〉であることがはっきりとわかるような構成になっていたのかもしれませんが、カットされたフィルムがおそらく現存しない以上、想像の域を出るものではありません。

しかし、長々と論評めいたことを書いておいて言うのもなんですが、この作品は『夢の島少女』というタイトルがすべてを語っているように思います。

『夢の島少女』。
たった五文字の言葉が持つイメージ喚起力の凄さ。これだけで一篇の詩です。

タイトルを聞いた瞬間に想像力を喚起される者にとって、物語云々を論じることはほとんど意味がありません。
想像力の戯れに身を任せ、作品に沈められた作者のイメージや体験と、自身のそれとが共鳴する瞬間に喜びや痛みを覚える、そんな作品だと思います。
(だからこそ、共鳴する要素を持たない人にとっては不協和音でしかなく、それこそ独り善がりなゴミのようなものでしょう)

タイトルだけで成立してしまっている作品ということでは『銀河鉄道の夜』みたいなもので、タイトルが変更されることを認めなかった作者の確信にも、それは現れていると思います。

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『「夢の島少女」の深層』は、学生当時の自分としては全力を尽くしたものですが、消化不良な部分も多く見られます。
また、佐々木昭一郎を語る上で欠かせない音楽・音響面には一切言及していません。
論じる対象を広げ過ぎると「卒論」として散漫なものになってしまうので、当時としては仕方なかったのですが、今後調べてみたい気もします。
その一方で、これ以上分析するような視点では作品に接したくない気持ちもあります。難しいところです。

個人的には、論文後半の強引な〈転調〉が、全体の完成度を落としている代わりに、今でも当時を思い出させてくれるので、我ながらいいキズだと思っています。
当時の指導教授や友達、そして川本三郎先生にも感謝致します。

「夢の島少女」の深層 (23) 無季

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最初、ぼくはどういう戦略を持ったかというと、今の怒りを持ってやってると、「私は怒ってます」っていう生のドラマしかない、これを乗り越えようと思った、大変だったけど。『四季』を採択する時、川口さんっていう名部長が、どうも、「私は怒っています」っていうの、ぼくの目のうちに感じたらしいんだ。で、それがあるうちは、ものは創れないだろうってことをあとになって言った。
(「四季・ユートピアノ」『創るということ』)

「今の怒り」の「今」は、『四季』が採択される一九七八年のことを指す。佐々木は企画採択に至っても、『夢の島少女』の雪辱戦という意識が強かったのだろう。しかし、『夢の島少女』以降の佐々木のエッセイを見てみると、それが怒りを静める過程だったかのように思える。『四季』の企画に込められた「怒り」という負のエネルギーを、創作に向けて正のエネルギーに転化する過程と言い換えることも出来る。

『紅い花』から『四季』のあいだに書かれた三つのエッセイには、人々との連環のモチーフが戻ってくる。それぞれ殆ど同一の内容を持つことから、佐々木が当時このモチーフに強い自信を持ち、創作に取りつかれていたことが想像される。
三つのエッセイに共通しているのは、冬の夜、「私」あるいは「少年」が歩いていると、川の流れに乗って佐々木が今までに出会った人々が現れてくるというモチーフである。これは佐々木の実体験に基づいている。

1977年の冬、私は何か強い力によって動かされ、冬の東京の街を歩いて東京湾まで行った。朝になっていた。深夜の道路のひびく私の足音を聴いているうちに、「夢の島少女」(1974年)を創った時、それを見たあるレコード店の女店員さんが、私にバッハの「主よ、人の望みの歓びよ」のレコードを送ってくれたことを想い出していた。それから、藤田真男さんという豊橋市の学生さんと、札幌の池田博明さんという北大学生が作ったミニコミ誌を思い出し、大川義行さんが発刊した「フォーク・アート」というミニコミ新聞を思い出していた。藤田さんと池田さんは「夢の島少女」を見て感動し、そしてミニコミ誌を作った人たちだった。私は、作品でこたえなければならない。
東京湾へ行ったのは1月の真冬だった。音がよくひびいていたのを覚えている。
(『佐々木昭一郎の世界』パンフレット・一九八四)

まず「無季 -持続する川の移動ショットから-」(『放送批評第一〇三号』一九七七年二月号)を発表する。

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―∞。私は夢を見ながら歩いた。夢を見る時間が歩く時間を上まわっていた(中略)
私は唯、夢を反すうし、噛み、そして脚を見ながら歩いた。私は確かに自分の脚で歩いていた。私は歩く即興脚本の道路の上を歩いていた。(中略)森への路地を垂直に歩いてゆくと、道は川へつながっていた。

「無季」の前半部は、例によって疎開体験の記述が主だが、そこにドノヴァンが登場し、「The River Song」を歌う。狐のお面を被った少年たちが「タンタンタヌキ」を合唱するなど、『紅い花』からのモチーフが「無季」に特徴的な記述である。やがて「私」が母親のお腹の中にいた頃の記憶が語られる。これが『四季』の栄子のモノローグの原形になる。
このエッセイに登場するのは、ドノヴァン、葛城哲郎、友川かずき、川本三郎の四人のみである。

次に発表された「七色村字七色」(『放送批評第一〇四号』一九七七年三、四月合併号)は、佐々木が疎開した村をタイトルに冠している。
その名前からの発想なのか、虹を連想させる七本のカラーマーカーが登場する。またピアノもモチーフとして初めて描かれる。
三つのエッセイのなかで、名前が挙げられる人の数では本作が最多の三十八人である。ここに描かれる人々は、佐々木が共に作品を創ったスタッフ、彼の作品を批評したファンや評論家、さらに彼が影響を受けた作家など、多岐に渡る。「少年」が川を歩いていくと、彼らは少年の姿をして現れ、かつて佐々木に送った言葉を再び語りかける。佐々木「少年」は出会いの回想をそのまま書き留めている。
最後に現れるのは、ハックルベリー・フィンとマーク・トゥエインの二人である。

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「~ユートピア~ ひとの望みのよろこびを」は、『シナリオ』(一九七七年三月号)に、リレー連載「作家の眼」の第三十二回として発表された。
バッハの曲名をタイトルに冠した本作も、「七色村字七色」とほぼ構成を取っているが、疎開体験は語られず、『夢の島少女』放送後にドノヴァンのレコードを佐々木に送ってきたレコード店の少女と、当時美大を目指す受験生だった中尾幸世について語られる。『夢の島少女』以降に知り合った人々の、それぞれの時間の流れに、佐々木は思いを馳せている。

「記憶」の箱が、ひっくり返る。私は、創ることを考え続けて歩いた。一日24時。ひょっとすると240時の深度。幾尋、両手伸ばして、川哩測る。有限の川、下って、無限の川、遡って、考える時間が今で、今の時間が夢の尋。少年の掌。掌の線に汽車。掌の川に河蒸気船、掌の原に人。水先案内少年は、夜空を見張った。ひっくり返って映る水面の星群。抜けた空気の乾燥、彼は川面が確かに唄うのを聴いた、川面を回転するレコード盤が川蒸気の水車とそっくりのスピードで唄うのを見た。川は、無限の蛇行を持続していた。私は作る事を考えつづけて歩いた、歩いて考えて、考えて歩いて、二本の脚。交互に、ピアノペダル、考えて歩いて、歩いて考えて、川潅木にしがみついた。羅列、羅列。

溢れ出るイメージの連鎖を抑え切れないような、ほとんど散文詩といっていいような筆致で、かつて出会った人々との記憶が語られる。
レコードの溝を「有限の川」に例えたのは音響効果の織田晃之祐だったが、そのイメージを借りて、レコード盤の上に佐々木なりの『ハックルベリー・フィンの冒険』を展開させたのが、本作ではないだろうか。
佐々木の高揚感が読み手にも伝わってくる。一部だけを引用するには忍びない、名文である。

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有限の川を下り、無限の川遡り、大きな川へ出た。川はミシシッピー川とそっくりだった、見た事もないはずが。いくつもの路地の、曲り角を廻って、大通り。正月。川の水面はふくらんでいた。私は、大通りの向うから、車輪の音をきいた。音はみるみる接近した。真正面にピアノが走って来るのを私は見た。何人かの人影がピアノの上に立っていた。確認する間もなくピアノは私の頭上をこえた。ふり返ると、一台の大型トラックだった。私は、大通りの歩道橋の階段を上った。左右の脚で、階段の数は、八音階だった。八音階の単純なリフレインはバッハのピアノだった。シンプルだ、しかし、その深度。見果てぬ大通りの向うに、またピアノが見えていた。私は憶え帳の中の辞書を繰った…ユートピアノ…見果てぬ国、見果てぬ夢、しかし、あり得る国、あり得る夢…「ユートピアノ」と、声を発した時、後から声をかけられた。一人の「少年」が立っていた。少年は、後を付けて来たのだ。私はケンジントン公園か、ミシシッピー河畔に本当に立っている錯覚にとらわれた。「少年」は言葉を発した「今まで、川に沿って、いろんな人が出てきたけど、ぜんぶ本当?」「本当だよ、ぜんぶ、これからなんだ、物語は。冒険は」「少年」はにっこり笑った。その眼は、ハックルベリ、フィンそっくりだった。否、レコード販売店の、モリエール描く、受験少女と、ケンジントン公園の、川の流域の出合って来た人の全てだった。

「川の流域の出合って来た人の全て」によって「これから」描かれる「物語」は、夢の島で佐々木が頭に思い描いた、「スタッフ全員、これまで出会った人間全部が、夢の島の稜線から手をつないで走って来」る光景が、四年の歳月によって純化されたものである。ここに怒りの感情を見出すことはできない。『夢の島少女』の雪辱戦という意識も、佐々木の内面奥深くに沈められたのだろう。だが、彼の激しさが失われていないことは、溢れ出るイメージを書き留める彼の筆致に明らかである。
「これから」描かれる「物語」が、『四季・ユートピアノ』を指すことはいうまでもない。

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「夢の島少女」の深層 (22) 深い川

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『放送批評第九十一号』(一九七五年一二月号)に発表された「深い河 -川底の少年の死体はバラバラとなりカオスをまきちらした-」は、副題通り、川の底に沈んだ少年の死体が、年月をかけて五体を失っていく様子を文字通り支離滅裂な筆致で描いている。
残酷だがシュールな描写は突き抜けていてコミカルである。斬り落とされた少年の部位は東京の隅々に散っていく。

夢の島で、その首は微塵に斬られ、一つ一つの大きさは8ミリフィルムのコマとほぼ同一だったといわれている。二つ合わすと、丁度16になるサイズで、今では近くの川底に霧散して悪臭を放ち、ハエの発生源となっているということだった。

足首は、多分、現像液の猛毒が流れるドブ川に落下したらしく、それを食べたネズミが、東京湾に三万匹も浮上したのだった。

斬り落とされた男根には、顔があった。顔には目があった。目は、200度以上の視力があり町の眼鏡屋は、何処ぞ、と東京中を探し廻った末、これも東京湾で発見された。

佐々木の想像力が暴発したような内容だが、東京湾とそこに注ぐ川のモチーフは一貫している。
そしてこのエッセイで重要なのは、透明感や空間の広がりを感じさせる描写が顔を出していることである。

脳味噌には、数億光年彼方の星の数よりも多いシワがあって、そこにその分だけの川が流れていた。その分だけの川は、この東京のどの川よりも深かった。

その記憶の川をたどってゆくと、大きな海につき当り、海をたどってゆくと、再び元来た川に出会う事になっていた。

少年の眼球は、水面に向って浮いて空を見ている。水面からはすぐ首がだせるはづなのだが、水面はガラス張りのように見え、眼球感触によればそれは数億マイルに及ぶ透明な氷なのであった。

私は川から街へ歩き出した。
そこはまた川だった。
ドーッと、いくつもの川が、私の眼の穴から、入って来た。
私はまた、深い川底を見ようとした。眼球がないというのに、泥色の深い川の底は、よく見えるのであった。

空や星などに関連する描写は、『紅い花』以降、『四季』までに発表されるエッセイや、『四季』のシノプシス、制作ノートに頻繁に見られるモチーフだが、その萌芽がこの「深い川」にも見て取れる。抑うつ的な形を取っていた『夢の島少女』酷評への怒りが、ゆっくりと純化されてきたかのような気配がある。

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翌一九七六年、『紅い花』が制作される。佐々木にとって『紅い花』は、『四季』を制作するための局内での足場固めのような作品だったのだろう。『創るということ』の記述からもそれを窺うことができる。

続いて『紅い花』の時は、いろいろあったから、ますます自分が磨かれていった。今度はVTR使ってセット使わなきゃ演出家じゃないの、なんて言う非常に女性的な人たちもいたわけ。あのシリーズ、劇画シリーズね、ぼくが企画した。(中略)三本考えたわけだ。(中略)ぼくが三本ともやればよかったけど、情勢がそうじゃなかったからね。本当は、あのドラマにも全部実生活者に出てもらいたかった。(中略)
で、『紅い花』は、あまり売れない役者使って、嵐寛さんは出てたけど、マチエールとしてね、それだから芸術祭の大賞とった時は、ビックリ仰天した。エミー賞も入賞したし。これで、言われたことに対して、やることはやって証明した。次は『四季』にかかると。再度、『夢の島少女』の雪辱戦というわけじゃないけど、挑戦だね。で、『四季』にとりかかったんだ。
(「紅い花」『創るということ』)

「いろいろあった」、「情勢がそうじゃなかった」という言葉から、当時の佐々木の苦闘ぶりを想像することは難しくない。創作意欲を抑えなければならない理不尽さは、どれほどの苦痛であっただろう。
そして彼は『四季』に取り掛かる。

「夢の島少女」の深層 (21) 退行移動

佐々木は続いて、一九七五年四月二九日発行のミニコミ『FOLK ART vol.4』に、「退行移動」を発表する。
前半部はやはり孤独な少年期から青年期にかけての記憶が描かれるが、後半部では「私」と「少女」による、もうひとつの『夢の島少女』と呼べるような物語が展開する。

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私の生涯の目的は、一人の少女を映画(フィルム)に撮り、彼女と永久に暮らすことであった。途方もない夢であった。しかし、これ以外に人生の目的は何もなかった…。
その少女は、私のアパートの近くにある駄菓子屋の二階に住んでいた。(中略)店の外には万年薔薇が咲いていた。その脇には水道の蛇口がひとつ、突出していた。蛇口の下には、少女がいつも足を洗うために使うポリバケツがひとつ、置いてあった。(中略)私は少女の水で体を洗い、それからコップにすくって飲む。そんな日が一ヶ月も続いた。「きみに、ほれたから、映画を撮りたい」、そんな一流作家なみのセリフを一度だけ吐いてみたいと私は想い続けていた。(中略)
毎週金曜日の夕方、少女は白いワンピースを着て外出する。少女は、私のアパートのすぐ近くを流れている、近々埋められる事になっている運河の橋の上に立つ。そこへ、白い車が迎えに来る。白い車には三十過ぎの男が乗っていて、少女を連れ去る。車は夜中の一時過ぎに、同じ橋の上で一分ほど止まる。車を下りた少女は、赤い靴をぬいで裸足、裏口から二偕へ駆け上る。これが金曜日の少女の行動だった。(中略)次の金曜日を待った。(中略)私の目的は、少女を橋から川に突落し、気絶させてアパートに運んでくる事であった。そして、その通りになった。(中略)
夢の様な日が続いた。少女は私が盗んだ牛乳を飲み、私が盗んだ浴衣を着せられ、この世のものとは思えない女に成長していった。

少女が足を洗った水を飲み、体を洗う被虐的な描写が目を引く。「私」が少女を橋から突き落としアパートに連れ込む描写は、佐々木の少女(中尾)への執着の強さを窺わせるが、ひょっとすると『夢の島少女』の初期構想にあった場面なのかもしれない。
その後、映像作品と同じように少女はアパートから逃げ出す。彼女はカメラマンによって犯され、映画監督によってラブシーンを撮影され、舞台演出家の前で裸体を披露する。そして「私」は、彼らを次々に殺していく。

深夜になった。男は少女を抱きかかえるようにしてガレージに向った。(中略)男が運転席側のドアに向きを変えたその瞬間、私は松葉杖で思いっきり男を殴り殺した。殺している自分の顔が、ドアガラスに映って、私は一層興奮した。自分の顔をみながら、私は男をメッタ打ちにした。その男の死体は、ドブの中に埋められている。

撮影が行なわれていた。私のか細い体の倍もある様なレスラーと少女のラブシーンが撮影されていた。監督がレスラーを大声で怒鳴っていた。「俺の分身がお前なんだ。俺はこの女にほれているから、映画を撮るんだ。」 私はとっさに何をしようか考えた。私は火をつけようと考えた。(中略)その監督の死体は、地下鉄工事のコンクリートのはるか下方に眠っている。

その劇場は阿佐ヶ谷にあった。このセリフをきっかけに、少女は舞台中央の巨木の前で立止まり、動きを止め、裸になった上半身を客席に向ける。幕。スポットを当てているのは舞台演出家だった。(中略)演出家は、五十才位の男だった。(中略)私は握りしめた果物ナイフを男の下腹に突きさした。舞台は暗転した。男の死体はゴミの島に埋められている。

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「私のか細い体の倍もある様なレスラー」や、「五十才位の男」によって「私」の少女が犯されてしまう。ただ傍観するしかない「私」の姿には、佐々木の劣等感や社会への憎悪が滲み出ている。
また、彼らが埋葬される「ドブ」、「地下鉄工事のコンクリートのはるか下方」、「ゴミの島」といった場所は、『夢の島少女』以降の佐々木の意識が、依然として東京の地下に埋められた川や夢の島に注がれていることを示している。この「イメージの蓄積」が、次項に取り上げる「深い川」を経て、『紅い花』の川のショットに結実するように思われる。

その後、少女は一旦、「私」のもとに戻ってくるが、やはり他の男たちの許へ去ってしまう。激しい憎悪に駆られた「私」は、公演中の少女を舞台上で刺し殺す。そして「生れて初めて記憶した風景」そっくりの海岸に向かい、自殺する。

このエッセイは『夢の島少女』の変奏のように思える。
あのドラマの底にも間違いなくこのようなドグマは流れているし、だとすればNHK上層部や評論家も直感的にその暴力性を感じ取って作品を非難したのだろう。素人の演技云々は非難のための口実に過ぎないのではなかったか。

〈2014〜2015年の追記〉
ドラマからのキャプチャ画像は本文とは直接関係がない。特に(19)以降は作品放映以後のエッセイを扱っているので、文字だけだと味気ないので挿んでいるだけである。

今回の、ケンが松葉杖を白く塗装しているシーンも、なんとなく本文の雰囲気に合いそうなので選んだだけだ。
しかし、この松葉杖は重要なモチーフではなかったかと今になって思う。

なぜ彼は松葉杖をわざわざ“白く”塗ったのだろう。

『夢の島少女』を色彩面から見ると、まず眼につくのは小夜子のワンピースの色だろう。劇中では白、赤、黒を着用している。
いつかちゃんと考察してみたいが、とりあえず思いついたままに書けば、
・白=処女性(聖性)
・赤=血(性)
・黒=死(社会性)
あたりを表していると考えるのが、ありきたりだが妥当かなと思う。
松葉杖の色もここに準じているとすれば、やはり少年の無垢さや無害さの比喩だろうか。

男は赤い車に乗っている。直接は描かれない性的行為が強烈に暗示されるのも車内のシーンだ。小夜子は白いワンピース。
その後、男のマンションでカノンを弾くシーンまでは白いワンピースだが、男の肩に手をかけて仕事ぶりを眺めるシーンでは黒いワンピースを着ている。
そして、ケンは自分のアパートから逃げ出した小夜子を夢に見る。彼女は、”赤いワンピースを着て”男の車に乗っている。

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だとすればこれ以上の悪意はない。

ケンは松葉杖で怪我人を装って、男の車を停め、夢の島へ乗せていってくれるように頼む。
小夜子の“白”を汚した男。彼の善意を“白い”松葉杖で利用し、自ら埋葬されることになる夢の島まで連行する。

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白い杖には真っ黒なドグマが込められていたのだ。

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「夢の島少女」の深層 (20) 無署名

佐々木はまず、『シナリオ』(一九七五年一月号)に、「夢の島の少女」と題したエッセイを発表する。本文は主に孤独な少年期を回想したものだが、冒頭部に、「無署名の男」が登場する。

私は今日も同じ夢を見た。私の意識は今、一人の少女を「活字」によってなぶりものにし陥し入れようとしているある背景をカサに着た一人の男に向かって流れている。その男は「無署名」だった。「無署名」はふちなしメガネだった。「無署名」は黒っぽいコートを着ていた。「無署名」のメガネの奥の陰気な目は何かを隠してネラッていた。全てが「無署名」だった。「無署名」は無垢の少女の心臓を一突きにしたのだ。私は昨日も同じ夢を見てしまった。少女の胸から伝わる血液が背負っている少年の私の背中にニカワのようにこびり付き、私は無人の夢の島のゴミを踏みつけて果てしなく歩いていくのだった。そこは海だった。

前回引用した「カノンが永遠の幸世を流し出す」と比較すると、佐々木の少女への思い入れと、少女を「なぶりもの」にする者への憎悪が読み取れる。
「ある背景をカサに着」た「無署名」。この記述から、完成作品に対して圧力や批判を加えたNHK上層部や評論家への怒りを想像することが出来る。

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しかしここでもうひとつ印象的なのは、その「無署名」の「メガネの奥の陰気な目」である。少女を捉えるもうひとつの視線に対して、「私」は違和感を隠さない。
この視線の持ち主は、少女を「活字」によって「陥し入れようと」している。

これらの記述をみると、制作当初、佐々木の共作者として『夢の島少女』に参加していた鈴木志郎康が浮かび上がってくる。当時NHKのカメラマンだった鈴木は、シナリオを担当した。しかし執筆過程で、佐々木との感性の違いが表面化する。
鈴木がどの段階まで制作に関わっていたかははっきりしない。鈴木の「夢の島少女」についての発言も見つけられなかった。しかし佐々木の発言や著書から推測するに、撮影にはほとんど参加していないように思われる。
一九八二年の自著『創るということ』から、佐々木の発言を引用する。

それでいっしょに旅をして、夢の島も歩いて、都内も歩いて、同時に主人公捜しをしながら歩いて、全部二人でいっしょにやっていこうかって話し合ってた。(中略)で、ある時パッと気がついたんだ。この人とは共同制作できないなって。直感的にはじめからそういう感じがなかったわけではないんだけど。(中略)

台本ができあがってきた。そしたら題名がちょっと違っていたんですよ。題名が異なるっていうの、ぼくは認めないんだ。(中略)題名から帰納的にイマージュを追っていくっていうフーガのような描き方をするわけ。彼が書いてきたのは、「息、裂けよ、少女」っていうんだ。(中略)小さい子供、少年、少女が心中しようって話。(中略)これは、映像に絶対ならないと思った。(中略)「こんな世の中、生きていたくないよ」なんて台詞もあるんだ。これはちょっと使えないと思ったね。で、ぼくは彼に、この台本はダメです、と言ったけれど書き換えてくれなかったな。そのあたりから、彼自身の特有なものを知りたくなって、彼の詩をちょっと読んでみることにした。彼は極私的ってことで売り出したんだけど、そのキャッチフレーズ、ぼくはすぐレンズだってことがわかった。レンズの屈折。カメラマンはレンズの後ろにいて傷つかないわけだ。(中略)

彼の詩の中に「月」っていう詩がある。これは、「私は手淫した」ってだけの詩なんだけど、そういう修辞法を身につけた人で、その作風っていうの、いっぺんにわかったわけだ。もうひとつは、なんていうか、自分の体臭が非常に強い人で、たとえば誰かが脚本を書いて、彼がカメラマンをやり、あるいは演出をやるってことは、終局的にできない人だってことを、ぼくはその詩と長くつきあってわかったわけ。

佐々木は鈴木との創作に対する姿勢の違いを語っているが、興味深いのは、「題名が異なるっていうの、ぼくは認めない」という言葉だ。『夢の島少女』を『息、裂けよ、少女』と改題された佐々木は、その体験を「活字」によって少女をなぶりものにする「無署名」に込めたのではないか。
文中に登場する「極私的」という言葉は、一九六〇年代半ばに鈴木が作った造語である。佐々木はこの言葉を「レンズの屈折」だと解釈している。これを「無署名」の「メガネの奥の陰気な目」に結びつけるのは行き過ぎだろうか。
「カメラマンはレンズの後ろにいて傷つかないわけだ」。

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二〇〇六年、新装増補版として刊行された『創るということ』からは、鈴木志郎康に関する記述は削除されてしまった。

〈2014年の追記〉
なかなか強引な章だなぁ、と今読むと思う。
『創るということ』は『ミンヨン 倍音の法則』に合わせて再度増補され刊行されたが、鈴木志郎康に関する記述はどうなっているだろうか。もう購入したのだが、『ミンヨン』のネタバレが嫌でまだ読んでいない。

「夢の島少女」の深層 (19) 黙殺

作品終盤近く、夢の島で小夜子とケンが縄跳びの縄をまわし、その中にカメラが入っていき一緒に縄跳びをするシーンがある。それまで全編を覆っていた陰鬱な空気は後退し、少女と少年も作品中唯一といっていい笑顔を見せる。

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44.死の国・再生
(略)
カノンが聞こえてくる。
終わりのない永遠のカノンがきこえている。
それは少女そのもの
永遠の少女を流しだす永遠のカノン。

ナワトビをして遊ぶ二人、
二人は、はじめて遊ぶ、
ナワトビを廻す二人、
が、誰も飛んでいない。
ナワトビを廻す二人、廻しつづける。
二人はナワトビを廻しつづける

カノンが高まる。
カメラがナワトビの中に入る。
カメラが飛ぶ。アクション。
アクション、そのリフレイン、

カノンのリフレイン。

少女は体ごと、
少年は体ごと、ナワトビを廻す。
二人は微笑む。
二人は白の溶明。

カノンが続く。

二人はナワトビを続ける。
白の溶明、太陽の中。
(略)

撮影直後のインタビューやエッセイで佐々木は、この縄跳びの場面を撮影した際に感じた高揚感を語っている。

カメラは永年のコンビである葛城哲郎氏ですが、夢の島で二人がナワとびをするシーンを撮るとき、葛城氏までが二人に合わせてとびはね、見ていて、仕事を離れた無償の浄福を感じました。
(「夢の島の少女・佐々木ディレクターに聞く」『毎日新聞』一九七四年七月九日夕刊)

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私は「夢の島少女」の中尾幸世に傾斜して落込んでゆく私自身の感情を押え切る事が出来ないでいる。彼女は私の永遠、魂の女性だ。
私は、毎日彼女に会っている。ただし編集台の上で。毎日会えないから、電話で話をする。
「もしもし、永遠ですか?」
「ハイ」
(中略)
永遠と少年ケンは、一本のナワトビを廻す。葛城カメラマンが中に入ってナワトビをはじめる。カメラを廻しながら、いい感じだ。これなんだ、やりたいのは。スタッフ全員、これまで出会った人間全部が、夢の島の稜線から手をつないで走って来ればいいのだ。
(「カノンが永遠の幸世を流し出す」『FOLK ART vol.3』一九七四年八月)

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「これまで出会った人間全部が、夢の島の稜線から手をつないで走って」来るという一文に、佐々木の高揚感が映し出されている。このような「今までに出会った人々との連環」というモチーフは、以後『四季・ユートピアノ』までの佐々木のエッセイに一貫して現れる。
この縄跳びの撮影こそ、『四季・ユートピアノ』の出発点だったに違いない。
一九八二年版の『創るということ』に収められた、「フィルム編集室にて -あとがきにかえて」から、『四季・ユートピアノ』の成り立ちを引いてみる。

『四季・ユートピアノ』という題名がひらめいたのは、一九七四年の暮だった。それから四年後に企画が決まるまで、私は、歩き、書き、ひらめき、修練した。(中略)

一九七四年  『四季・ユートピアノ』、創案。
一九七七年冬 四〇〇〇枚、書く。
一九七八年春 企画採択、スタッフを決める。

佐々木のなかで、『夢の島少女』の完成直後から『四季』は始動していた。しかし当時の彼は、思うように作品が創れる状況ではなかった。
『夢の島少女』から『四季・ユートピアノ』までの佐々木の意識の流れを、エッセイを中心に追ってみたい。

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縄跳びのシーンを撮影した六月下旬のクランクアップ以降、佐々木は苦境に立たされることになる。まず、当初予定されていたイタリア賞の出品を取り消される。
クランクアップ直後の一九七四年七月九日の「毎日新聞夕刊」には、「『夢の島の少女』・佐々木ディレクターに聞く」と題した記事が掲載されている。そこには次のようにある。

「夢の島の少女」は、下旬までに編集を終わり、イタリア賞参加が決まれば、九月に選考が行われるフィレンツェへ送られる。国内放映は八月三十日午後七時半から八時四十五分までNHK総合。

七月の段階ではイタリア賞参加の予定があったことから、出品取り消しが直前に決定されたことが窺える。また八月三十日とされた放送は一ヵ月半後に遅れ、時間帯も深夜に変更されてしまう。
この記事では作品の尺は完成作品と同じ七五分だが、一ヵ月後に発行されたミニコミ『FOLK ART vol.3』に掲載された佐々木のエッセイ「カノンが永遠の幸世を流し出す」には、「私の演出、葛城哲郎撮影によるテレビフィルム「夢の島少女」(NHKTVフィルム作品九十分)」という記述があり、放送日時や放送枠が直前まで未確定であったことが想像される。
佐々木は当時を次のように述懐する。

できあがった時に、部内的には非常によくって、イタリア賞参加の予定だったんだけど、不運なことに、参加できなかったんですよ。局レベルの事情なんだけど。それで、芸術祭に出そうってことになった。ぼくは外国で勝負するために創ったんですけどね。『夢の島少女』は四九年の長嶋引退の日に放送された。オイルショックの直前で、それまでやれフォークソングだとか、世の中が浮かれていて、『夢の島少女』のような少年少女の姿を、中尾さんとケンちゃんにね、誰も目に止めないような時代状況だった。上昇志向の誤った方向に、日本全体がいってる最中だった。放送してまもなく、その年の一一月が一二月にオイルショックがあったんだ。そのあとに放送したら、間違いなく芸術祭大賞だったと思うけど。それを見る目はなかったね、審査員に。
(「夢の島少女」『創るということ』)

“夢の島少女”は私の意に反して、さんざんの不評だった。明らかに時期が悪すぎたのだ、と気付いたのは、放送直後だったがどうする訳にもゆかず、私は沈黙を守っていた。
(「NOTES」『ユリイカ』一九八二年三月号)

オイルショックに原因を求める佐々木の解釈が妥当かどうかは分からない。しかし、彼の無念さはその原因を「時代状況」に求めるほか無かったのだろう。

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高名な某評論家がある雑誌に批評を出したんだ。意外や意外、素人がウヨウヨするドラマ。よくこういうのは高校生の八ミリ映画にある。こともあろうにNHKの、どこの誰だかわからないような演出家が、夢の島に飛行機まで飛ばして、少年少女がウヨウヨするところをなめるようにして地上すれすれにはってる、とね。こんなのが大金かけて芸術祭に登場するとは、世の中間違ってるって。大変ショッキングだった。誰かに頼まれて書いたのかなと思った。(中略)
出ている人物が汚く見えても、汚くなくても、なんでそんなこと言われなきゃいけないのかと思う。ぼくは美しいと思って撮しているのに。何人かの人も美しいって言ってくれた。『夢の島少女』については、地方のミニコミ誌なんかで出まわって、ぼくの作品を見る会だとかをやりたいっていう申し込みがすいぶんあったんだけど、そういうことは、評論するような人には全然伝わらないみたいだね。(中略)
だから、素人がウヨウヨしてると言われた時、ぼくに忸怩たるものがあった。素人で何が悪い、というふうにも思わなかったけど。自分はもの創りとして玄人である、というふうに思った。どういうマチエール使おうが、画家がどういう筆使おうが、作風なんだからね。スタイルってもんだから。
(「夢の島少女」『創るということ』)

今でも忘れられないのは、マイナーな話なのだが、「汚らしい少年と少女が、ただうようよするだけの汚らしい作品だ」と、ある高名な映画評論家が、わざわざ日本経済新聞のコラムで感情的に作品をこき下ろしたことだ。その他の新聞も一斉に、まるで仕組まれたごとく、ずた切りに書きたてた。
(「夢の島少女」『佐々木昭一郎というジャンル』パンフレット・二〇一〇)

残念ながら、この「某評論家」の『夢の島少女』評を確認することは出来なかった。当時の新聞や雑誌を見ると、作品が「ずた切りに書き立て」られたというよりも、むしろ黙殺されたような印象を受ける。作品評自体が少ないのである。

佐々木がこれほどまでに怒ったのは、作品を否定されたということよりも、出演者を「汚い」と罵られたことに因るだろう。佐々木は出演者との信頼関係を築いた上で、「共作」作業をする。出演者は演出者の道具ではなく、佐々木のいわば友人である。
折りしもクランクアップ時の撮影で、人々との連環に思いを馳せた直後のことである。
「これなんだ、やりたいのは。スタッフ全員、これまで出会った人間全部が、夢の島の稜線から手をつないで走って来ればいいのだ」(「カノンが永遠の幸代を流し出す」)
これほどまでに純粋な感情を抱いていた佐々木は、いたく傷付けられたに違いない。

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私は戦えるのだが、中尾さんとケン(横倉健児)は誰とも戦えないのだ。その怒りを私は『四季・ユートピアノ』に叩きつけた。
(「夢の島少女」『佐々木昭一郎というジャンル』パンフレット)

そして佐々木の怒りは、人々との連環への思いから出発した『四季』の企画に込められてしまうのである。
ここまで引用した佐々木の発言の多くは、『四季』や川シリーズが陽の目を見た後のもので、いわば佐々木が正当な評価を下されるようになってからのものである。
それだけに、言いたいことが言えるようになった、との感もあったのだろう、佐々木は自己に批判的な者への怒りや不満をストレートに表出しており、若干感情的に過ぎるきらいもある。

しかし、『夢の島少女』放送直後の彼は違っていた。『夢の島少女』放送直後から、『紅い花』の時期に書かれた佐々木のエッセイには、怒りと暴力衝動が抑うつ的な形で渦を巻いている。

「夢の島少女」の深層 (18 1/2) 2014年の追記

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(1)でも書きましたが、この〈「夢の島少女」の深層〉は大学の卒論を基にしています。極端に意味が取りにくい箇所は加筆なり訂正なりしていますが、基本的にはほぼ原文のままです。
原文のままですが、訂正しようがない論文としての大きな欠陥があるのです。前回までは、“『夢の島少女』の深層にあるもの”を考察してきましたが、次回以降は“『夢の島少女』から『四季・ユートピアノ』に至る創作の過程”を見ていくものになり、論の中身が途中から全く変わってしまっているのです。

言い訳にしかならないのは承知の上で、これには卒論執筆当時の状況が強く影響しています。

佐々木ドラマで卒論を書くことに決めたのは2010年の6月頃だったと思いますが、その翌日に特集上映『佐々木昭一郎というジャンル』開催のニュースが飛び込んできました。偶然と言えばそれまでですが、偶然以上のものに思い込もうとしていました。
その特集上映では佐々木・中尾両氏にお会いすることもでき、大感激しました。ただのミーハーです。
さらに、制作当時の台本やエッセイなど、佐々木監督自身が書いた資料を探して読み込んでいく過程で、思いもよらなかった高揚感を感じることになります。
70年代後半〜『四季・ユートピアノ』放送までに書かれたエッセイ群は、読み手の感性に強く訴えてくるもので、とにかく素晴らしかったのです。大袈裟でなく『四季・ユートピアノ』を初めて観た時のような一種の興奮状態になってしまいました。
(さらにいくつか偶然の出会いもありました。)

結果として、対象とする作品との距離感を見失っていくことになります。本来なら前章までの内容を踏まえて、“『夢の島少女』論の”結部を書かなければならなかったのですが、それとは別に70年代後半のエッセイに触れた興奮も記しておきたくなってしまい、強引に論にねじ込みました。それが次回以降の部分です。
佐々木作品が持つ、誰かに伝えたくなる魔力といえなくもありません。
本文では、『四季・ユートピアノ』が『夢の島少女』終盤の撮影から出発していることを傍証するための引用ということにして、〈『夢の島少女』論〉としての体裁を繕っています。

しかし、それはそれとして、『調査情報』誌に連載された「director’s note」と、『ドラマ』誌に連載された「脚本と真実の周辺」は、佐々木作品が好きな方には必読だと思います。機会があればぜひ一度読んでみて下さい。

では次回から、本論に戻ります。

「夢の島少女」の深層 (18) 龍村仁「海鳴り」

もうひとつ、葛城哲郎と『夢の島少女』の関わりを考える上で重要と思われる番組がある。龍村仁演出のドキュメンタリー『人間列島・海鳴り』(一九七二年)がそれである。

47年、ドキュメンタリー『海鳴り』では、一つの土地に腰を据えたこともあって、風景と人間と伝説に身をひたしながら、はじめて、撮影におけるデッサンとでも云うべきものを試みてみた。これは、結果的に、49年、ドラマ『夢の島少女』のための習作ともなった。

この『海鳴り』は当初一時間の番組として編集されたが、局内からの反発により、三十分に再編集されて放送された。おそらく一時間版のフィルムは現存しないだろう。
『海鳴り』の一時間オリジナル版を観た斉藤正治は、『シナリオ』(一九七五年一月号)に、「海鳴り -セピア色の世界」と題した評論を発表している。この文章から、漠然とだが『海鳴り』の姿を想像することができる。

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私の見た『海鳴り』は、放送された三十分のテレビ番組ではなく、龍村仁がはじめに完成した一時間のそれである。(中略)
『海鳴り』の構造はまことに興味深いものを提示している。外房の漁村を表現するために、彼は大胆なイメージの重層をはかった。まず構造から見てみよう。
基調になっているものは、当然のことながら、漁村の風景や、住民たちの姿だ。(中略)
進水する船、荒れる海、未完成のまま放置されているイケス、花嫁行列と、赤子の宮参りなどの村の風景の点描、安息を願っての浜辺での食物供養もあった。人と風景による村の日常的・可視的な現況部分である。

『海鳴り』は千葉県銚子市のある漁村を舞台にしている。この外房の漁村風景にみられる「花嫁行列」や「食物供養」といったモチーフも、葛城の内部に蓄積されていったのだろう。『夢の島少女』にも類似のモチーフが散見される。
また、『海鳴り』の舞台が『やなぎ屋主人』、『ねじ式』等でつげ義春が好んで描いた房総であることも、制作者間でのイメージの伝達を考える上で興味深い。

『海鳴り』に見た三番目の構造は、実際には存在しなかったことを、実際あったかのように仕掛けて、漁民の日常性を衝撃する方法である。
「きょう見かけない人、来ませんでしたか」と家々を訪ねていくマイクとカメラ。漁民の無気味がる反応や不思議そうな表情が、暗いセピア色の画面のなかにとらえられる。その部分には「変死体発見報告書」などと聞きとれはするが、ほとんど意味もあいまいなつぶやきもかぶさってくる。
漁村の日常性と、それと同時に起っている事件を地誌的に連結しさらには実在しない不可視なものまで稼動して、龍村仁は『海鳴り』の構造の方法とした。そうすることでいま外房にあるひとつの漁村の総体を浮彫りにするのである。

『海鳴り』の特異性のひとつが、この非ドキュメンタリー的な手法である。斉藤はこれを「呪術演劇的」とも評している。このような手法を用いて龍村が描こうとした「ひとつの漁村の総体」とは、「日常的・可視的」な部分に潜んでいる、閉塞的な共同体意識という「不可視」なものだろう。

龍村はそのような日常性に、「きょう見かけない人来ませんでしたか」とごく原初的な方法で、ウワサとして伝播することで、彼らの眠りをさまし、深層をつついて、漁村の、あるいは漁民の本来的なイメージを喚起したかったのだろう。そこから、彼の見た漁村をドキュメントした。

龍村とともにこの「訪問」を繰り返したであろう葛城にとって、この「漁民の本来的なイメージ」は、八森での『夢の島少女』の撮影にも無意識の内に作用したのではないかと思う。ケンが小夜子を探してさ迷い歩くシーンなどに、『海鳴り』の残像が見て取れる。

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稼ぎ手を集団就職で都会へ出さざるを得ない疲弊した農村の風景と、歴史的な重みを背負った「本来的」な漁民のイメージ。葛城が持ち込んだこれらの要素が、佐々木の想像力との相乗効果により、作品に更なる奥行を持たせたことは間違いない。
次回からは、『夢の島少女』から『四季・ユートピアノ』に至る佐々木の意識の流れを、彼が散発的に雑誌に発表していたエッセイから読み取っていく。

「夢の島少女」の深層 (17) 葛城哲郎と「睦合出稼ぎ年表」

少女の故郷の海が背負っている暗さは、「死の匂い」によるものだけではない。それは少女の故郷である地方の漁村という風土そのものが持つ暗さである。

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両親のいない少女は、他の同級生たちと共に集団就職という形で上京する。
集団就職も、戦後日本の高度成長を考えるときには欠かせない政策のひとつだが、佐々木が、集団就職を描くことによって殊更に同時代性を強調しようとしたとは思えない。彼はそのような大局的な視点からの創作というものを嫌う体質がある。
一九六五年のラジオドラマ『おはよう、インディア』制作時のエピソードとして、佐々木は次のように述懐している。

国家っていうのがもうひとつの主題になってるから、それをあらわすために、韓国の女の人をもう一人、登場させて、国の問題で悩んで、自殺するっていう設定があったんだ。これをぼくはカットした。韓国問題がいやだってことではなくて、「国家で区切ることのできない友情」っていう、全人称のドラマをつくる気がなくなっていた。というのは、そういうことすればドキュメンタリーに負けるし、もっとパーソナルなものの発露なんでね、企画の原点が。
(「おはよう、インディア」『創るということ』)

これは佐々木の作家としての姿勢であり、後の作品にも一貫して当て嵌まる。『コメット・イケヤ』の人間蒸発、『マザー』の嬰児遺棄、『さすらい』の在日米軍基地、『紅い花』、『四季・ユートピアノ』の太平洋戦争など、同時代的なテーマは描かれていないわけではないが、作品の奥深くに通奏低音として沈められているのだ。聴き取れる人には聴き取れるが、主旋律は佐々木の言うように「パーソナルなもの」であり、人間そのものである。
『おはよう、インディア』に、「国家で区切ることのできない友情」というテーマを持ち込もうとしたのは共作者の寺山修司だった。

イラさんていう人がいる、ケンちゃんがいる、ぼくの中にやりたい主題というのが明確にある。だけど作家にはそれを全部、受け渡すことができなかった。作家の領域の中で書いてくるわけだから。
(「おはよう、インディア」『創るということ』)

佐々木と寺山の方法論の違いが現れたのだろう。脚本は佐々木が現場でアレンジして録音することが多かったようである。

では、『夢の島少女』の場合はどうだったのだろうか。佐々木が『夢の島少女』を述懐する際にも、少女の故郷のシーンがどこから発想されたかを語ることはない。前項に述べた、「空想錯誤」とつげ義春の作品にイメージの源泉を求めることはできるが、果たしてそれだけなのだろうか。

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『夢の島少女』の撮影を担当した葛城哲郎は、『映画テレビ技術』(一九七五年八月号)に、「フィクション・テレビ・フィルム -ドラマ『夢の島少女』制作メモから-」と題するエッセイを発表している。この文章は、『夢の島少女』の撮影がどのように進められていったかを窺うことの出来る興味深いものだが、葛城は次回作の準備のために佐々木に呼ばれた日のことを次のように記している。

演出の佐々木(昭)ディレクターと台本担当の鈴木志郎康氏が”ちょっと話があるから”と顔を出したのは、NHK放送センター10階にある、狭苦しいフィルム編集室の一室だった。昭和49年2月、そのとき私は、明るい農村 “村の記憶” -睦合出稼ぎ年表-という番組の編集に没頭していた。(中略)
 しかし私は、担当ディレクターの真しで粘り強い態度に牽引され、番組のイメージにあまり強く結びつけられていたので、ドラマの打合せに現われた二人の話を聞いていても、このドキュメンタリー番組の続編をつくるような気分を変えることができなかった。ディレクターが少女について語り、台本担当者が東北の風土について語った、ということもあるかもしれないが、それは、ごく自然な成行きなのだった。

『明るい農村 “村の記憶” -睦合出稼ぎ年表-』の編集作業中だった葛城は、佐々木と、台本担当の鈴木志郎康に物語の概要を聞かされても、『睦合出稼ぎ年表』の「続編をつくるような気分を変えることができなかった」という。
葛城にとってこのドラマは、まず「農村から出稼ぎに出てきた孤独な少女」というイメージが先行していたのではないだろうか。東京での少女の孤独に意識を向けていた佐々木との、微妙なズレが垣間見られる。
では、『睦合出稼ぎ年表』とはどのような番組だったのか。同じ葛城のエッセイから引用する。

少女の身売り、出征、出稼ぎという形で、村を連れ出され、引き立てられ、大都会に吸い込まれた挙句、二度と再び、生きて故郷の土を踏むことのなかった農民の歴史を、”年表”という形式で記録し、かれらをこのような運命に追い込みつづけているものへの告発と抵抗の文集としてまとめ上げた、一中学校教師と、その文集が番組のモチーフとなっていた。

番組は睦合村在住の女子高校2年生を“かたりべ”として登場させるとともに、年表追跡の中に彼女自身のイメージをダブらせていくという構成方法をとり、さらにトークのほか、詩、わらべうた、音楽などの音声テープも同時にダブル編集をしていったために、その作業は、かなり“腕力”のいるものであった。

葛城は、この番組に参加した気持ちをそのまま、『夢の島少女』の撮影まで意識的に持ち越した。それは彼の、従来的な撮影手法によるドラマへの反発心でもあったし、『マザー』、『さすらい』と組んできた佐々木とのコンビネーションがマンネリに陥らないようにとの考えもあったと思われる。
集団就職を捉えるカメラの目線は、佐々木の意識というより葛城の意識が強く反映されたものだったといえるのではないだろうか。

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佐々木と鈴木が東京で主人公となるべき少女を探している間、葛城はロケハンに出発する。行き先は睦合村のさらに北、北秋地方だった。

ともかくロケハンをはじめてくれ、という指令が出たのは、三月初旬だった。(中略)夢の島は、他の番組でも何度も行ったことがあり、掌を指す様に承知している。ためらうことなく、私は東北へ向うことにした。また”村の記録”の上田ディレクターから、「睦合村から更に北へ行ってみてはどうか、いわゆる北秋へ」と提言され、大館、能代、五能線経由で弘前までを予定して、3月14日、上野駅をひとりで出発した。
(「フィクション・テレビ・フィルム」『映画テレビ技術』一九七五年八月号)

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葛城はこのロケハンで、秋田県の北西部に位置する、八森町の風景に魅了される。

大館周辺の小坂鉱山、花岡鉱山を手はじめに、能代から八森町まで行ったところで、五能線を下ってきた演出補と合流した。私たちは、いろんな人と会い、数多くの場所へ出かけたが、いつの間にか八森町、そして五能線沿いの海岸の風景に、すっかり心を奪われており、夢の島に対置されるべき現実の土地として、いつの間にか自明となっていた。山は大きく海岸線にせり出す。細長くどこまでも続き、途切れては現われる集落。トンネルや鉄橋で、かろうじて縫うように走っている線路。海岸の黒い砂と漁具小屋。斜面にしがみつくようにして、いたるところに立つ墓石。漁期を過ぎて、静まりかえっている小漁港、その突堤に立ってふり仰ぐと、古電池分解工場の煙突から、ゆっくりと黒い煙が立ち上がっている。(同上)

完成作品にみられる、少女の故郷の海の暗い気配が、この文章からも伝わってくる。海岸の「黒い砂」、煙突から立ち上る「黒い煙」。色彩を感じさせない、重苦しい風景。八森と五能線沿いの海岸風景は、過疎化の進んでいた当時の漁村そのものだった。
葛城が魅了された風景の暗さは、佐々木の海の記憶のなかの風景と重なる。もう一度、「空想錯誤」から佐々木の記憶を引用する。

黒く曇った空がそのまま海につながっていて風が吹いている。波のうねりの間に間に私の父親の体が見えたり隠れたりして浮いている。黒いボコボコの岩が無数、陸地から海に向って蛇行していて、突端の蛇の頭のような岩の上に坐って下駄をはいた私が海を見ている。

「黒く曇った空」、「黒いボコボコの岩」と、やはり色彩感に乏しく暗い。この二つの風景の類似は、佐々木の構想に対する葛城の理解の深さを示してもいるだろう。結果的にこの八森で、『夢の島少女』の撮影が行われることになり、葛城を魅了した風景は完成作品にも映し出されている。

〈2014年の追記〉
『睦合出稼ぎ年表』もおそらくNHKアーカイブスでの再放送版がライブラリーで鑑賞できるはずだが、なかなか時間が作れずまだ観ていない。本当なら本論を書く際に観ておくべきだったのだけど。なるべく早く観に行くつもりである。

〈2015年の追記〉
葛城のエッセイ中に、”台本担当者が東北の風土について語った”とあるのを見落としていた。少女の背景について鈴木志郎康が語ったのはどんなことだったのだろう。

「夢の島少女」の深層 (16) つげ義春・Ⅱ

佐々木昭一郎とつげ義春の関係を語る際には、つげから佐々木への影響に注目されることが多いが、そもそも両者は表現者として似た資質を持つ。

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つげの略歴を振り返ってみると、彼が佐々木と同じような少年時代を過ごしたことがわかる。
つげ義春は一九三七年(昭和十二年)十月三十一日、東京市葛飾区に生まれた。四歳まで、伊豆大島で暮らしていたが、五歳のとき、母親の実家のある千葉県の大原町に引っ越す。父親は東京の旅館に出稼ぎに行っており、大原に住んでいた一年弱の間、一度も帰ってこなかったそうである。この大原で、つげは幼稚園に入園するが、集団生活に馴染めずに三日で退園してしまった。
翌年、出稼ぎ先の旅館で父親が亡くなる。死因はアジソン病だった。

死の直前の父は錯乱状態だった。出稼ぎ先の旅館では、営業にさしさわりがあるとみて、父を人目につかない薄暗い蒲団部屋の中に隔離していた。
天井までとどきそうに積みあげられた蒲団の谷間のような隙間に、父はどす黒い顔をして挟まっていた。目はおびえたように大きく見開き、のび過ぎた爪で空を掻くような真似をし、誰も近づけさせなかった。その場の事情を呑み込めなかったぼくと兄は、部屋の入口でぼんやり立っていた。母は、「お前たちのお父ちゃんだよ、よく見ておくんだよ」と絶叫しながら、二人をひきずるように父の目の前に立たせた。ぼくは、ただ事ではない恐怖を覚えた。おそらく生れて初めての恐怖であったと思う。翌朝、父は昨日と同じように蒲団の間に挟まり、しゃがんだまま死んでいた。
(「断片的回想記」)

死の間際にいる父と絶叫する母。佐々木のように死そのものを目撃したわけではないが、幼少の頃に肉親と凄絶な別れ方をしたという点で、つげと佐々木は共通している。もっとも、戦時中に少年時代をおくった彼らの世代にとっては、珍しいことではなかったのかもしれないが。
つげは佐々木とおなじく母子家庭に育つこととなった。

一家は翌年、葛飾区立石に転居した。翌年、つげは小学校に入学するが、空襲は激しさを増しており、休校になることが多くなってきた。学校嫌いだったつげは休校になるのが嬉しく、毎日空襲があればよいと思っていたという。
彼はこの頃、近くの高射砲連隊がB29を撃墜する様子を目撃している。つげと佐々木の戦争体験の違いは、空襲に対する意識にある。
つげは空襲を体験してはいるが、この事件があってから、高射砲連隊が頼もしい味方のように思えて、「空襲の恐さを知らないで」過ごすことができたという。空襲の中を逃げ回った佐々木とは対照的だ。

やがてつげも新潟県の赤倉へ集団疎開することになったが、やはり集団生活には馴染めなかったようである。

ちょうどその頃から、ぼくはタチの悪い赤面恐怖症になってしまった。この奇癖のおよぼす影響は、すべての将来をろくでもないものに決定してしまった。とにかく、人に名前を呼ばれるだけで、不意に背中をこづかれたようにギクリとなり、赤くなるぞ赤くなるぞと思うと、顔中が火事のようになり、口をきくことも笑うこともできなくなってしまうほどで、できるだけ人前では目立たないように常に気を配っていた。学校でも国語の朗読や唱歌の時間になると、だんだん自分の番が近づいてくるのが耐えられず、急に仮病をつかったり用足しに立ったりして難をのがれるようにしていた。

この傾向は、のちに六年生頃にはもっと著しくなり、秋の運動会のとき、大勢の人の前で走るのが恐しくて自分の足の裏をカミソリで切ってしまった。怪我をしたと偽れば、運動会に出なくてすむと思ったのでそうしたのだが、傷は計算以上の大きさになり、数日も治らなかった。
(「断片的回想記」)

つげは赤面恐怖症に苦しめられ、その後長きに渡ってノイローゼに苦しめられることになる。このような屈折した思春期を過ごしたこともまた佐々木との共通点であり、二人のその後の創作に強い影響を及ぼしたと考えられる。

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『放送批評第九十三号』(一九七六年三月号)に掲載された佐々木のエッセイ「脈らくなく流れる川を見つめながら つげ義春と私 −劇画シリーズ『紅い花』への出発−」から、一部を抜粋する。

「佐々木さんの『夢の島少女』、あれこそ記憶といえば記憶ですね。ぼくは忘れられないんですあのフィルム、ぼくも確かにあの少女に会ったはずだ、と考え込んでしまう。(後略)」

この人も、記憶が芽生えてから、自分の目でモノを「見」「感じ」とってきたことだけを書き続けているのだ。私も、私自身の記憶から出発した。私の記憶にある最も古い風景は、黒い海に、人影が見えかくれして浮いている図だ。それは私の父だ。(中略)記憶はノスタルジーだけではないのだ。つげ義春もその頃、同じような海に立ち戦後をかけぬけたはずなのだ。

以上の引用を読むと、創作における「記憶」の役割について、佐々木とつげは同じような考えを持っていることが窺える。
「記憶」は、決して単なるノスタルジーではなく、創造の源であり、現在に対して働きかける力を持つ。そして、誰かの記憶は、同時代を生きた誰かにも追体験できる。根源的な部分で人々と繋がっているもの、それが佐々木とつげにとっての「記憶」である。

佐々木の記憶の海は黒い岬を挟んで、つげの記憶の海に繋がっている。その海のイメージを、佐々木は『夢の島少女』のなかに描いたのだろう。

次回は、「夢の島少女」に大きな影響を与えたもう一人の他者、葛城哲郎について考察してみる。