安部公房「空中楼閣」

大好きなのだが、久しぶりに読んでもワケの解らない一品だ。
加えて国会図書館のHPで調べても先行研究が一件もない。一件もないってことは無いと思うんだけど、少なくとも雑誌論文は出てこない。空中楼閣みたいだ。

建設するものが空中楼閣だから、このビラを見て考えを巡らせた人はその途端に工員になってしまう。
読者も1ページ目から工員になってオルグされてしまう、そういう小説なのかと思ってると、隣のK君はじめ出会う人々の口から次々と全く違った空中楼閣像が語られていく。
書かれた時期から、資本主義への批判的な要素もあるが、それは他作品に比べて薄い。
そして唐突に幻想的なオチ。

常識的に考えて、冒頭のビラが何の比喩なのかを考えるのが解釈の妥当な道筋だろう。
ラストでビラを貼る男は軍服を着ている。戦中の軍部とブルジョア的なものが重ねられているのか。
なんとなく漠然としたイメージは掴めていると思う。でも補助線が欲しい。

安部公房「箱男」 – 無限遠の青

未読の本は増えるいっぽうなのに、また『箱男』を読んでいた。
疲れてるんだろか。
無限遠の青に惹かれているのだろう。


不必要に難しく考えるのを止めれば、この何冊ものノート(に見せかけた一冊のノート)は〈ぼく〉独りで書いたものだろう。
〈想像だが嘘ではない〉と彼も言っている。
医者や彼女との関係は、箱を被る前から続いているものだったに違いない。

Dはショパンの夢をみる。
いや、Dが〈ぼく〉の少年時代だったとしても何も差し支えない。親しみが増すだけだ。

最後の最後に〈ぼく〉は書く。

ある種の落書きは余白そのものなのだ。

落書きは註釈を呼ぶ、と読むことも出来る。本文中、数箇所に挿入された書き込みや別紙も、余白に呼ばれたものなのだろう。

〈ぼく〉は著者自身だという身も蓋もない解釈も、意外とこの小説を愉しく読ませてくれる。
書くこと、世界を構築することに耽溺する一人の作家の姿がそこには見える。

安部公房「カーブの向う・ユープケッチャ」

新潮文庫の安部公房作品の何冊かは、なぜか長いあいだ絶版のまま。
どうせそのうち全集が揃えば読めるので、古本屋で積極的に探したりはしない。
でも見つけたらもちろん買う。

curve

書き下ろし長編の異稿ともいえる「チチンデラ・ヤパナ」「カーブの向う」「ユープケッチャ」を収録したマニアックな一冊。

冒頭の「ごろつき」は驚くほど凡庸だし、「手段」は「耳の値段」で記憶が上書きされていた。
『砂の女』前後までは、大学時代に全集で全部読んだのに、二作とも記憶がない。「手段」は特につまらないわけでもないのに不思議。

「ユープケッチャ」は『方舟さくら丸』より好きかもしれない。『密会』ほどではないけど、『さくら丸』にはガジェットを充分に消化しきれてないような印象がある。
ユープケッチャとか水洗便所とか立体地図とか、それぞれはすごく魅力的なのに。もったいない。

70年代後半以降の安部公房の失速を見るにつけ、最期まで失速も迷走も知らなかった石川淳の強靭さにはあらためて驚く。

安部公房「人魚伝」

『第四間氷期』を読もうと思ったが季節外れなので『人魚伝』を読む。

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あらためて、カテゴライズ不能な密度の濃い短篇だ。
『S・カルマ氏の犯罪』×『赤い繭』×『サンダ対ガイラ』×『ギニーピッグ』。
俗な印象を書けばこうなる。ファンタジーからSFを経て、『壁』以前の作品にも繋がる不条理な結末へ。
短篇における実験の集大成といっても、ちっとも大袈裟じゃない。
『人魚伝』が突出しすぎていて、(『使者』も好きだし傑作だとは思うものの)この文庫収録の他作品はすべて霞んでしまう。

「安部公房講演 小説を生む発想 – 『箱男』について」

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なかなか見かけない、安部公房の講演が収録された新潮カセットブック。
オークションで運良く購入。
音自体はYouTubeにも上がってるし、全集30巻のCD-ROMに収録されてるかもしれない。

第一声こそ、ものすごく不機嫌そうな“大御所作家”な感じ。それも最初だけで、客を掴むのが上手いし話も面白い。
『箱男』について、まだ刊行前なのにネタを明かし過ぎな気さえする。
とはいえここで話してる内容もまた創作かもしれない。どこまでが事実でどこからが韜晦なのか、推測するのも一興。

ユダヤ的なるもの — ハンナ・アレントと安部公房

アレントから〈内的亡命〉つながりで、安部公房『内なる辺境』を(きちんと)再読。

frontier

“ユダヤ的なるもの”の正体をめぐる論考なので、もちろんアレントとは立ち位置が違うが、ノッてる時期の公房なので面白いのは当たり前。
誰も彼もがふんわり右傾化してて気持ち悪い現状を考えながら読むとまた面白い。
〈本物〉とか〈正統〉って概念がいかに胡散臭いものか。
はっきり意識してなくても、誰しも心の深い部分に正統信仰みたいなもんはあるから、〈江戸しぐさ〉なんてウソに喜んで騙されてしまうんだろう。だからって騙される人間に罪はないとは言わない。無知は罪。
さて、あんまり多く引用するのも良くないとは思いつつ…

ウェンタールとグダーマンの『煽動の技術』という本は、アメリカナイズされたファシストの横顔を、次のように巧みにスケッチして見せてくれる。(略)
—素朴で、平凡な、誠実な、羊のようなアメリカ人が、自分たちの公共問題を外来者、共産主義者、盗賊、亡命者、背教者、社会主義者、白蟻、売国奴によって牛耳られていることに、いったい何時になったら気づくのでありましょうか—

ともかく「正統」意識を強化し確認するために、有効な「異端」のイメージがあれば、それでじゅうぶんなのだ。スターリン主義者が愛用した、インターナショナリズムに対する、コスモポリタニズム式の、手のこんだ理論派好みのものから、戦争中日本で乱用された、非国民のたぐいの、単純素朴なものに至るまで、反ユダヤ主義に該当する呼称の変形は無数にある。

アレントが(平時においては)人間性の喪失につながるものとしていた〈内的亡命〉を、自作の中で積極的に展開した公房が、コロンビア大学から名誉博士号を授与された際に〈あなたは人間性という普遍的なものをお持ちだ〉と評されたのは面白い。
もちろん、アレントが言及しているのは迫害された者が極限の社会状況下で生存のために〈内的亡命〉を選択するか否かであって、公房は現実を作品を通して見つめる際の方法論として〈内的亡命〉を論じているから、お互いに中身は性質は違うし矛盾はしない。

それにしてもこのエッセイの結部はいつ読んでも痺れる。
「正統信仰」も「帰属意識」も「忠誠心」も一切合切バカにして生きていたい。

ハンナ・アレント「暗い時代の人間性」

darktimes

暗い時代が来る、というか5、6年前からとっくに暗い時代なのは間違いない。だからアレントを読んだ。

スラスラ読める文章ではないので、とりあえず『暗い時代の人々』の最初に収録されている「暗い時代の人間性」を精読。
強い知的興奮を起こしてくれる文章なので、たとえば〈内的亡命〉や〈人間性〉について安部公房の『内なる辺境』と結びつけて考えてみたくなったり、いろいろと考えが浮かんで頭の中がとっ散らかっている。

frontier

ブログも書くと長くなりそうで億劫だから手を着けないで逃げてたのだが、今日もまた腹立たしいことが行われているので、何度も反芻したい文章を抜粋しておく。

権力は人々が協同して行動するところにのみ生まれ、人々が個人として強靭になっていくところには生まれません。強靭さは権力に代るほどの偉力を持ちません。強靭さが権力に直面する場合はいつでも、強靭さが圧倒されることでしょう。

しかし、逃亡することと逃げながら抵抗するための本当の強靭さも、現実が無視されたり忘れられたりするところでは実現されえません。(略)
ある時点における世界の状態を支配している絶対的な「否定性」に個人が直面できない場合、それは実現されえないのです。

たとえば、耐えがたく愚かなナチスの密告者を単純に無視するということは確かに魅惑的なことでしょう。しかし、こうした誘惑に屈して、自分自身の精神の隠れ家に閉じこもることがいかに魅力的であるとしても、その結果は常に現実を見捨てることであるとともに人間性を喪失することでもありましょう。

「Strawberry Fields Forever」の歌詞を初めてじっくり読んだとき、“Living is easy with eyes closed”というラインが本当に好きになった。
でも目を瞑る場面を選ばないと、その態度は単なる責任の放棄になる。すなわち“人間性の喪失”。
だから現実から目を逸らさないように心がけたいし、〈恩送り〉を忘れないで生きていきたい、と思う。

とりあえず今日はここまで。嫌になってしまう。

安部公房「けものたちは故郷をめざす」

新潮文庫に入っている安部公房作品のラインナップはどのように決まってるんだろう。
絶版のままの作品もあるし、絶版ではなく版は重ねていてもカバーが新装されないものもあるし、その差がよく分からない。
いっこうに新装版が出ないので『無関係な死・時の崖』は絶版になるのかと不安になったりする。『題未定』が文庫化されるようなことがあれば、現在絶版になっている作品も復刊してほしい。

『けものたちは故郷をめざす』も、現在は文庫のラインナップから落ちている。それでいて古本を手に入れる気がなかなか起きなかったのは、公房の大陸を舞台にした作品(『終りし道の標べに』『鴉沼』あたり)が苦手なのもある。
それがたまたま神保町で2冊も購入してしまったので、ようやく読む気になった。

kemonotachi

で、やっぱりちょっと苦手だ。物語がやや冗長な感じもする。
歴史背景や地理的な知識が乏しいのもあるけど、想像力が足りないのかもしれない。だったら落ち込む。
ただ、生理的感覚に訴えてくる寒さや飢えの描写は作者にしか描けないもので、やっぱりさすがだと思う(だからこそ余計読んでて辛いのだが)。
そういう意味では『砂の女』に直結してる作品なのかもしれない。でももう一回読む気になるまではしばらくかかるだろう。

安部公房「石の眼」

ishinome

1960年の作。記録芸術運動の影響が強いが、「飢餓同盟」ほどの魅力は感じられず。
ダム建設現場の人々とそれに絡んでくる政治の話。だけどちょっと未整理で読みにくい印象。公房らしいどんでん返しもあるにはあるけど、それまでの展開をあまり呑み込めないので驚きも少なかった。その後作品の核心というかテーマが登場人物の口から語られてしまうのもどうかと思う。解説にある通り過渡期の作品という印象。

この頃の公房の作品だと長編小説よりもその基になったルポルタージュのほうに強い魅力を感じてしまう。本作だったら「蜂之巣城騒動記」。4〜5年前に一度読んだきりだけどかなり面白かった。

安部公房「飛ぶ男」

flyingman

絶筆。全集所載の異稿はまだ読んでない。真知さんはなんで手を入れたんだろう。小説の中身より不思議。

小説を読むというよりも最終稿を想像する愉しみで、もちろん完成しなかったことは惜しいがこういう形で想像を膨らませるのは好き。
『飛ぶ男』は複数の視点から語られる導入が見事だし、安部公房の朝の色もちゃんとある。『方舟さくら丸』を思わせなくもない収集物の山。
後半に進むに従って文章が欠落していくのが生々しい。

『さまざまな父』。安部作品の父子はどうしても憎しみ合わなければいけないようだ。シーツを被ったまま息子に蹴っ飛ばされる父の哀感。『水中都市』の魚に変形する父を思わせる。こちらも発展の気配を伺わせたまま終わるのが寂しい。