稲垣足穂「A感覚とV感覚」

なんとなく足穂を読み返していて、『A感覚とV感覚』の珍奇さに足をとられる。
何度読んでも変な作品だ。

人間を口から肛門まで一本の筒と捉える。その着眼は解る。
それを使ってプロットを作るのではなく、ひたすら自説を説明する方向に作者は舵を切った。
そこが面白いところで、作者の執着を表しているような気もする。

自説を補強するために、古今東西いろんな文献や自分の体験を引っ張りだしてくる。
かと思えば、いきなり〈洋服紳士がどこかウンコ臭いのは……〉と来たりするので、ついていくのが大変だ。(それは単に自分が勉強不足なだけで、洋服紳士は本当にウンコ臭いのかもしれないが)

これだけブッ壊れてるなら、作品としての体裁にも拘らなくて良さそうなものなのに、そこは律儀に聞き手役の女性を設定したりしていて、へんてこさに拍車をかけている。

でも、この〈へんてこさ〉は小説以外ではあり得ない。
むしろ小説とは奇形性そのものだと教えてくれるような作品だ。

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稲垣足穂「天体嗜好症」「星を売る店」「A感覚とV感覚」

taruhoissen

『一千一秒物語』こそ好きだったものの、新潮文庫版だと次に収録されてる『黄漠奇聞』と『チョコレット』は読んでも今一つハマらなかったので、足穂は合わないのかもしれない、と思っていたところで読んだ『天体嗜好症』。

タイトルからして素敵だし直球で好きな話だった。
星についての会話もいいし、導入部で映画のタイトルロゴについて語っているところの鮮烈さが好きだ。
“ダンディー”も足穂の形容詞としてよく分かるけど、この人は“モダニスト”とか“フェチ”と呼んだほうがしっくりくる。
例えば文章から受ける印象が小石清とか平井輝七の新興写真を見ている感覚に近い。活字でいえば瀧口修造のシュルレアリスム詩とか。そういう意味でも文壇とは少し違う場所にいた人なのが分かる気がする。とにかくやけに無機質で光学的。10年は先を行ってる。

koishi1936
小石清「泥酔夢・疲労感」(1936)。彼の写真集『初夏神経』は大判の金属板の表紙からして痺れる。

『星を売る店』も視覚的な想像力を刺激する一篇。『天体嗜好症』と同じでタイトルだけで勝ちが決まったような作品だ。
星を掴めたら、流れ星が地上に落ちていたら綺麗だろうなぁ、というのは普遍的で、誰にでも簡単に共有できるイメージだ。
“それを密かに売っている店があって”っていうほうに膨らませる想像力がタルホの少年性というか、フェチな部分だと思う。

で、フェチということで『A感覚とV感覚』。
昔『パタリロ!』に「A感覚の極致だ」っていうセリフがあって意味が分からなかったのだが、読んでみればそういうことだったのかと。
もちろんそういうことだったのかと簡単に納得できるような内容ではないけど、少なくともAとVの意味は分かるし、パタリロが口にするのも分かる。
パタリロはンコをした後にそれをトイレ中に塗りたくる癖がある。彼はそれをフロイトのいう肛門期と三島の『金閣寺』の関係に絡めてさも高尚なことのように語ったりしていた。それも多分ここから来ていたのだろう。さすがにミーちゃんは引き出しが豊富だ。
三島とンコといえば『仮面の告白』に、肥桶を担いだ青年の肉体美が幼心に印象に残ったとか、そんなくだりがあった。少年愛(男性愛)とそれ系の連想は避けられないものなのか。

せっかく星から始まった話がそっち系に行ってしまって残念だが、でもこの両極を一冊の中で往来できる振幅が足穂なのだろう。実際『A感覚とV感覚』にも下品な感覚は一切ない。
ダンディーだ。

稲垣足穂「一千一秒物語」

いつか読もうと思って後回しにしてきた足穂。
「一千一秒物語」を読んだが、少し後悔。

taruhoissen

読み方を間違えた。これは一晩にひとつかふたつのお話を読んで次は明日ね、で少しずつ楽しむアンソロジーだ。
ひとつひとつの話が短いのでわりとまとめて読んでしまった。
似たような話ばかりなのでわりと早く飽きが来てしまった。
似たような話というか、話もあってないようなものだ。
ほとんど詩のようなもので、足穂独特の世界観が呈示される。
彼の世界観は好きだ。都会育ちの宮沢賢治のようだ。
一篇一篇の読後感も好きだ。都市で採集した「遠野物語」のようだ。
同じモチーフを変奏したものを鑑賞するのは好きなのに、もったいないことをした。

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