芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」

kappatoyondekudasai

『河童・或阿呆の一生』はそうでもないけど、現行の新潮文庫の表紙はなんか微妙。
安いし表紙も無難なので購入したのは旧版。

「蜃気楼」
解説には“へんな実感”に満ちているとある。本当にその通り、へんな感じ。
彼岸と此岸が溶け合っているような海岸をブラブラするだけ。死の気配はもちろん漂ってるけど同時に生々しい現実感も伴ってるのが面白い。
白昼夢と言っちゃうのも安直でイヤだけど、クセになる奇妙さがある。
読んでる最中に頭に浮かんだのは、「行人」の海岸を歩く一郎、「マタンゴ」の海岸を歩く久保明と八代美紀、「麥秋」の海岸を歩く原節子と三宅邦子。
強迫神経症、極限状態、平和な義理の姉妹の会話。本当にそんな感じで、穏やかさと狂気が裏表でなく同居している、へんな感じ。
傑作だと思う。

「或阿呆の一生」
〈自殺を扱った文学〉という素敵なテーマの授業を大学で受けていたときに読んで好きになった。
死体の顔の皮を剥がすと現れる黄色い脂肪と、強風の日の電線にスパークする火花が鮮烈だ。
自殺の直前まで自己韜晦の姿勢を崩さなかったことで批判する批評家もいるらしいが、そんなのは愚の骨頂だ。

「河童」
「ガリヴァ旅行記」を読んだばっかりなだけにどうしても比較してしまう。主人公は穂高岳の山中から河童の国に迷い込み、しかもそれは集落みたいなものではなく銀座と遜色のない町並みがある。海の向こうとかシャンバラならともかく、日本アルプスは舞台設定としてちょっと無理があるしリアリティに欠ける。ただこの作品をそんなところで論じてもしょうがない。
芥川の厭世もスウィフトに負けていない。最初のうちはわりとユーモラスなのに、読んでいくに従って詩人の河童が自殺したり、神を持てない主人公の苦悩が表面化してくる。
最後は精神病院の描写で終わるが、またしても「マタンゴ」のラストシーンを連想してしまった。本多監督が静かに撒いた毒もなかなか強烈だ。

「歯車」
死後に発表された作品で、題は佐藤春夫が付けたらしい。確かに元々の題「夜」は弱い気がする。
ただ本作は言われているほどの傑作でもないように思う。強迫観念に苛まれていく心理描写は凄いけど、なにかちょっと余計な文が多く感じられる。ここまで神経をやられていながらこれだけの文章が書けるだけでも凄いとは思う。でもそれは作品そのものの評価とはまた別の話。

「大導寺信輔の半生」
ほんのイントロという感じで終わっている。「或阿呆の一生」のプロトタイプのような感じ。
これはこれ以上書けなかったところに意味があるのだろう。

「玄鶴山房」
陰鬱。相変らず人物の出し入れが上手いとは思うものの、最後の火葬場の描写が妙に実感がこもっていて嫌な後味。
火葬場はトラウマなんだってば。

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芥川龍之介「侏儒の言葉・西方の人」

芥川は、太宰や武者小路なんかと仲良く読まず嫌いの筆頭にいる人。
やっぱり特に理由もない。たぶん教科書かなんかで読んでつまらなかったんだろう。教科書で読むとどんなに面白い小説だってつまらなくなるのに。

この前読んだ高橋源一郎の本で芥川と太宰の文章が言及されていて、芥川のそれがちょっと気になったので積ん読を探してみた。「或阿呆の一生」は好きなので読もうと思ったのに見つからない。他に3、4冊あったうちの1冊は思いっきりネズミに食われていてゴミ箱行き。
で結局『侏儒の言葉・西方の人』。

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「侏儒の言葉」はアフォリズム集だった。アフォリズムは好きなので芥川もこんなの書いてたのかと意外。
死か発狂一歩手前の厭世主義者は文章を書くことすら厭わしくなってるものだと思う。カフカなんかも然り。
そういう人には表現形態としてアフォリズムが向いている。というかもう散文としての体裁を整えたり、着想を練り上げることも出来ないからアフォリズムにならざるを得ないんじゃなかろうか。

必然的に、感覚的な短文か、論理的ではあるけど論理の展開しない短文が多くなる。あとは前言を翻し続けるダダっぽい文章とか。
意味があっても無くてもどうでもいいような文章が好きだ。投げやりな読みを許してくれる投げやりさが好きだ。

〈世間智〉
単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずとも好い。それよりも寧危険なのは明らかに冷淡さの不足である。

〈彼の幸福〉
彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、–ああ、何と云う退屈さ加減!

〈人生〉
革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹としている筈である。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。

〈或る夜の感想〉
眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。(昭和改元の第二日)

「西方の人」「続西方の人」はそもそも聖書に明るくないのでさっぱり分からない。
それでも読んでいて結構気持ち良かった。後期の芥川の文章は肌に合っているのかもしれない。

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