上原正三さんの訃報

上原正三さんが亡くなられたそうだ。

作家としての上原さんのキャリアをみれば、東映作品を手掛けていた時代のほうが円谷プロ時代より長く、作品数も圧倒的に多い。
それでも自分にとって上原さんは円谷プロの作家だし、代表作も『帰ってきたウルトラマン』までに集中しているように思う。

傑作は数多ある。でも結局、自分にとっての上原作品といえば、『怪奇大作戦』の「かまいたち」だ。
極端な話、もし他の25本がすべて駄作だったとしても、この一本があるだけで、『怪奇大作戦』は古典になり得た。
自分は「かまいたち」の犯人・小野松夫を見て救われた。

小野松夫という人間を描いてくれたことに心から感謝しつつ、今日も仕事に向かう憂鬱な電車のなかから、ご冥福をお祈り致します。

石川淳「虚構について」 – 雑感

疲れた。

たれでも承知してゐる通り、ある藝術作品がどんなによいかといふことを、それにふれたことのない他人にことばで傳へることはむつかしい。(略)
しかし、ありやうは、ある藝術作品から受けた感動を再現するとは、そんな傳達とか限界とかに氣をつかつて、該作品のまはりをうろうろすることではない。逆に、そんな程度の振幅にとどまる感動しかあたへないやうな作品ならば、そもそも大したしろものではなかつたといへる。

石川淳「虚構について」より。至言だ。

ブログのためにグチャグチャと言葉を捏ねくりまわしていると、あらためて作品の感想を言葉にするのは難しいと感じる。
簡単に言葉に出来ないからこそ、面白いし何回も鑑賞したくなるのであって、言葉にすればするほど作品の印象が全部ウソになっていくようで空しくなってきた。

だいたいブログなんて後で読み返すために書いてるようなもんなんだから、そもそも書く必要が無い。
鑑賞日と簡単な印象だけメモしとけば充分だ。
もう嘘を書くのはやめよう。

祝JOC会長の竹田起訴

いちおう新年一発目だから、めでたいネタはないかと探していたら、こんなにおめでたいネタが飛び込んできた。

JOCの竹田会長が贈賄で起訴。めでたい。
国内ではろくすっぽ報道されてないが、ニッポンの皆さんには報道してあげても意味がわからないだろう。

電通や安倍周辺にもきちんと捜査が及んで、オリンピックが中止になりますように。
いや、中止じゃつまらないな。
世界中からバカにされボイコットされますように(^^)

最後のジャニス

ジャニス本店の最終営業日。
やっぱり来てしまった。


いい天気。


↑整理券。


棚はさすがにスカスカだった。それでもこの豊作ぶり。


『直島ミュージックスタジオ作品集』が300円で買えるとは思わなんだ。

もう返却日を気にする必要もないので、ゆっくりちょっとずつ聴こうと思う。

ありがとう、ジャニス。
13年間お世話になりました。
たまにジャニス2を覗くからね。

エスニカンをめぐる冒険

冒険なんかしていない。コンビニで復刻版エスニカンを見て懐かしくなっただけだ。
懐かしくなったといっても、エスニカン発売当時は0歳だったので、エスニカンが懐かしいわけでもない。
オカシ屋ケン太こと泉麻人さんの『おやつストーリー』を思い出したのだ。
エスニカン、聞き覚えがある…あ、あの本だ。


『オリーブ』に連載されていた長寿コラムをまとめた一冊。
手軽に読める、どうってことのない一冊だが、個人的な思い入れがいろいろある、大切な一冊でもある。


エスニカンは、「ウマイけどエスニカンというよりメキシカン」で、「カラムーチョ」と大して変わらない、という評価。
それでも当時こういう切り口のポテチが珍しかったことは窺える。


だいぶ前に書いた文春文庫ビジュアル版のB級グルメシリーズの一冊、『世紀末大東京遊覧』にも、身近なものになり始めたエスニック料理が取り上げられている。このシリーズは何度読んでも愉しい。

今なら本格的なエスニック風味のポテチも作れるだろう。個人的には苦手なので期待もしない。

「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」@東京ステーションギャラリー

本当に愉しかったアドルフ・ヴェルフリの企画展。


ポスターを観た瞬間に「なんだこれは!」でガツンとやられたが、当然ながら本物の作品はそれ以上。

マッジ・ギル以来の衝撃。
こんなに愉しくて、眺めているだけで描きたくなってくる絵を描いてくれるのは、自分のなかではギル、ピカソ、マティスぐらいのもの。

鉛筆で新聞用紙一面に描き込まれたヴェルフリだけの世界。とにかくその量。
質より量ではない。量の先に現れる質を伴った量。
楽しくてしょうがない、描くしかない、その執念の過剰さに、こちらも愉しく圧倒されるしかない。

描き始めてから死ぬまで、作風は一貫して変わらないが、途中から純粋な鉛筆画に雑誌や新聞からのコラージュが混じり始める。
これがまたモダニズムっぽいというか、構成主義っぽくてツボ。愉しいだけじゃなく滅茶苦茶カッコイイ。

ステーションギャラリーの空間が彼の作品に不思議とマッチしていて、それがまた良かった。
ここは作品が飾られているレンガの壁を眺めているだけでも愉しいから好き。
次の作品の人だかりがいなくなるのを待ちながら、目の前の壁をボーッと観ていると、レンガのテクスチャーが面白くて、壁を描きたくなってくるぐらい。

すべての絵に描かれている音符と五線譜(六線譜だったりする)のモチーフから、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を思い出したりした。
〈絵画は音楽や踊りに比べて純粋な遊戯とは距離がある〉、そんな感じのことをホイジンガは書いていた気がするが、ヴェルフリの絵を観たことはあったのだろうか。


居ても立ってもいられず、ショップで図録と色鉛筆を買ってしまった。
真っ暗な日常を吹き飛ばしてくれたヴェルフリに感謝。

共謀罪、に限らず

秘密保護法も戦争法案も共謀罪も、とにかく姑息に事を進める点で何も変わらない。その度にうんざりさせられる自分にもうんざりする。


昨日は仕事終わりで国会前に行った。
こんな国はとっくに見捨ててるが、意思表示だけはしたい。黙ってバカの巻き添えを食うほどお人好しではない。

で、今回もやっぱり、抗議コールの真ん中にいながら、ここにいる人達のこともまた信じていない。
野党議員が議場の進捗報告を兼ねて挨拶に来ると、歓声と拍手で迎える。それは違うだろうと思う。どうしても違和感が消えない。
迷いもなく声をあげている人や、ノッてコールしている人を見ていても怖い。いつ、この人たちがあっち側にまわるかわかったもんじゃない。


安倍と与党連中はもちろん、自分を含めて長い間政治に無関心だったすべての人間が憎い。

311後の日本は、それまで見て見ぬふりをしてきたものが全部見えてきただけで、むしろ良い傾向だと云う人もいる。
理屈は解るし、311が無くてそれまでの日本がダラダラ続いていたよりマシだとは思う。

それでも、自分がどれだけ阿呆だったかを直視させられるのはツラい。そして自分以上に阿呆な連中が威張る世の中が、さらにエスカレートしてずっと続くと思うと、憂鬱以外の何物でもない。

なんでこんな国に生まれたんだろ。最悪。
誰も彼も憎い。

ゴミについて

こんなときに限って風邪が酷くて国会前に行けず。
ずっとこんな国で暮らすわけじゃない(そうとでも考えて逃避しないと神経を壊される)からいいんだけど、ムカついてるって意思表示ぐらいはしておきたい。

自分が共謀罪なり安保法制なりに反対なのは、バカで想像力の無い連中の巻き添えを食うのが嫌だから。
なので、この国が好きで、国の行く末を考えて行動してる人達は偉いし、大変だなぁと思う。
この先、状況が良くなることなんて無いのに。

そうは言いながら、採決の様子やら政権に肯定的な意見を目にするとムカつくのは、まだどこかでこの国がそこまでバカじゃないと思ってるからなんだろうか。

だとしたらそこにいちばんムカついてしまう。中途半端なお人好し。どっち付かずは良くない。一度ゴミと決めたものはゴミなんだよ。

厭な季節の終り

なんだかもう疲れてしまって。

ダメな国のダメな人達のために、いちいち怒ったり嘆いたり声をあげたりするのもバカバカしくなってしまった。
バカが自分で選んだバカに苦しめられて滅んでいくなら自業自得だ。みんなが大好きな自己責任だ。

ただ、まだ小さい子達や次の世代の人達だけは本当に気の毒で仕方ない。
生まれてきたことを恨めよ。親を恨んだっていいんだよ。国に刃向かったっていいんだよ。

自分の人生がいちばん大事なので、とりあえずこんな国のために無理に骨を折るのはやめようと決めた。
どうせ不可能だろうが、できれば国を出たい。

こんな国は棄てると決めた途端に、気が楽になったし、とてもスッキリした。

いろいろと吹っ切ることが出来たのは5月のおかげだ。だから好きさ、5月。

ダイナマイトに火をつけたあとは、自分のいのちを大切にして、さっそく船に飛び乗って、無事息災に逃げのびる手だてを考えたほうがいい。まさか、切っても血の出ない人民のために、バカがあとからよたよた歩いて来る道に、特製の緋毛氈を敷いておいてやるバカも無いだろう。(石川淳「白頭吟」)

いくらなんでもダイナマイトに火はつけないけども、救いようのない国が沈んでいくのを外から嗤って見ていたい。

コラージュ

公房「そこで国家は、かつて辺境の「異端」と闘い、国境線を守り抜いたように、こんどは内なる辺境(移動社会)の「異端」にむかって、正統擁護の闘いを開始しなければならなくなった。非国民…排外主義者…秩序破壊者…外国の手先…アカ…全学連…等々」

サイード「集団が信奉する公式見解をくりかえすだけなら、なんとたやすいことだろう」

散人「今の世を見るに、世人は飲食物を初めとして学術文芸に至るまで、各人個有の趣味と見解とを持っていることを認めない。十人十色の諺のあることは知っているらしいが、各自の趣味と見識とはその場合場合に臨んでは、忍んでこれを棄てべきものと思っているらしい」

夷斎「それにしても、ああ、益々御風流……いよいよ、きちがいじみて来た」

K「われわれの救いは死である。しかし〈この〉死ではない」

公房「絶望するのはまだ早い。都市の広場が暗ければ、国境の闇はさらに深いはずなのだ。越境者に必要なのは何も光ばかりとは限るまい」

アレント「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること…」

サイード「たとえほんとうに移民でなくとも、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる」

ブルトン「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ」

サイード「おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである」

苦沙弥「個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから」

安吾「だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである」

詩人「人のいやがるものこそ、僕の好物。とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ」

ツァラ「自由、自由。ぼくは菜食主義者ではないから、レシピを提供することはできない」

ママ「すべて楽しいことは、お腹にいいのですよ!」