アンリ・アルヴォン「アナーキズム」

アナーキズムについての本を読もうと思ったが、意外なほど数が少ない。
どの新書にも一冊ぐらい入ってそうなもんだが、ちくま新書に入ってるだけ。
アルヴォンのこの本も定番らしいが35年も前のもの。いちおう10年前ぐらいまで重版されてたようだ。


この本を読むと、アナーキズムの概略書が少ない理由もなんとなく解る。
アナーキズムはフランス革命で樹立された自由主義へのアンチテーゼとして登場し、社会主義や共産主義と距離をとったり協調したりしつつ淘汰されていく。

すごく雑な見方だが、常に別の思想との関係性によって成立していたのがアナーキズム、と読めなくもない。
そのうえ提唱者によってその中身が全く違う。便宜的に〈アナーキズム〉と括られてるだけで、それぞれ思想はバラバラだ。
こうなると専門書はともかく、うまく新書一冊にわかりやすくまとめるのは難しそう。

本書も、扱われるのはほぼ19世紀に限られるし、クロポトキンについては思いっきり割愛されて何も語られていない。
ただコンパクトにまとまってるので、読みやすいのは◎。

『白頭吟』作中のバクーニン全集の役割が一層明瞭になったのは嬉しい。
21世紀現在までの(日本を含めた)アナーキズム通史も読みたくなってくる。いい本はないだろうか。

ショウペンハウエル「自殺について 他四篇」

まことに世界は、したがってまた人間は、もともと在るべきではなかったところの何物かなのであるという確信は、相互に対する寛容の念を以て我々を充たしてくれるに充分である。

岩波文庫版の書名が『自殺について 他四篇』なのは、単に文字数の問題じゃなかろうか。
それくらい、「現存在の虚無性に関する教説によせる補遺」「世界の苦悩に関する教説によせる補遺」の二篇がいい。

suicide
人生は牢獄みたいなもので、生まれてしまった罪への償いであり、意味も価値も何も無い。
子供をこの世界に産み落とす行為が、性欲ではなく純粋に理性の結果だとしたら、人間は阿呆以外の何物でもない。

…そんなこんなが勿体ぶった文章で延々と書かれていて心地がいい。眠れない夜に、もう二度と目覚めないことを願いながら読むにはぴったり。

大いなる羨望に価いする人間は誰もいない。大いなる憐憫に価いする人間は数知れずいる。

コラージュ

公房「そこで国家は、かつて辺境の「異端」と闘い、国境線を守り抜いたように、こんどは内なる辺境(移動社会)の「異端」にむかって、正統擁護の闘いを開始しなければならなくなった。非国民…排外主義者…秩序破壊者…外国の手先…アカ…全学連…等々」

サイード「集団が信奉する公式見解をくりかえすだけなら、なんとたやすいことだろう」

散人「今の世を見るに、世人は飲食物を初めとして学術文芸に至るまで、各人個有の趣味と見解とを持っていることを認めない。十人十色の諺のあることは知っているらしいが、各自の趣味と見識とはその場合場合に臨んでは、忍んでこれを棄てべきものと思っているらしい」

夷斎「それにしても、ああ、益々御風流……いよいよ、きちがいじみて来た」

K「われわれの救いは死である。しかし〈この〉死ではない」

公房「絶望するのはまだ早い。都市の広場が暗ければ、国境の闇はさらに深いはずなのだ。越境者に必要なのは何も光ばかりとは限るまい」

アレント「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること…」

サイード「たとえほんとうに移民でなくとも、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる」

ブルトン「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ」

サイード「おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである」

苦沙弥「個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから」

安吾「だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである」

詩人「人のいやがるものこそ、僕の好物。とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ」

ツァラ「自由、自由。ぼくは菜食主義者ではないから、レシピを提供することはできない」

ママ「すべて楽しいことは、お腹にいいのですよ!」

網野善彦「増補 無縁・公界・楽」

『すばる』の石川淳追悼記念号に、野口武彦が『狂風記』論を寄せていて、いろいろとイマジネーションを喚起してくれる。

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そのなかでちょこっと触れられていたので『無縁・公界・楽』を読む。

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増補部分を読んでもわかるが、網野史観への批判はいろいろあるらしい。歴史に対して興味がない自分でも強引過ぎないかと思うような関連づけも多い。
ただ、視点の転換によって風景が一変するのは快楽以外の何物でもないので、たとえば縁切寺や(著者の定義に依るところの)職人に対する見方が変わるのは素直に面白い。

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遊女や職人の聖性に興味が出てきて網野氏の『中世の非人と遊女』とか、宮田登の『ヒメの民俗学』とか本田和子の『少女浮遊』(面白い)とか、いろいろ読んでみた。もちろん柳田國男の『妹の力』も。
一通り読み終わった今はいったん寝かせて発酵させてる状態で、これから何か作るときに滲み出てくるのを楽しみにしている。

ただ、『夢の島少女』を〈妹の力〉=〈少女の聖性〉の観点からもう一度考察してみたくなっている。そもそもの発端、小夜子が倒れていた川を〈河原〉と捉えてみたり…面白そうだ。それがまた論文みたいなものになるのか、別のものになるかはわからないけど。

中野純「『闇学』入門」

アンテナは常時張っていたいと思うのだが、あまりにもノイズが多く、ノイズとして聴くことの出来るノイズならまだしも、ノイズにすらなれない質の低いノイズ以下のノイズばかりで疲れてしまうので、ここ数年各方面のアンテナは畳んでいる。畳んでいても本当に必要なことは飛び込んでくるし、それをキャッチ出来なくなるようなら、終るしかない。

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それでもたまにはラジオを聴く。いとうせいこう兄貴の『GREEN FESTA』はゲストの話も面白い。この番組きっかけで興味を持った事柄もいろいろと。
光害もそのひとつ。過度な照明が人体や生態系に与える悪影響を指す言葉だ。
ダークスカイ協会主催の講演会にも行ってみたかったが時間が合わなかったので、そこで講演した中野純さんの本を読んでみた。

光害の他に、日本人と暗闇(灯り)との関わりが民俗学的な視点も交えて語られる。面白い。
しかし一番面白いのが、ナイトハイクなど自身の経験から得られた、世界を見る新しい視点。

もっといえば、昼間は太陽の光が大気に散乱して空が明るく青くなり、ほかの星の光を見えなくしてしまう。太陽自体もまぶしくてふつう見られないから、地球以外なにも見えない。果てしない宇宙が全然見えないのだ。それが夜になると、満天の星が見え、広大な宇宙が姿を現す。

見慣れた風景がまるで違って見える視点を示唆されるとワクワクする。昼間は明るすぎるゆえにもうひとつの闇なのだ。なんて素敵な視点転換だろう。
311以後に出された本なので、当然原発と電気の関係についても言及されている。
章題が素晴らしい。「明るい未来から、美しく暗い未来へ」。


2011年に制作された光害についてのドキュメンタリー、『ザ・シティ・ダーク 眠らない惑星の夜を探して』。
予告編だけで魅了される。ソフト化されていないようなので、どこかがリバイバルしてくれるのを熱望しています。

山田寛「ポル・ポト〈革命〉史 虐殺と破壊の四年間」

原始共産制なる胡散臭いものへの興味と、少々の悪趣味で読み始めたのだが、さすがの後味の悪さ。

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いわゆる〈解放〉の時代の虐殺も確かに酷い。だがそれ以上に、政権崩壊後のクメール・ルージュ幹部の自己保身ぶり、責任のなすり付け合いのほうが読んでいてムカムカする。原発をめぐる昨今の日本の状況にも遠からず。言い逃れだけは達者な奴はどこの国にもいるのだ。

ポル・ポトらについて、定石通り〈独裁者は異常な人間不信である〉というだけで終わればいいのだが、この独裁政権の幹部達が揃いも揃って人間臭く家族愛に溢れる人間だったりするので、読んでるほうが人間不信になる。
この本が出てからも10年経ってるので、楽しい老後を満喫して墓に入っちゃった奴も何人か増えてるだろう。
著者の言う通り、家族や血縁、宗教といったものを徹底的に破壊した〈革命〉ってなんだったんだよという話である。

戦前の日本共産党について書かれた本を読んだときもそうだったが、下部の人間に対するアジはやたら威勢がいいくせに重要な地位にいる人間というものはセコくてじつに人間臭い。そのへんの奇妙な不条理感が、(教条的な)共産主義が持ってる限界というか、現実にうまく対応する理論ではないことを示してるのかもしれないと思う。

さて、カンボジア国内でも大量虐殺の記憶が風化しつつあることの例証として、03年に「カンボジア・デイリー」という新聞(?)に寄せられた15歳の高校生の投書が引用されている。

〈この国にもヒトラーのように国を愛し、スターリンのような真面目な、立派な指導者が欲しい〉

歴史的知識が欠如すると指導者と独裁者の区別が付かないらしい。
恐ろしいことには、自分も去年ツイッターで似たようなツイートを見たのである。年齢は分からないがクラス名がプロフにあったので、中学生か高校生なのだろう。曰く、〈日本が強くなるには強力な独裁者が必要〉とのことだった。バカの言うことだから、と放っておけないような怖さを感じて、暗澹とした気分になった。
しょせんツイッター上での言葉だが、潜在的にでもこんな風に考えている若い人は少なからずいるんじゃないかと思う。怖い。

立花隆「日本共産党の研究(三)」

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第三巻は、河上肇の転向〜党の終焉まで。本編は一冊のうち半分程度で、あとは付録や資料、そして膨大な参考文献リスト。

前巻に続いていろいろと事件は起こるが、ほとんどが陰惨なリンチ事件なので、読みごたえはあるものの面白いものではない。
〈党は誤謬をおこさない〉という大前提が間違っているので、起こる事件すべてが間違っている。もちろん、著者や共産党側が言うように、時代背景や体制側の弾圧についても考慮に入れなければアンフェアである。体制側だって似たようなもんだったんだから。

この巻でいちばん面白いのは付録。「研究」が文春に連載されていた最中に共産党からなされた反論や誹謗中傷に対して、著者が発表した記事が3つ再録されている。
揚げ足取り(イチャモン)への反論が主だが、多少感情的になったり、野次馬精神が露骨に出てきたときのほうが、立花隆は筆がノって面白いと思う。

立花隆「日本共産党の研究(二)」

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実話はフィクションより面白い。

読み物としてなら、武装共産党〜佐野学と鍋山貞親の転向までが描かれる第二巻がいちばん面白い。

スパイの暗躍、売ったり売られたり、資金がなくて方々に泣きついたり、脅したり、果ては銀行ギャングまでしたり、組織上部と下部がギスギスし出したり、捕まるときは意外とあっけなかったり。
面白いって言葉で済ましてしまうのも違うかもしれないが、法的、思想的なものは多少奥に引っ込んで、スパイと特高のやり合いが前面に出てくるので、中途半端に実感が湧かないぶん読みやすい。

本書の後半、共産党が思想的にではなく実際に犯罪シンジケート的様相を呈してくる時代へ移っていく。
やはりスパイである大泉兼蔵と、党支持者から党幹部になった野呂栄太郎との関係などは、出来すぎていてマンガっぽい感すらある。当時の共産党は必死だったんだろうけど、今の目で見るとどこか滑稽だ。なんだか残酷である。

大泉以前に活躍していたのが有名なスパイM(飯塚盈延)で、彼の半生は壮絶だ。著者の筆もノっているのでグイグイ読まされる。

職業的公安スパイとして生きることはそう容易なことではない。スパイたることは、人を欺き、人を裏切り、人を売りつづけることである。なまなかの人間には耐えられない仕事である。(略)
後に述べるように、たしかに彼は共産党を憎悪していたし、虚無的でもあった。しかし、それだけでは、彼がなぜすすんでスパイとなったのかの充分な説明にはならない。さらには、なぜ共産主義者として出発し、共産主義を憎むにいたったのか、なぜ虚無的な心情を持つにいたったかもよくわからない。“なぜ”を追っていくと、歴史の闇と、人に知るすべもない彼の心の深奥部とにさまたげられ、答えは永遠の彼方に逃げ去っていく。

一瞬、安部公房が「榎本武揚」で描いた厚岸の原野が目に浮かぶ。
スパイとしての活動はもちろん、生い立ちからスパイを辞めた後の歩みまで、丹念に取材されまとめられている。
周囲の人達からは愛される存在だったらしいMが、娘に語っていた言葉も鮮烈だ。

『人は不慮の事故で死ぬべきでない。それは注意不足だ。自殺もすべきでない。死ぬまで生きるべきだ。
生まれてこないのが最も幸せだ。しかし、生まれた以上はどんなことがあっても生きつづけるべきだ』

実話の面白さは人間の面白さだ。

立花隆「日本共産党の研究(一)」

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立花隆が「田中角栄研究」に続いて発表した「日本共産党の研究」。文庫版では全3冊でやっと読み終えた。
といってもつまらなかったわけじゃなく、第一巻の途中で半年ぐらい間を空けてしまっただけで、あとの二冊は面白くてすぐ読み終わってしまった。

第一巻の途中で読むのをサボったのは、怖い話は嫌いだからだ。

第一巻は結党から三・一五、四・一六を経て武装共産党時代に至るまで。
結党の経緯については松本清張の「昭和史発掘」で読んだ記憶があるのだが、どうも曖昧だ。しかもせっかく本書で読んだのにまた時間が経ってボヤけてしまった。

この巻では、〈前史としての共産主義運動のなかった日本にいきなり共産党を結党したことによる危うさ〉と、〈民主集中制が持つ構造上の欠陥〉がよく理解できた。
上の二点は“日本の”共産党特有の弱点として、この後も繰り返し指摘される。

特に民主集中制の、一見民主主義を装った強固な独裁主義は、いまの安倍自民党に通じるところ大。少なくとも自分にはそう思える。
暴力革命を目指す組織にはピッタリな組織原則らしい。怖。

さてこの民主集中制という組織原則で革命組織を律していくことを考えついたのはレーニンだが、それをいまのような官僚主義的、全体主義的方向にはぐくみ育てていったのはスターリンである。
民主集中制は「民主」「集中」の間で綱わたりするようなものだから、上に立つ者がよほど「民主」の側にバランスを傾けて運用しないかぎり、スターリン的組織になってしまう。官僚主義的体質の人間が上にたてば、スターリン化することはほとんど必然である。

このような民主集中制の危険性を認めていたレーニンは、コミンテルン第六回大会で〈もし諸君があまり従順でないすべての知識人を追いだし、従順な大ばか者だけをのこすならば、諸君はかならずや党を滅ぼすであろう〉と述べる。

レーニンがここでいわんとしていたことは、民主集中制という危険な組織原則を持つ党は、非従順な多数の知性(活発な知性はいつでも非従順だ)を包含して進むときにだけ健全でありうるということだったろう。
非従順な知性が追いだされ、従順な無知で満たされたときはじめて、なんでも満場一致、全党一致、拍手喝采でことが運んでいくスターリン主義的党組織が完成する。

どっかの国のバカ首相とそのお友達にそっくりだ。これに続く下の文も、そのバカ首相を形容したといってもそのまま通用する。

官僚主義者はなぜ非従順な知性を嫌うのだろうか。非従順さが官僚主義に背反することもさることながら、その背後にあるのは、劣勢な知力の優勢な知力に対する嫉妬心である。もともと官僚主義は、劣勢な知力の持主の自己保身術として発生し発達したものである。

第五章は三・一五事件後に強化されていった政府の取り締まり体制について述べられる。本書で一番読みごたえがあった。
治安維持法はもとより、ソ連の1926年刑法第58条(反革命罪)が、これまた安倍自民党の改憲案にそっくりである。憲法案と共産主義国の刑法がそっくりってどういうことだよ。怖。

「ソビエト社会主義共和国連邦、連邦共和国、および自治共和国の労働者農民政府を転覆、崩壊、または弱体化し、もしくはソビエト社会主義共和国連邦の対外的安全、およびプロレタリア革命の基本的な、経済的、政治的、ならびに民族的成果を崩壊または弱体化するすべての行為は、これを反革命とみなす」
この傍点部分によって、いかなる反体制的、反政府的活動をしても反革命になってしまうことがわかるだろう。いまの日本で日常茶飯事のごとく見られる、デモ、スト、あるいは反体制的言論活動など、もしやったらたちまち反革命である。

実際に“いまの日本(1976年)”から40年後の“いまの日本”では、デモをすると首相のお友達にテロ呼ばわりされる。

全三巻のうち、後の二巻のほうがスパイの暗躍やら惨いリンチ査問やら読んでいて胸の悪くなる事件は多いのだが、読んでいて一番“怖かった”のはこの一巻である。非合法時代の共産党史を研究しているはずが、いつの間にか現在の日本を研究しているような気持ちになってしまう。

だから怖い話は嫌いだ。