E.W.サイード「ペンと剣」

アレントを読んでるが、難しくてちっともページが進まない。だから息抜き(というにはこっちも重いが)も兼ねてサイードの『ペンと剣』を読了。

『知識人とは何か』ほどの知的興奮を与えてくれる本ではない。
ただ、訳者あとがきで中野真紀子さんも書いてらっしゃるように、〈格好のサイード入門書〉なのは間違いない。
彼の来歴や思想、人物像がとてもよく解るし、インタビュー形式なので読みやすい。

インタビューが行われた時期の関係で、93年のオスロ合意についての話題が多い。
PLO自体が変質して、パレスチナの市民達からも乖離していった末の合意(サイードの言葉を借りれば〈降伏〉)だったこと、合意以降のパレスチナ社会への展望など、個々の事象は絶望的なのにサイードは過度な悲観に陥らない。

これだけ透徹した目の持ち主ならば、絶望して厭世的になってもちっともおかしくないと思うのだが、そこがこの人の凄いところだ。

本書で特に刺さったのは、民族の解放運動が陥りがちな過ちについて、フランツ・ファノンを引いて語った言葉。

フランツ・ファノンの言葉を借りれば、「ネイションの落とし穴」です。ネイションの自覚が自己目的化し、エスニックな特性や人種的な特性の強調や、捏造によるところの大きい民族や国民の本質といったようなものの追求が、文明や文化や政党の目標になるときには、もはやそれは人間の共同体とは言えず、何か別のものになってしまうのです。

劣等感を拗らせて落とし穴に落ち、ひたすら自分達は凄いと根拠なく繰り返すだけのこの国は、人間の共同体ではない〈何か別のもの〉(当然ロクでもないもの)になってしまったのだった。

サイードは自身を〈楽観主義者〉と捉えていて、その意志の強靭さは本当に凄い。
たとえ市民から遊離したPLOが屈辱的な降伏を嬉々として受け入れても、絶望的な状況を直視しながら、尚且つ新しい道を模索するサイードがそこにはいる。

自分は筋金入りの悲観屋で厭世家なので、自分が納得出来るかたちに自分を保つには、日本を出ていくか自殺するしかないと思っている。実際に国を棄てられるほど金は無いし、手に職もないので、結局死ぬしかないのだが。いま自殺することは殺されることと同義だから踏みとどまってはいる。
(2~3年前の精神的にどん底だった時期よりも自殺は選択肢として現実味を帯びてきている。不思議なものね)

とにかく、バカどもの巻き添えでバカな国の土になるのは御免だ。

E.W.サイード「文化と抵抗」

サイードが亡くなる直前まで行なわれたデーヴィッド・バーサミアンによるインタビュー集。
『知識人とは何か』と一緒で、現在のこの国に突き刺さってくる言葉ばかり。

resistance

特に第6章「勝利の会合の場で」は面白い。イラク戦争突入前夜のアメリカと、今の日本の状況がまったく同じ。そんな状況下(自身の死期も迫っている)でも希望を見失っていないサイードは本当に強靭な人だ。

おっしゃるとおり、世界中いたるところでそうです。ほとんどの国で、ほぼ例外なく、国民の大多数の意志と、国民の代表者と目されている者たちのあいだにははなはだしい断絶があるということですね。わたしたちは、いわゆる議会民主制と呼びうる体制において、崩壊寸前のところにきているのではないかと思います。

書名を章題にしても良いぐらい、〈文化と抵抗〉について読まされる。権力と文化、戦争、議会民主制、民主主義、世論、メディア、デモ、ストリート、言語、大学、etc。〈文化〉についての話は〈健全な知性〉についての話でもある。
バーサミアンがミラン・クンデラの小説から、「権力に対する人間の闘いは、忘却に対する記憶の闘いである」という言葉を引き、サイードが応える。

記憶は、アイディンティティを維持するための強力な集団的装置です。それは公式の物語や文献をとおしてのみならず、非公式の記憶を通しても継承されうるのです。それは歴史による抹消の侵蝕を食い止める防波堤のひとつです。それは抵抗の手段です。(略)
話し言葉は、記憶の刻印を受けた大いなる銘板であり、記憶を呼び起こし記憶をしよう可能なものにする装置です。しかもそれは、過去を現在に、さらには未来に、もちこみ、記憶が消滅するのを、記憶の穴に落ち込むのを防いでくれるのです。

「パレスチナ人には、いつ自分たちの物語が消えてなくなるのかわからないという恐怖がある」とも語っている。だから語り続けているし、民族の物語が強度を持ち得るのだろう。

たかだか一年後の選挙のために、忘れまい忘れまいと必死になっている国民ってなんなんだろうと思う。
平和 “だった” んだな。

E.W.サイード「知識人とは何か」〈第四章〉〜〈第六章〉

第四章は〈知識人とアマチュア〉。
サイードによる知識人の定義に使用される“アマチュア”の意味について。

said

十九世紀における知識人の表象は、知識人の個性を強調する傾向にあった。(略)ところが、一般に知識人とかインテリと呼ばれる集団に属する男女(略)、いうなれば意見を求められ金を支払われる人びとの数が増えることで、独立した声としての個人という知識人のありかたがはたして維持できるかどうかが問われずにはいられなくなったのだ。
これは途方もなく重要な問いかけであり、現実主義と理想主義の双方をにらみあわせたかたちで考える必要がある。

この問いに対して、サイードは“どのような人間も、社会によって規制される”と述べる。だからといって妥協すべきではない、とも。
十九世紀の知識人像のように超然とした個人でいることも、求められていると予想される意見を述べるだけの専門家になることも避けなければならないという。
現実として付きまとう役職や専門家としての立場、それに付随する様々な圧力と、普遍的なものに依拠して思考する亡命者としての立場を両立させるときに、有効なのがアマチュアという立場なのだろう。

その蔓延ぶりにかかわらず、そうした圧力にゆさぶりをかけることはできる。そのようなゆさぶりをかけるもの、それをわたしはアマチュア主義(アマチュアリズム)と呼ぼう。アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。

第五章以降では、そういった圧力のなかの一つ、専門分化について特に詳しく述べられている。第五章のタイトルは〈権力に対して真実を語る〉。
サイードは第四章の最後で、〈知識人が権威と権力と関係を持つことはどうしても避けられない〉と述べるが、ならばそれらとどういう関係を保っていくべきなのか。

客観性を構成しているものに関するコンセンサスが消滅したのを嘆くことは正しいとしても、同じ理由から、自己充足的な主観性へと、ふらふらとずれこんでゆくようなことがあってはならない。また専門職とか国民性のなかに逃避することは、たんなる逃避にすぎない。(略)

私見によれば、知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げ込むことである。(略)

知識人にとって、このような思考習慣はきわめつけの堕落である。

当たり前のことだが、当たり前のことができていない自称知識人や自称メディアが多いことを再確認する。

すでに自分が属するものを優先するような姿勢をつらぬこうものなら、和解などとうてい望めない。「われわれの」文化の栄光についての、あるいは「われわれの」歴史の勝利についての鳴りもの入りの宣伝は、知識人が心血をそそぐような行為ではない。とりわけ、自国民を顕彰するような、このような還元化は、多くの社会が異なる人種や異なる民族的背景からなりたっている現代世界において、およそ実情にそぐわないというほかない。

いろいろな方々に突きつけてやりたい文章でもある。

第六章は〈いつも失敗する神々〉。ある思想を崇拝すること、そこから転向することへの批判。
崇拝は盲目的な行為であって、それだけで知識人云々以前の行為だと思う。しかも自分も陥ってそうな(簡単に陥りそうな)ところがまた怖い。

転向と変節には一種独特の不快な美学があること、また、個人的レヴェルで考えるとき、体制へのにじり寄りと背信行為とをおおやけにすることが知識人のなかに一種のナルシシズムと露出趣味をうみだすこと、そして、そのようなナルシシズムと露出趣味は、知識人が、みずから奉仕すべき集団とか社会過程といったものとの接触を失ったことのあかしであるということだ。

わたしはこう問いたい。あなたたちはなぜ、神が存在するなどと、まがりなりにも信じたのか、知識人であるくせに、と。またさらに、こうも問いたい。あなたたちが最初いだいていた信念とその後の幻滅を、これほどまでに重要なものと想像する権利を、いったい誰があなたたちにあたえたのか、と。

リチャード・クロスマンの『失敗した神』(『神は躓く』)は読んでないが、サイードの要約から、冷戦期の知識人の〈共産主義への傾斜→幻滅→反共産主義への回帰〉にまつわる懺悔録、と捉えておくことしかできない。
が、二つめの引用はカッコイイし、刺さる。思い上がるなよ、と。
訳者はあとがきで、〈すべての人間が知識人であるということではない〉と断りつつ、〈知識人論としても出色の本書は、同時に、読者そのものをも議論の対象としている。本書の読者もまた、知識人としての責務から逃れられない〉と書く。だから自分に引き寄せて考えることも完全に間違ってはいないと思いたい。だからこそ、刺さる。

最後にもうひとつ。

自分自身のためだけにとか、純粋な学問や抽象的な科学のためだけに書くと公言してはばからぬ知識人は、知識人として信頼されることはないし、そもそも信頼してはいけないのだ。(略)
自分の書いたものが社会のなかで活字になった瞬間、人は、政治的生活に参加したことになる。したがって、政治的になるのを好まないのなら、文章を書いたり、意見を述べたりしてはならないのである。

これは、知識人だけ、“政治的な”文章や意見だけに限らず、すべての表現に対して言えることだと思う。
政治的な発言はしたくないというミュージシャンやら、好きなタレントがそういう発言をしたのを聞いて幻滅した、みたいなグチをよくみる。
でもすべての表現は、〈政治的であること〉からは逃れられない。
政治性を表面に出していない作品でも、作者がそうした“意図”が必ずあるわけだし。“語らない”という意図そのものだって政治性を孕んでいると思う。

鑑賞する側も「どうしてこの表現を素敵だと思ったのか」と同じように、「なぜ直接的な表現は避けたのか」「どうして言及しないことを選んだのか」を自問して掘り下げるものだと思うんだけど、そうじゃない人も多い。

なんでも掘り下げる過程がいちばん愉しい。

E.W.サイード「知識人とは何か」〈第三章〉

『知識人とは何か』読了。第三章と第四章は特に面白かった。長くなりそうなのでとりあえず第三章だけ。

said

亡命など経験せず、一つの社会で一生暮らす知識人たちも、いうなればインサイダーとアウトサイダーにわけられる。いっぽうには現状の社会そのものにどっぷりと浸かり、そこで栄耀栄華な暮らしを送り、反抗とか異議申し立てだのという意識にとりつかれることもない人びと、いうなればイエスマン。もういっぽうにはノーマン、すなわち社会と角突きあわせ、それゆえ特権や名誉に関するかぎり、アウトサイダーとも亡命者ともいえる個人。知識人をアウトサイダーたらしめるパターンの最たるものは、亡命者の状態である。

あまりにも二項対立的に過ぎないかとも思うけど、その後に続く〈亡命者の状態〉についての記述が説得力に満ちていて、なんというかこうありたいと思わせてくれる。。

つまり、けっして完全に適応せず、その土地で生まれた人びとから成るうちとけた親密な世界の外側にとどまりつづけ、順応とか裕福な暮らしという虚飾に背をむけ、むしろ嫌悪するような生きかたである。

文学や映画の良さは、未知の認識とか不安へと読者(観客)を連れていって放り出すことにあると思う。
予定調和のカタルシスもあるが、自分はそういうわけのわからないもの、不安にさせてくれるものが好きだ。
絶えず揺さぶって欲しいし、多少の悪意も込めて、他人の認識も破壊したい。

↓ (参考: 安部公房の講演。文学の本質について)

また、亡命者はある対象を、〈あとに残してきたもの〉と〈現実にいまここにあるもの〉の二つの視点から眺めることができ、そこにパースペクティヴが生まれるという。
ある対象を把握するとき、複数の視点を持つのは大切だ。というか持たないと危ない。拠って立つはずの普遍性を見失ってしまう。そういう意味でも亡命者的な視点は重要だとサイードは言っている。

たとえほんとうに移民でなくとも、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる。おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである。

自己欺瞞的な読み方になっていないか自問してみる。でも、知識人にしても表現者にしても、響いてくる人には必ず亡命者的な資質があるという確信もある。少し前に書いた松本隆についてのツイートにも通じること。

とりあえず第三章で紹介されたアドルノの『ミニマ・モラリア』はすぐに買った。序文だけでも面倒臭い文章だが、面倒で嬉しくなる。
もうひとつ、アウトサイダーといえばコリン・ウィルソンだが、あれも難しくて途中で挫折した。正続持っているので、そのうち再チャレンジしてみるつもり。

E.W.サイード「知識人とは何か」〈第二章〉

サイード『知識人とは何か』第二章まで読了。
第一章〈知識人の表象〉ももちろん面白い。特に“大きな物語の終わり”の嘘やポストモダン以降の知識人の知的怠慢を糾弾するあたり。
ただ、第二章のほうが刺さってくることが多かったので、そのへんのことを。

said

そもそも書名こそ『知識人とは何か』だが、一部の知識人だけじゃなくて、市井の個人が普通に生活する上でも示唆に富む文章だ。
いつの時代も変わらない煽動の技術(安部公房の『内なる辺境』での言及に重なる)に対して、どういう態度を取るべきか、サイードは記している。
また、“いつの時代も変わらない”ことだからこそ、歴史に学んだかどうかが浮き彫りになる。

集団が信奉する公式見解をくりかえすだけなら、なんとたやすいことだろう。国民言語をただ使用すること(実際には、これ以外の選択肢はないのだが)だけでも、お手軽で出来あいの考えかたに引きずりこまれがちだし、また現在、多くの制度―ジャーナリズムや、大学の専門機関や、ご都合主義的な世論調査をふくむ―が垂れ流している「われわれ」と「彼ら」の対立をあおりたてる決まり文句や常套句メタファーの類に染まることにもなる。
この種のことすべてが、(略)「われわれ」のアイディンティティを、つねに包囲され危機的状態にあるものとして固定することにもつながる。(略)

とにかく迎合するまえに批判せよが、簡にして要を得た回答となる。

最後の一行が痺れる。
もちろんサイードも、“反対のための反対を肯定しているわけではない”と後段で記している。
でもこれだけ同調圧力が強い国なら、〈すべてのことに反対〉するぐらいの気持ちでいよう、と個人的には思う。
金子光晴「反対」みたいに。

E.W.サイード「知識人とは何か」〈はじめに〉

最近、E.W.サイード「知識人とは何か」を読み始めた。
〈はじめに〉だけで痺れまくっている。

said

わたしたちの文化的背景、わたしたちの用いる言語、わたしたちの国籍は、他者の現実から、わたしたちを保護してくれるだけに、ぬるま湯的な安心感にひたらせてくれるのだが、そのようなぬるま湯から脱するには、普遍性に依拠するというリスクを背負わなければならない。いいかえるとこれは、人間の行動を考える際、単一の規準となるものを模索し、それにあくまでも固執するということである。(略)

ウィルフレッド・オーウェンが述べたように、「もの書きたちは、あらゆる人びとを叱咤し、国家への忠誠を説いてまわる」。このような国家への忠誠の圧力、そこからどうしたら相対的に自律できるかを模索すること、これこそ、私見によれば、知識人の主たる責務である。
この責務を念頭において、わたし独自の知識人観がうまれた−知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。(略)

日本には知識人はほとんどいないことがよくわかる。

これは孤独な、むくわれない生きざまといえば、まさにそのとおりである。けれどもこれは、長いものには巻かれろ式に現状の悲惨を黙認することにくらべたら、いつも、はるかにまともな生き方なのである。

ここで思い出すのが、漱石の「私の個人主義」

個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから。

サイード、漱石と来て最後は渥美清が小林信彦に語った炸裂してる言葉。(「おかしな男 渥美清」より)

それと孤立だな。孤立してるのはつらいから、つい徒党や政治に走る。孤立してるのが大事なんだよ。

渥美さんは優れた芸人の条件として、“狂気”も同時に挙げている。
知識人も芸人も根は同じで、常に周縁にいる者であることが前提条件。
中心に取り込まれちゃったら、もうそこに批評とか芸、表現を期待することは出来ない。
だからそういう風にはなりたくないし、そんな連中は無視するんじゃなくて積極的に批判しないといけない、と思う。