ハンナ・アレント「ランダル・ジャレル」

『暗い時代の人々』の最後に収められているのが、ランダル・ジャレルに関する短い回想。
彼の本はすべて絶版になっている。自分は不勉強で名前すら知らなかった。


アレントとジャレルは、作家と訳者として付き合い始め、やがてそれは家族ぐるみの深いものになっていく。

絶望的な気分になる文章に満ちたこの本の中で、ジャレルに関するこの短い章は、思いやりに充ちていてとても暖かい気持ちにさせてくれる。

ヤスパースやベンヤミンを描くアレントに思いやりがないというわけではない。誰を論じるときでも、彼女が対象への尊敬や愛情を失うことはない。
でもアレントの聡明さは、対象と書き手の距離感を常に一定に保つ。その厳しさは本当に恐ろしいぐらいで、だから冷たい印象を受けることもなくはない。

ただジャレルに限っては距離感が違う。別人のような、とまではいかないが、懐かしい友人を思い出しているような、少し個人的な筆致だ。

最後にジャレルの詩の一節が引用される。それはとても寂しいもので、だから余計に、繊細に過ぎた友人へのアレントの追憶が胸に迫ってくる。

とにかくジャレルが読みたい。
なのに詩集も絶版…。図書館で探すしかないか。

ハンナ・アレント「ヴァルター・ベンヤミン」

ローザ・ルクセンブルク、ヤスパースやアイザック・ディネセンの章までは面白く読めたのだ。
ところがへルマン・ブロッホの章が自分には難しすぎて、何度読んでも頭に入ってこないどころか、2~3行で必ず寝てしまうようになる始末。
埒があかないので、ブロッホの章は飛ばして、他の本でいろいろ息抜きしてから「ヴァルター・ベンヤミン」を読むことにした。

ベンヤミンの作品は、例によって「複製技術の時代における芸術作品」とカフカ論しか読んでない。
それすらだいぶ前のことなので、ほとんど何も知らないようなもの。

ところが、ろくに作品を知らないせいもあって、アレントの描くベンヤミンがすごく人間臭く魅力的な人物に思えて、最後には妙な親近感まで覚えてしまった。
その最期まで含めて、いかにも暗い時代に生きた人ではあるのだが、カフカと同じくどこかダメ人間風情を漂わせている感じがする。

ごくわずかな収入を得る道はあるし、ごくわずかな収入で暮らす道もあるが、両方同時にやれる道はない。(『書簡集 第2巻)』

ただこれは、当時のドイツ系ユダヤ人社会の価値観、特に父と息子の相克を考えると特殊なものではないらしいので、こちらの身勝手な感情移入に過ぎない。

さすが「複製技術の時代における芸術作品」の作者だけあって、引用にこだわる彼の執筆方法は、シュルレアリスムやダダみたいだ。レディメイドだ。プリコラージュだ。

私の作品の中の引用文は、武力で攻撃してなまけ者の確信を奪う路傍の盗賊のようなものだ。

本論を読んでから「フランツ・カフカ」を読んでみると、確かに引用文が多い。
とはいえ今となっては珍しくない手法だし、シェイクスピアを引用して、ベンヤミンを〈真珠採り〉と形容するアレントもまたベンヤミンのようだ。
そして洞察力の偽造に馴れすぎた身として、ブッキッシュな文章に憧れる身として、次の一文に痺れた。

ベンヤミンは、この新しい「穿孔する」方法が結局は一種の「洞察力の強制」になるが、「……しかし、こうした強制に伴う洗練されない衒学者ぶりは、今日ほとんど普遍的な習慣になっている洞察力の偽造よりはましである」ことを承知していた。

彼の念願は引用文だけで作品を作ることだったらしい。その構想自体、20世紀芸術と大衆文化の行く末を暗示している。
それと、このブログのトップに固定しているエントリーにズバリ当て嵌まるので、少し嬉しかったのです。この会話に、いつかベンヤミンも参加してもらおうか…。

さて、知的興奮を誘う引用の引用による考察は置いといて、本論のもうひとつの個人的白眉は、ベンヤミンを「パサージュ論」に向かわせたパリの魅力を描いた一文。

他の都市では社会の最下層の人々に対してだけしぶしぶと認めていること-怠けてぶらぶらしたり、散歩したりすること-を、パリの街路は実際にすべての人に誘いかける。かくて、第二帝政以来、パリは生活の質や出世、あるいは特別な目標を追い求めたりする必要のない人々のパラダイス、したがってボヘミアンのパラダイスであった。それは、芸術家や作家だけではなく、そのまわりに集まるすべての人々のパラダイスであったが、それはかれらが政治的にも-家庭や国家も持たなかったがゆえに-あるいは社会的にも統合されえない人々だったからであろう。

また当てもなく彷徨いに行きたい。ベンヤミンが訪れてから1世紀近く経っても、異邦人にとってパリの魅力は変わらない。

とにかく迎合する前に批判せよが、簡にして要を得た回答となる。

公房「そこで国家は、かつて辺境の「異端」と闘い、国境線を守り抜いたように、こんどは内なる辺境(移動社会)の「異端」にむかって、正統擁護の闘いを開始しなければならなくなった。非国民…排外主義者…秩序破壊者…外国の手先…アカ…全学連…等々」

サイード「集団が信奉する公式見解をくりかえすだけなら、なんとたやすいことだろう」

散人「今の世を見るに、世人は飲食物を初めとして学術文芸に至るまで、各人個有の趣味と見解とを持っていることを認めない。十人十色の諺のあることは知っているらしいが、各自の趣味と見識とはその場合場合に臨んでは、忍んでこれを棄てべきものと思っているらしい」

夷斎「それにしても、ああ、益々御風流……いよいよ、きちがいじみて来た」

K「われわれの救いは死である。しかし〈この〉死ではない」

公房「絶望するのはまだ早い。都市の広場が暗ければ、国境の闇はさらに深いはずなのだ。越境者に必要なのは何も光ばかりとは限るまい」

アレント「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること…」

サイード「たとえほんとうに移民でなくとも、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる」

ブルトン「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ」

サイード「おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである」

苦沙弥「個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから」

安吾「だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである」

詩人「人のいやがるものこそ、僕の好物。とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ」

ツァラ「自由、自由。ぼくは菜食主義者ではないから、レシピを提供することはできない」

ママ「すべて楽しいことは、お腹にいいのですよ!」

ユダヤ的なるもの — ハンナ・アレントと安部公房

アレントから〈内的亡命〉つながりで、安部公房『内なる辺境』を(きちんと)再読。

frontier

“ユダヤ的なるもの”の正体をめぐる論考なので、もちろんアレントとは立ち位置が違うが、ノッてる時期の公房なので面白いのは当たり前。
誰も彼もがふんわり右傾化してて気持ち悪い現状を考えながら読むとまた面白い。
〈本物〉とか〈正統〉って概念がいかに胡散臭いものか。
はっきり意識してなくても、誰しも心の深い部分に正統信仰みたいなもんはあるから、〈江戸しぐさ〉なんてウソに喜んで騙されてしまうんだろう。だからって騙される人間に罪はないとは言わない。無知は罪。
さて、あんまり多く引用するのも良くないとは思いつつ…

ウェンタールとグダーマンの『煽動の技術』という本は、アメリカナイズされたファシストの横顔を、次のように巧みにスケッチして見せてくれる。(略)
—素朴で、平凡な、誠実な、羊のようなアメリカ人が、自分たちの公共問題を外来者、共産主義者、盗賊、亡命者、背教者、社会主義者、白蟻、売国奴によって牛耳られていることに、いったい何時になったら気づくのでありましょうか—

ともかく「正統」意識を強化し確認するために、有効な「異端」のイメージがあれば、それでじゅうぶんなのだ。スターリン主義者が愛用した、インターナショナリズムに対する、コスモポリタニズム式の、手のこんだ理論派好みのものから、戦争中日本で乱用された、非国民のたぐいの、単純素朴なものに至るまで、反ユダヤ主義に該当する呼称の変形は無数にある。

アレントが(平時においては)人間性の喪失につながるものとしていた〈内的亡命〉を、自作の中で積極的に展開した公房が、コロンビア大学から名誉博士号を授与された際に〈あなたは人間性という普遍的なものをお持ちだ〉と評されたのは面白い。
もちろん、アレントが言及しているのは迫害された者が極限の社会状況下で生存のために〈内的亡命〉を選択するか否かであって、公房は現実を作品を通して見つめる際の方法論として〈内的亡命〉を論じているから、お互いに中身は性質は違うし矛盾はしない。

それにしてもこのエッセイの結部はいつ読んでも痺れる。
「正統信仰」も「帰属意識」も「忠誠心」も一切合切バカにして生きていたい。

ハンナ・アレント「暗い時代の人間性」

darktimes

暗い時代が来る、というか5、6年前からとっくに暗い時代なのは間違いない。だからアレントを読んだ。

スラスラ読める文章ではないので、とりあえず『暗い時代の人々』の最初に収録されている「暗い時代の人間性」を精読。
強い知的興奮を起こしてくれる文章なので、たとえば〈内的亡命〉や〈人間性〉について安部公房の『内なる辺境』と結びつけて考えてみたくなったり、いろいろと考えが浮かんで頭の中がとっ散らかっている。

frontier

ブログも書くと長くなりそうで億劫だから手を着けないで逃げてたのだが、今日もまた腹立たしいことが行われているので、何度も反芻したい文章を抜粋しておく。

権力は人々が協同して行動するところにのみ生まれ、人々が個人として強靭になっていくところには生まれません。強靭さは権力に代るほどの偉力を持ちません。強靭さが権力に直面する場合はいつでも、強靭さが圧倒されることでしょう。

しかし、逃亡することと逃げながら抵抗するための本当の強靭さも、現実が無視されたり忘れられたりするところでは実現されえません。(略)
ある時点における世界の状態を支配している絶対的な「否定性」に個人が直面できない場合、それは実現されえないのです。

たとえば、耐えがたく愚かなナチスの密告者を単純に無視するということは確かに魅惑的なことでしょう。しかし、こうした誘惑に屈して、自分自身の精神の隠れ家に閉じこもることがいかに魅力的であるとしても、その結果は常に現実を見捨てることであるとともに人間性を喪失することでもありましょう。

「Strawberry Fields Forever」の歌詞を初めてじっくり読んだとき、“Living is easy with eyes closed”というラインが本当に好きになった。
でも目を瞑る場面を選ばないと、その態度は単なる責任の放棄になる。すなわち“人間性の喪失”。
だから現実から目を逸らさないように心がけたいし、〈恩送り〉を忘れないで生きていきたい、と思う。

とりあえず今日はここまで。嫌になってしまう。