夏目漱石「夢十夜」

頭が疲れて眠れない晩に、漱石や荷風の小品はとてもいい。

久しぶりに『夢十夜』を読んだが、小品と呼ぶには存在が大きすぎる。
それをいえば『硝子戸の中』も『永日小品』もそうなのだが。

たとえば「こんな夢を見た」という一節は、ただの書き出しでなくて発明みたいなものだ。それ自身一篇の詩のようなものだ。
そこに漱石の暗部が凝縮した密度の濃い文章が連なるのだから堪らない。

刀で書いたような文章だと思う。長編だと、たまに冗長になりがちで、それがまた漱石らしくて良いのだが、この十篇にそういうところは一切無い。

そういえば初出は新聞紙上だったんだよな。これを読んでからお仕事を始めるってどんな気分だったんだろう。
自分には無理だ。

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とにかく迎合する前に批判せよが、簡にして要を得た回答となる。

公房「そこで国家は、かつて辺境の「異端」と闘い、国境線を守り抜いたように、こんどは内なる辺境(移動社会)の「異端」にむかって、正統擁護の闘いを開始しなければならなくなった。非国民…排外主義者…秩序破壊者…外国の手先…アカ…全学連…等々」

サイード「集団が信奉する公式見解をくりかえすだけなら、なんとたやすいことだろう」

散人「今の世を見るに、世人は飲食物を初めとして学術文芸に至るまで、各人個有の趣味と見解とを持っていることを認めない。十人十色の諺のあることは知っているらしいが、各自の趣味と見識とはその場合場合に臨んでは、忍んでこれを棄てべきものと思っているらしい」

夷斎「それにしても、ああ、益々御風流……いよいよ、きちがいじみて来た」

K「われわれの救いは死である。しかし〈この〉死ではない」

公房「絶望するのはまだ早い。都市の広場が暗ければ、国境の闇はさらに深いはずなのだ。越境者に必要なのは何も光ばかりとは限るまい」

アレント「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること…」

サイード「たとえほんとうに移民でなくとも、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる」

ブルトン「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ」

サイード「おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである」

苦沙弥「個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから」

安吾「だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである」

詩人「人のいやがるものこそ、僕の好物。とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ」

ツァラ「自由、自由。ぼくは菜食主義者ではないから、レシピを提供することはできない」

ママ「すべて楽しいことは、お腹にいいのですよ!」

三四郎池

ちょっとした隙間の時間に東大へ。ずっと見たかったけどなかなか来る機会が無かった三四郎池へ。

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念願の。

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ちょうどお昼に行ったので、学生や先生がお弁当を食べてた。三四郎池でお昼を食べられるって…いいなぁ。

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すぐそばで新しい図書館を建てるとかで工事をしていたが、昼休み中は工事もストップして静かで、美禰子さんが現れてもおかしくない雰囲気はあった。

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構内をぶらぶら医学部のほうへ。ここはべつに漱石と関係ないや…と思って通り過ぎようとして、安部公房が医学部卒業だったのを思い出す。
慌てて写真を一枚。学祭が近いのかな。

E.W.サイード「知識人とは何か」〈はじめに〉

最近、E.W.サイード「知識人とは何か」を読み始めた。
〈はじめに〉だけで痺れまくっている。

said

わたしたちの文化的背景、わたしたちの用いる言語、わたしたちの国籍は、他者の現実から、わたしたちを保護してくれるだけに、ぬるま湯的な安心感にひたらせてくれるのだが、そのようなぬるま湯から脱するには、普遍性に依拠するというリスクを背負わなければならない。いいかえるとこれは、人間の行動を考える際、単一の規準となるものを模索し、それにあくまでも固執するということである。(略)

ウィルフレッド・オーウェンが述べたように、「もの書きたちは、あらゆる人びとを叱咤し、国家への忠誠を説いてまわる」。このような国家への忠誠の圧力、そこからどうしたら相対的に自律できるかを模索すること、これこそ、私見によれば、知識人の主たる責務である。
この責務を念頭において、わたし独自の知識人観がうまれた−知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。(略)

日本には知識人はほとんどいないことがよくわかる。

これは孤独な、むくわれない生きざまといえば、まさにそのとおりである。けれどもこれは、長いものには巻かれろ式に現状の悲惨を黙認することにくらべたら、いつも、はるかにまともな生き方なのである。

ここで思い出すのが、漱石の「私の個人主義」

個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから。

サイード、漱石と来て最後は渥美清が小林信彦に語った炸裂してる言葉。(「おかしな男 渥美清」より)

それと孤立だな。孤立してるのはつらいから、つい徒党や政治に走る。孤立してるのが大事なんだよ。

渥美さんは優れた芸人の条件として、“狂気”も同時に挙げている。
知識人も芸人も根は同じで、常に周縁にいる者であることが前提条件。
中心に取り込まれちゃったら、もうそこに批評とか芸、表現を期待することは出来ない。
だからそういう風にはなりたくないし、そんな連中は無視するんじゃなくて積極的に批判しないといけない、と思う。

大杉栄「大杉栄評論集」

立花隆の『日本共産党の研究』からの流れ(?)で、大杉栄の評論集を読む。
お前が勉強不足なだけと言われればそれまでだけど、虐殺されたこと以外ほとんど知られてない人っていうのも珍しい。
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表紙には〈大杉の炸裂する精神の動き〉なる言葉があるが、本当に炸裂している。〈アナーキスト〉という語感そのままの人間が、少なくとも文章だけ読むと立ち上がってくる。これはすごい。どれだけ生きにくかったことか。

ブライアン・ウィルソンは“I guess I just wasn’t made for these times”と歌った。
“僕はこの時代に合っていないのかもしれない”。邦題も的確に「駄目な僕」。
大杉も同じような思いに捉われるときがきっとあっただろうと思う。でもそこに「駄目な僕」なんて意識はなくて、「俺以外は全部駄目」という感覚が炸裂していたはずだ。

茶化してるように思われると困るのだが、この人のいかにも生き急いでいる文章は好きだ。
ただ、マルクス主義や社会主義特有の、あまりにも二元論的な論の進め方が多くて、多少辟易する。
〈美は乱調にあり〉で有名な『生の拡充』も、ダダに共鳴してるようで魅力的だが、根底にはやっぱり唯物史観があるので、乗り切れない部分はある。

いちばん惹かれたのは、『むだ花』という十三行の詩。

生は永久の闘いである。
自然との闘い、社会との闘い、他の生との闘い、
永久に解決のない闘いである。

闘え。
闘いは生の花である。
みのり多き生の花である。

自然力に屈服した生のあきらめ、
社会力に屈服した生のあきらめ、
かくして生の闘いを回避した
みのりなき生の花は咲いた。
宗教がそれだ。
芸術がそれだ。

むだ花の蜜をのみあさる虫けらの徒よ。

この炸裂する文章は、そのまま漱石の形容ではないか。
〈江藤淳が描くところの漱石像〉といったほうが正確かもしれない。彼の『夏目漱石』を十三行ですっかり代弁してしまったような詩だ。

大杉が言うところの〈みのりなき生の花〉である宗教(『門』)、芸術(『草枕』)に救いを求めるも叶わず、漱石は〈永久に解決のない闘い〉を強いられることになった。
〈むだ花の蜜〉で自分をごまかすことも出来ず、愚直に〈みのり多き生〉を生きた漱石が、やはり自己に忠実に生きただろう大杉と一瞬ダブる。

一瞬ダブりはする。『むだ花』の発表から一年後に漱石が行った講演、これまた最高な『私の個人主義』のなかで、漱石は自分が掲げる個人主義についてこんな風に述べる。

もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。
それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。

ここで漱石が述べる孤独は、大杉も知っている孤独だったと思う。
しかし漱石のほうが、大杉よりも遥かに個人主義者であり、アナーキストだったように思えるのだ。

それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理窟の立たない漫然としたものではないのです。
いったい何々主義という事は私のあまり好まないところで、人間がそう一つ主義に片づけられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここにはやむをえず、主義という文字の下にいろいろの事を申し上げます。ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気たはずはけっしてありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。

ふと、大杉に足りなかったのはユーモアの感覚じゃないかと思う。筆致からはユーモアも感じられはするが、ちょっと攻撃的に過ぎる嫌いがある。
あるいは二十歳近い年齢差や修善寺の大患が、漱石の思考を一段と深めたのか。
なんだか、パンクとゴッドファーザーみたいな趣。

江藤淳「夏目漱石」

先入観から読まずにいた本をようやく読む。漱石論としては古典か。

引き込まれたし面白かったのだが、著者の漱石門下生や先行研究への敵意が強すぎやしないかと感じるところもある。
ただ、漱石といえば則天去私の作家という論調を覆すことが目的の一つだったのだろうし、なにより自分は小宮豊隆をはじめとする漱石門下生による漱石論を読んでいないので、本書だけ読んでどうこう言うのも片手落ちかなとは思う。
でも自分が門下生達の文章を読む気にならないのは、いかにも文壇な閉鎖性と、故人を過度に美化してそうな雰囲気を感じるからなので、筆者の指摘にあまり抵抗も感じない。

個人的に漱石について一番不思議なのは、則天去私なんかじゃなく、あれだけの人間嫌いがどうしてあそこまでの生活力を持ち得たかということである。あんなに鋭敏な神経を持っていたら普通耐えられないと思う。発狂も自殺も“しなかった”のか“叶わなかった”のか知らないが、とにかく人間嫌いが真っ正面から人間に向かい合って生きた。どうやったらあんな闘い方が出来るのか、知りたい。

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夏目漱石「私の個人主義」

行き詰まったときは漱石の『私の個人主義』と『現代日本の開化』を読む。

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グローバリズムとか、キャリアとか、自己責任とか…新しいくせに手垢にまみれて形骸化した言葉は一つもない。

もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。
必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。
もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。

漱石先生はいつでも一緒に苦悩してくれる。
過程をすっ飛ばして答や即戦力を求める社会を笑おう。

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