夏目漱石「倫敦塔」

最低な為政者どものおかげで一層世の中がキナ臭くなり始め、ますます生きることから降りたくなっている。

日本を棄てて出ていくために必要な経済力も語学力もなく、それでいて日本の皆さんを軽蔑する心だけは人一倍強い。
こういうのをバカなルサンチマンというのだろう。長いものに巻かれるくらいなら、バカで全然構わないけど。
せめて自殺する勇気が欲しいね。


なにも持ち合わせていない自分は結局、現実逃避に走るしかない。
漱石の「倫敦塔」。
夷齋先生は漱石といえば真っ先に本作を思い出すという。
そんな事実を知った上での再読だからというのもあるが、現在と過去、現実と妄想を交錯させる漱石の筆力は凄い。
他作品と比べても衒学的な感じが強く、そこもまた堪らない。

岩波文庫版では漱石の〈低音部〉と強調されていて、確かに他作品にも通じる通奏低音だとは思うが、これは飛翔する漱石の想像力を愉しむ作品だろう。
留学を始めてすぐの経験を描いているから、孤独感や焦燥感もそれほど前面には出てきていない。むしろ留学当初の高揚感すら感じられなくもない。

あーあ。遠くへ行きたい。

「ムーミン谷の彗星」(旧装丁トーベ・ヤンソン全集版)

どんなに珍しいものでも、ずっと探し続けていればいつかは見つかるもので、やっと、旧装丁トーベ・ヤンソン全集版の『ムーミン谷の彗星』が手に入った。


しかも滅多に見ない帯付き。
アニメの放送に合わせて新装丁に移行したんだと思ってたが、違うのかもしれない。


この表紙が、二十数年前、小学校の図書室で自分の目を釘付けにしたのだ。
ムーミンたちは小さくしか描かれていない。真っ黄色でレトロで巨大な望遠鏡。そして科学者の影。
いま見てもワクワクする。
この絵に彩色して表紙に持ってきたデザイナーのセンスに脱帽。

安部公房「ノアの方舟」

これなんかは何回読んでもすっかり忘れてしまうので、いつ読んでも楽しく読める。
ドナルド・キーンの解説にあるように、あまり解釈だ分析だと身構えて読まない方が楽しめる小咄だと思う。
もちろん目を覚ましてくれるような先行研究があるならば、それはそれで読んでみたい。

精神の運動

「精神の運動」という語は思考停止を強いるのだ。

文庫版『夷斎筆談・夷斎俚言』の加藤弘一による解説は有用だ。
〈精神の運動〉という言葉に付き纏っていたもどかしさの理由を看破してくれる。

その言葉が夷斎先生一流の韜晦だということぐらいは想像がつく。
しかしそれが厳密に意味するところも掴めないまま、なんでも〈精神の運動〉で片付ける解説や批評の山に接することにどれだけ意味があるのか、という気持ちも一方には確かにあった。
心地の良い思考停止を強いられていたのだ。

で、加藤弘一によれば〈精神の運動〉は朱子学の夷斎先生流の変形らしい。
漢学を勉強するのも気が進まないが、この言葉に限らず石川淳を理解するには不可欠な領域でもあるので、体調がいいときに薄めの新書でも読んでみようかと思う。

安部公房「空中楼閣」

大好きなのだが、久しぶりに読んでもワケの解らない一品だ。
加えて国会図書館のHPで調べても先行研究が一件もない。一件もないってことは無いと思うんだけど、少なくとも雑誌論文は出てこない。空中楼閣みたいだ。

建設するものが空中楼閣だから、このビラを見て考えを巡らせた人はその途端に工員になってしまう。
読者も1ページ目から工員になってオルグされてしまう、そういう小説なのかと思ってると、隣のK君はじめ出会う人々の口から次々と全く違った空中楼閣像が語られていく。
書かれた時期から、資本主義への批判的な要素もあるが、それは他作品に比べて薄い。
そして唐突に幻想的なオチ。

常識的に考えて、冒頭のビラが何の比喩なのかを考えるのが解釈の妥当な道筋だろう。
ラストでビラを貼る男は軍服を着ている。戦中の軍部とブルジョア的なものが重ねられているのか。
なんとなく漠然としたイメージは掴めていると思う。でも補助線が欲しい。

石川淳「歌ふ明日のために」

「歌ふ明日のために」は、他の『夷斎俚言』所収のエッセイと比べても抜きん出て刺激的だ。読んだ者を突き動かすエネルギーに充ちている。

「君が代」とかいうどうしようもない国歌の欺瞞を暴き、それに代わる本物の〈歌〉が生まれる明日を語る。
もちろんそんな明日が当分来そうにないことは承知の上で、国歌や祖国観念が無かったところで別に不自由はないとも語った上で、それでもそんな運動が起こるなら与したいと語る。

しかし、与したいどころではなくそれを欲しているのは筆の熱でバレバレだ。でなければ『鷹』を書くはずがない。著者流の韜晦であって、本作は随筆形式による『鷹』の変奏だ。

こんな未開人の国に真っ当な国歌が現れる日はたぶん来ない。半世紀以上経った今も、状況は変わらないどころか悪化している。
自分も、祖国やら国歌やら、そんな胡散臭いものは無いほうがいいのだが、夷斎先生が言うように祖国観念が確立されないことには、〈祖国観念脱出のくわだて〉も始まらない。

それなら今この国を覆っている祖国観念めいたものはなんなのか。
おそらくそれは胡散臭いものの紛い物というどうしようもない代物で、そんな代物に自己同一化して生きている人間が少なからずいるという事実が、日本が愚民国家であることを端的に示している。

文庫版の解説でも触れられてるように、この国がまともな国になるチャンスは敗戦後、逆コースが始まる前の数年間だけだったのだろう。そしてそのチャンスが活かされることはなかった。
だからこそ『鷹』や『珊瑚』は、希望と共に苦味を纏っている。

マックス・エルンスト「百頭女」

相変わらず寝る前に文章を読む気力が出ないから、エルンストの『百頭女』は夢見を助けてくれる。

巻末の瀧口修造によるエッセイがまた素晴らしい。流石。短くて静謐。
小難しく大仰なわりに大したことは書いてない埴谷雄高(そこがいいのだが)とは対照的。

確かに怪しげな時の埃りを蹴散らして、あらぬ景色を照らし出しはしたけれど、なぜか音を立てなかったという気がしている。


惑乱、私の妹、百頭女。