石川淳「ニヒルと政治」

『夷齋俚言』に収められたエッセイは、破防法の施行前後の執筆ということもあって、政治を扱ったものが多い。
「孤独と抵抗」「芸術家の永遠の敵」「芸術家の人間条件」「歌ふ明日のために」「ニヒルと政治」「革命とは何か」がそれにあたる。
70年近く前に書かれたものなのに、どれもが現在の状況にそのまま当てはまる。
要は70年経っても変わらない日本人のバカさ加減に拠るのだが、読んでいて痛快なのもまた事実。

「ニヒルと政治」は2020年にピッタリのエッセイだ。

スポーツ政策の理想はどうもオリンピックにあるらしい。オリンピックの番があたると、ノーベル賞でももらったようにうれしがる傾向がある。たれがうれしがるのか。人民の名に於て、はなはだ平和的に、ファッショがうれしがる嫌疑があるね。精神の貧困をオリンピックで埋合せようという計算かも知れない。

べつにこれはわざわざ引用するまでもなく、少しでも頭蓋に脳味噌が入っている人なら解っていることだと思うが、夷齋先生の筆にかかると説得力が違うので引かせてもらった。

次の引用は少し長くなるが、政治とスポーツとバカ(ニヒリスト気取り)の関係性をこれ以上適切に表すことも難しいと思うので、若干の省略以外はそのまま引く。

和朝のスポーツ政策がねらっているのは(略)精神をモーローとさせるような雰囲気の蔓延だよ。スポーツへの熱狂という時間が人民の生活の中にワリツケられていて、人民はそこに生活することの代りに、生活を抛棄しなくてはならぬような奇妙な演出になっている。

おれの知らないことはどうだっていいんだというふてくされの見識をもって、歴史に対してぽかんと口をあけている。これではどうしても人生観上に於てニヒル観を取らざることをえまい。このニヒル観は当人みずから撰択したものではなくて、外部の価値の混乱をそっくり生理に吸収したものだね。外部といったところで、スポーツ興行の雰囲気と自分の十露盤玉の計算とそれだけさ。(略)
政治の側にとっては、これに号令をかけるために、この位置不定の通人群ほど始末のいいものはない。そうだろう、スポーツの切符と十露盤をあてがっておけば、ころころよろこんでいるお客様だからね。(略)
このとき、かれらを通人と呼ぶのは、どうも適切でないようだね。何というか。まあ奴隷と呼ぶのがぴったりする。(略)
政治の側では、これが大切なお客様なのだから、奴隷なんぞと失礼なことはいわない。そこは如才なく、民衆といいますね。(略)
そして、その民衆のニヒル観を健全思想と呼ぶ。

〈ニヒル観〉は、あくまでも〈スポーツ興行の雰囲気〉と、みみっちい生活上の〈十露盤玉の計算〉(別名〈屎レアリスム〉)だけに拠るものなので、〈イスムがとれて、ただのニヒルで間に合う〉。
この思想でも主義でもないもの、ただの雰囲気が、この国では〈健全思想〉と呼ばれる。
ただの雰囲気だから、健全思想は我が国伝統の同調圧力とすこぶる仲が良い。オリンピックに反対でもすると非国民扱いされる所以だ。

政治の側から健全呼ばわりされるくらいなら非国民でいたほうがよほどマトモなので、自分は健全な国民になろうとも思わないが、周りは健全な国民だらけで辟易する。
どれだけメディアや人付き合いを遮断していたところで、駅の広告を一切目に入れないことは不可能だし、世間話の類から完全に逃れることもできない。心の中で軽蔑しておくのが精一杯だ。
いや軽蔑するまでもない。どうでもいい。自分は心根の優しい人間だから、皆さんが観戦の最中に腹上死よろしく熱中症で死ねることを願っている。

さて、夷齋先生は破防法を念頭に置いて次のように書く。

じつにこの日のあるべきことを期して、政府はかねがね文明を破壊するために、角力の切符野球の切符なんぞというあめえものをくばって、民衆ニヒルの培養につとめて来たね。

そしてここが夷齋先生の夷齋先生たる所以なのだが、〈民衆ニヒル〉も〈奴隷のたまごではあっても、悪法との関係に於てはまだ完全な奴隷にはなっていない〉のだから、最後の最後、政府が民衆に弾を撃ち込む段になればニヒルが取れて民衆に戻る、と書いている。

あるいは破防法においてはそうだったのかもしれない。しかし、これは自分がひねくれ過ぎているせいかも知れないが、いまの日本を考えるなら、取れるのは〈ニヒル〉でなくて〈民衆〉のほうなんじゃないかと思う。
〈この日〉を、破防法ではなく、キチガイが近々手を着けそうな憲法改悪に置き換えてみれば、政府のニヒリスト培養はほとんど成功したように見える。
オリンピックの切符だけではない。いくらかマトモな人達でさえ、キチガイ就任以来7年間の学習性無力感に脅かされている。

笑うべし、ノーということばはもともと奴隷の最後の発言であった。最後の一人に至るまで、われわれがこのノーの意味を生活に於て実現したとき、それは歴史上の事件となる。

変形して再び訪れたマルスの季節に「ノー」を発し続けられる人間がどれだけいるのか、悲観的にならざるを得ない。

夏目漱石「倫敦塔」

最低な為政者どものおかげで一層世の中がキナ臭くなり始め、ますます生きることから降りたくなっている。

日本を棄てて出ていくために必要な経済力も語学力もなく、それでいて日本の皆さんを軽蔑する心だけは人一倍強い。
こういうのをバカなルサンチマンというのだろう。長いものに巻かれるくらいなら、バカで全然構わないけど。
せめて自殺する勇気が欲しいね。


なにも持ち合わせていない自分は結局、現実逃避に走るしかない。
漱石の「倫敦塔」。
夷齋先生は漱石といえば真っ先に本作を思い出すという。
そんな事実を知った上での再読だからというのもあるが、現在と過去、現実と妄想を交錯させる漱石の筆力は凄い。
他作品と比べても衒学的な感じが強く、そこもまた堪らない。

岩波文庫版では漱石の〈低音部〉と強調されていて、確かに他作品にも通じる通奏低音だとは思うが、これは飛翔する漱石の想像力を愉しむ作品だろう。
留学を始めてすぐの経験を描いているから、孤独感や焦燥感もそれほど前面には出てきていない。むしろ留学当初の高揚感すら感じられなくもない。

あーあ。遠くへ行きたい。

「ムーミン谷の彗星」(旧装丁トーベ・ヤンソン全集版)

どんなに珍しいものでも、ずっと探し続けていればいつかは見つかるもので、やっと、旧装丁トーベ・ヤンソン全集版の『ムーミン谷の彗星』が手に入った。


しかも滅多に見ない帯付き。
アニメの放送に合わせて新装丁に移行したんだと思ってたが、違うのかもしれない。


この表紙が、二十数年前、小学校の図書室で自分の目を釘付けにしたのだ。
ムーミンたちは小さくしか描かれていない。真っ黄色でレトロで巨大な望遠鏡。そして科学者の影。
いま見てもワクワクする。
この絵に彩色して表紙に持ってきたデザイナーのセンスに脱帽。

精神の運動

「精神の運動」という語は思考停止を強いるのだ。

文庫版『夷斎筆談・夷斎俚言』の加藤弘一による解説は有用だ。
〈精神の運動〉という言葉に付き纏っていたもどかしさの理由を看破してくれる。

その言葉が夷斎先生一流の韜晦だということぐらいは想像がつく。
しかしそれが厳密に意味するところも掴めないまま、なんでも〈精神の運動〉で片付ける解説や批評の山に接することにどれだけ意味があるのか、という気持ちも一方には確かにあった。
心地の良い思考停止を強いられていたのだ。

で、加藤弘一によれば〈精神の運動〉は朱子学の夷斎先生流の変形らしい。
漢学を勉強するのも気が進まないが、この言葉に限らず石川淳を理解するには不可欠な領域でもあるので、体調がいいときに薄めの新書でも読んでみようかと思う。

安部公房「空中楼閣」

大好きなのだが、久しぶりに読んでもワケの解らない一品だ。
加えて国会図書館のHPで調べても先行研究が一件もない。一件もないってことは無いと思うんだけど、少なくとも雑誌論文は出てこない。空中楼閣みたいだ。

建設するものが空中楼閣だから、このビラを見て考えを巡らせた人はその途端に工員になってしまう。
読者も1ページ目から工員になってオルグされてしまう、そういう小説なのかと思ってると、隣のK君はじめ出会う人々の口から次々と全く違った空中楼閣像が語られていく。
書かれた時期から、資本主義への批判的な要素もあるが、それは他作品に比べて薄い。
そして唐突に幻想的なオチ。

常識的に考えて、冒頭のビラが何の比喩なのかを考えるのが解釈の妥当な道筋だろう。
ラストでビラを貼る男は軍服を着ている。戦中の軍部とブルジョア的なものが重ねられているのか。
なんとなく漠然としたイメージは掴めていると思う。でも補助線が欲しい。

石川淳「歌ふ明日のために」

「歌ふ明日のために」は、他の『夷斎俚言』所収のエッセイと比べても抜きん出て刺激的だ。読んだ者を突き動かすエネルギーに充ちている。

「君が代」とかいうどうしようもない国歌の誕生と欺瞞を暴き、それに代わる本物の〈歌〉が生まれる明日を語る。
もちろんそんな明日が当分来そうにないことは承知の上で、国歌や祖国観念が無かったところで別に不自由はないとも語った上で、それでもそんな運動が起こるなら与したいと語る。

しかし、与したいどころではなくそれを欲しているのは筆の熱でバレバレだ。でなければ『鷹』を書くはずがない。著者流の韜晦であって、本作は随筆形式による『鷹』の変奏だ。

こんな未開人の国に真っ当な国歌が現れる日はたぶん来ない。半世紀以上経った今も、状況は変わらないどころか悪化している。
自分も、祖国やら国歌やら、そんな胡散臭いものは無いほうがいいのだが、夷斎先生が言うように祖国観念が確立されないことには、〈祖国観念脱出のくわだて〉も始まらない。

それなら今この国を覆っている祖国観念めいたものはなんなのか。
おそらくそれは胡散臭いものの紛い物というどうしようもない代物で、そんな代物に自己同一化して生きている人間が少なからずいるという事実が、日本が愚民国家であることを端的に示している。

文庫版の解説でも触れられてるように、この国がまともな国になるチャンスは敗戦後、逆コースが始まる前の数年間だけだったのだろう。そしてそのチャンスが活かされることはなかった。
だからこそ『鷹』や『珊瑚』は、希望と共に苦味を纏っている。

マックス・エルンスト「百頭女」

相変わらず寝る前に文章を読む気力が出ないから、エルンストの『百頭女』は夢見を助けてくれる。

巻末の瀧口修造によるエッセイがまた素晴らしい。流石。短くて静謐。
小難しく大仰なわりに大したことは書いてない埴谷雄高(そこがいいのだが)とは対照的。

確かに怪しげな時の埃りを蹴散らして、あらぬ景色を照らし出しはしたけれど、なぜか音を立てなかったという気がしている。


惑乱、私の妹、百頭女。

田中優子「江戸百夢 近世図像学の楽しみ」

心身ともにどん底の時期。理由は色々あるがどうでもいい。要はこんな国で生きていたくないってことだ。

こうなると映画も音楽も本も何も楽しめない。
それでもせめて夢ぐらいはいい夢をみたいから、寝る前に田中優子さんの『江戸百夢』を頑張って読んでいる。
1章につき図版1枚とエッセイが2ページ。だからなんとか読める。

著者の想像力の翼にしがみついて、近世の世界を小旅行する。
2ページ読み終える頃には頭が疲れきっているので、そのまま眠りに逃げる。

いつまでこんな気分が続くのか。マルスの歌が鳴り止む気配は一向に無い。
こんな野蛮人だらけの国に生まれたくなかった。

鈴木光司「バースデイ」

『ループ』の消化不良から手を出してしまった。


ちゃんと番外編を謳っているから腹も立たないけど、収録されてる三作はどれも蛇足だったなと。

「空に浮かぶ棺」は『らせん』のなかでも特に秀逸なイメージだった高野舞の死を題材にした一篇。
でもあれは彼女が死んでいく過程も貞子の誕生もはっきり描かなかったからこそ、想像力を掻き立ててくれたわけで、わざわざ種明かしをするような短篇を書かなくてもいいのにと思った。

「レモンハート」は本当にどうでもいい作品だった。特に感想もなし。

「ハッピー・バースデイ」は、本当のシリーズ完結編。(『エス』『タイド』を読んでないので違うかもしれないが)
礼子は好きなキャラクターではあるのだが(少し年上の未亡人の魅力)、本作を書いた意図がよく解らなかった。
グダグダではあっても『ループ』できちんと完結してるじゃん。

あとは好みの問題だろうが、作者が描く家族像がイマイチ鬱陶しくて好きになれない。
歳を取れば変わるのかもしれないが、何回も読む作品でもないと思う。

鈴木光司「ループ」

大学時代、大好きだった現代思想の授業で、先生が『リング』と『ループ』に触れた記憶がある。
ポストモダンを扱う授業だったが、はっきりとは前後の文脈を思い出せない。たぶんロラン・バルトの〈作者の死〉とか、そのへんに絡めた話だったはず。
(面白い授業だったなぁ。G先生、お元気ですか)

当時は『リング』と言われても映画版の貞子のイメージしかなかったので、先生がこんな小説の名前を挙げたのが意外だった。
「まぁ、メタの手法で書かれてんだろうな」ぐらいには思って、読もうとはしなかった。

というわけで、漠然とではあるものの一番大事なポイントについて知っちゃってたので、『リング』が仮想空間の出来事だと知っても驚きは感じられなかった。
(予備知識がなかったとしても、新鮮さを感じられたかといえば疑問だが)
ただ、それを抜きにしてもつまらなかった。

前二作にはあった、一気に読ませてくれる筆力が無い。
冗長だし、話の飛躍がイチイチ引っかかる。こうなるともうSFはダメだ。

三部作の完結編とはいっても独立した作品なのだから、『リング』『らせん』を読んでない人でも楽しめないとダメだと思うが、そうなっているかというと疑問。
かといってシリーズを読んできた人なら楽しめるかというと、これまた微妙。
『らせん』をフォローするために書いて失敗した、という感じ。

失敗した小説はその欠点ゆえに愛せる小説になったりするが、失敗した大衆文学はここまで無様なのかと思った。