田中優子「江戸の音」

『江戸の想像力』が精緻な論文集、『近世アジア漂流』が比較的軽めのエッセイ集だとしたら、『江戸の音』は語りを再構成した試論集。

あくまでも試論なので、著者の仮説が論証されていくわけではない。
江戸時代に限らず、日本人が持っている音への感性の特異さを、東アジアや西欧と比べていく。
問題提起やそこへのアプローチをめぐる思索が次々と出てきて、『近世アジア漂流』以上に田中さんの頭のなかを覗いている気分になる。

武満徹との対談にはかなりのページが割かれていて、すごく面白い。
三味線のサワリや無音の「間」を享受する日本人の感性を、両氏は〈雑音性〉〈ダイナミズム〉といった言葉で論じていく。
アンビエントはもちろんだが、いやでもイーノの作品群を連想する。
共通するのは近代西欧的な価値観から一歩はみ出したところにあるということ。
江戸人とイーノは近くにいる。

日本独特の方法や価値観があることを説きつつも、それを短絡的に〈日本的〉なものとして肯定する危険性も、両氏は指摘している。

田中 – たとえば私の本がブームになったり、中世ブーム、古代ブームというのがなぜあるかといえば、日本というのはこういう素晴らしい国なんだ、と外国に説明するためなんです。もちろん、外国から見た自分の国に自己満足する、ということもある。でも、私のやろうとしているのはその逆の仕事で、そんな説明は簡単にはできないんだということを言いたい。

武満 – それはたいへん嬉しいことで、僕もそう思っています。

この対談が行われたのが1987年。ナショナリズムへの危惧はその頃からあったんだと思うと、なんか複雑な気持ちになる。

そして、文中にたびたび現れる石川淳の存在の大きさ。
武満徹に、江戸時代の音曲について書けるのは〈日本ではたぶん石川淳ぐらいしかいないのではないか〉と言わしめる石川淳の博学ぶりは一体どれだけのものなのか。想像もつかない。

田中優子「近世アジア漂流」

『江戸の想像力』に続いて、田中優子さんの『近世アジア漂流』を読む。

雑誌掲載された短めの評論を集めたものなので、毎晩眠る前に読むのにぴったり。夜毎のアジア漂流を愉しめる。

とにかく筆者の分析力、想像力、それを定着させる文章力はすごい。
〈私にとって文章を書くことは、次のことを考えるために自分の中を通り過ぎつつあるものを描くこと〉とご本人も書いているように、思考が一箇所に停滞することがない。
アングルは次々に切り替わる。そのスピード感がすごく気持ちいい。
これも〈羅列の文体〉であり、〈俳諧化〉なのだろう。

筆者が次々と切り取っていく世界像を眺めていると、江戸時代について、日本について、アジアについて、近世について、つまるところは何にも知らないことを痛感する。
〈知る〉ということは、自分の帰属する社会とは異なる文化や価値観を受け入れることだ。
そこに偏見や妄想が介入することは避けなければならない。それは一見非の打ちどころもなく正しいことのように思われるが、筆者は次のように書く。

人間が異文化にエキゾティシズムをもたずに「客観的に」「全体的に」理解している、理解できると信じることは、あまりにも現実離れしているように思う。じっさい、歴史上起こっている出来事のほとんどは、様々な(じつに様々な)偏見 – オリエンタリズム、エキゾティシズム、人種偏見、階級的偏見、同情から敵視まで、贔屓から排除まで – の組み合わせの中で生起するように思えるのだ。それらを抱えこまなければ、歴史上の人間は見えてこないのではないか。

田中さんのダイナミックな視点の根本がここにある。
ネガティブな感情が生み出したものであっても、それもまた人間の世界認識の方法だと認めること。そのうえで、絶えず様々な(じつに様々な)視点に立ってみること、漂流すること。
〈歴史上の人間〉即ち今日を生きる自分達でもある。つまりこれは普遍的な視座であって、失ってはいけないことだ。サイードが言うように、異邦人でなくても、異邦人であろうと努力することはできる。

ところで、単行本が出版されたのは1990年。そのせいか、筆者も意識していないところで各章のタイトルにどことなく“その頃”の匂いがする。
「活劇わくわくの台湾」「近世日本のシノワズリ」「神話に満ちたシャム」…。
都市論とかアジアブームとか、どことなく日本が浮かれていた頃の匂い。
そういう意味で、内容とは関係のないところでも楽しめた。

田中優子「江戸の想像力」

〈江戸の想像力〉は、江戸時代に生きた人々の想像力であると同時に、縦横無尽に近世の世界を描く田中優子さんの想像力でもある。

馬鹿孤ならず、必ず隣有り。

第二章冒頭に引用された、平賀源内による大田南畝『寝惚先生文集』の序からの一文。
著者の視点も、絶えず〈隣〉を求めて、一箇所に留まることがない。
中心となるのは平賀源内だが、彼はあくまでも狂言回しに過ぎないと言ってもいい。
源内を入口にして、著者の分析は江戸時代の江戸から近世の世界へと駆け巡る。

様々な角度から照らし出される近世の人々とその世界像。
筆は対象との絶妙な距離感を保ちつつ、乾いた笑いを忘れない。これを戯作精神というのだろうか。

個人的には、本草学から狂歌、落語までを俳諧のネットワークを軸に語る第二章が突出して面白かった。
近代とは根本的に異なる、〈連〉が持つ完結を拒むシステム。
石川淳「江戸人の発想法について」と併せて読むべし。
そしてナイアガラのクレジットに名を連ねる珍奇な名前の数々は、天明狂歌人の狂名だったのだ。

文学研究(そんな狭い領域に押し込むのも間違いかもしれないが)の醍醐味を味わわせてくれる名著。
これ一冊では足りない。絶えず流動している著者の思考を追って、本書の〈隣〉を読みたくなる。
なんだか大学の図書館に行きたくなった。