石川淳「夷齋風雅」


帯にもある通り、亡くなる数年前に連載されていた最後の随想集。
そんな事情が多少の先入観を作ったのか、他の夷齋ものと比べても枯淡の趣がある。

〈趣〉なんぞと偉そうなことを言えるほど読めているとは思わないが、夷齋先生の和漢洋の学識のうち、和と漢が内容のほとんどを占めているので、どことなく脂が少ない感じはする。

内容が乏しいわけでは勿論ない。
ただ、ある程度の知識がないと、古典籍の引用と必要最小限の私註が淡々と並べられているような印象を受けて終わってしまうので、読み手を選ぶ本ではあると思う。

自分は引用された漢詩が読めなかったりで、完全に置いていかれた。
甘えちゃいけない。
夷齋先生はそんな奴は端から切り捨てて、「問題にしない」のだから、ついていきたければ相応の努力が必要なのは当然のことだ。

石川淳「普賢」

最初はとっつきにくさを覚えた〈饒舌体〉も、再読を繰り返すうちに気持ちよくなってきて、今では疲れたときに読みたい一篇になってしまった。
ロクに読んでもいないから解ったような口は利けないが、黄表紙とか洒落本を読めないなりに頑張って読んでいくとだんだん文章のリズムが見えてくる感覚、あの感覚に近い。

あまりにも言葉が言葉として自立して異物感を放ち始めるとそれはもう詩になってしまうが、かといってなんの歯応えもなくするすると胃の中に落ちていくような文章なぞ小説には求めていないわけで、HARIBOがもしヒモ状のグミを作ったらきっとこうなるだろう、絶妙な強度の文章をじっくり噛んで味わう散文の愉しみ、それを極北まで追い求めればおそらくこの小説に辿り着くに違いなく、その上このように文体は強い感染力を持つ。

夷齋先生の言葉を借りれば〈堕夫を起たしめる底の力〉に満ち満ちた作品なので、その一端がここに表れたのだろうか、何故ここまでポジティブなエネルギーを放つことが出来るのか、『普賢』こそ奇異に充ちた〈発明〉であった。

石川淳「夷齋座談」


夷齋先生の対談集。

作家同士、あるいは研究者を交えた対談を読むのは好きだ。
ものすごく深いことを言葉少なにキャッチボールしているのか、ただ酒席の内輪話をしているのか、活字になると言葉のニュアンスが変化するから、それを探りながら読むのがめんどくさくて愉しい。

安部公房、三島由紀夫、武田泰淳、花田清輝、中村真一郎、中野重治、大岡信、佐々木基一、ドナルド・キーン、吉岡幸次郎…
と、こんなメンツだから、話についていけるわけがない。
でもそれが愉しい。解らないなりに無理矢理頑張ってついていく。

宿題として残ったのは荻生徂徠と、天明狂歌、そしてアランの散文論。あと芥川と鏡花を再読すること。
とりあえず徂徠の入門に適当な本を探すところから。

石川淳「ニヒルと政治」

『夷齋俚言』に収められたエッセイは、破防法の施行前後の執筆ということもあって、政治を扱ったものが多い。
「孤独と抵抗」「芸術家の永遠の敵」「芸術家の人間条件」「歌ふ明日のために」「ニヒルと政治」「革命とは何か」がそれにあたる。
70年近く前に書かれたものなのに、どれもが現在の状況にそのまま当てはまる。
要は70年経っても変わらない日本人のバカさ加減に拠るのだが、読んでいて痛快なのもまた事実。

「ニヒルと政治」は2020年にピッタリのエッセイだ。

スポーツ政策の理想はどうもオリンピックにあるらしい。オリンピックの番があたると、ノーベル賞でももらったようにうれしがる傾向がある。たれがうれしがるのか。人民の名に於て、はなはだ平和的に、ファッショがうれしがる嫌疑があるね。精神の貧困をオリンピックで埋合せようという計算かも知れない。

べつにこれはわざわざ引用するまでもなく、少しでも頭蓋に脳味噌が入っている人なら解っていることだと思うが、夷齋先生の筆にかかると説得力が違うので引かせてもらった。

次の引用は少し長くなるが、政治とスポーツとバカ(ニヒリスト気取り)の関係性をこれ以上適切に表すことも難しいと思うので、若干の省略以外はそのまま引く。

和朝のスポーツ政策がねらっているのは(略)精神をモーローとさせるような雰囲気の蔓延だよ。スポーツへの熱狂という時間が人民の生活の中にワリツケられていて、人民はそこに生活することの代りに、生活を抛棄しなくてはならぬような奇妙な演出になっている。

おれの知らないことはどうだっていいんだというふてくされの見識をもって、歴史に対してぽかんと口をあけている。これではどうしても人生観上に於てニヒル観を取らざることをえまい。このニヒル観は当人みずから撰択したものではなくて、外部の価値の混乱をそっくり生理に吸収したものだね。外部といったところで、スポーツ興行の雰囲気と自分の十露盤玉の計算とそれだけさ。(略)
政治の側にとっては、これに号令をかけるために、この位置不定の通人群ほど始末のいいものはない。そうだろう、スポーツの切符と十露盤をあてがっておけば、ころころよろこんでいるお客様だからね。(略)
このとき、かれらを通人と呼ぶのは、どうも適切でないようだね。何というか。まあ奴隷と呼ぶのがぴったりする。(略)
政治の側では、これが大切なお客様なのだから、奴隷なんぞと失礼なことはいわない。そこは如才なく、民衆といいますね。(略)
そして、その民衆のニヒル観を健全思想と呼ぶ。

〈ニヒル観〉は、あくまでも〈スポーツ興行の雰囲気〉と、みみっちい生活上の〈十露盤玉の計算〉(別名〈屎レアリスム〉)だけに拠るものなので、〈イスムがとれて、ただのニヒルで間に合う〉。
この思想でも主義でもないもの、ただの雰囲気が、この国では〈健全思想〉と呼ばれる。
ただの雰囲気だから、健全思想は我が国伝統の同調圧力とすこぶる仲が良い。オリンピックに反対でもすると非国民扱いされる所以だ。

政治の側から健全呼ばわりされるくらいなら非国民でいたほうがよほどマトモなので、自分は健全な国民になろうとも思わないが、周りは健全な国民だらけで辟易する。
どれだけメディアや人付き合いを遮断していたところで、駅の広告を一切目に入れないことは不可能だし、世間話の類から完全に逃れることもできない。心の中で軽蔑しておくのが精一杯だ。
いや軽蔑するまでもない。どうでもいい。自分は心根の優しい人間だから、皆さんが観戦の最中に腹上死よろしく熱中症で死ねることを願っている。

さて、夷齋先生は破防法を念頭に置いて次のように書く。

じつにこの日のあるべきことを期して、政府はかねがね文明を破壊するために、角力の切符野球の切符なんぞというあめえものをくばって、民衆ニヒルの培養につとめて来たね。

そしてここが夷齋先生の夷齋先生たる所以なのだが、〈民衆ニヒル〉も〈奴隷のたまごではあっても、悪法との関係に於てはまだ完全な奴隷にはなっていない〉のだから、最後の最後、政府が民衆に弾を撃ち込む段になればニヒルが取れて民衆に戻る、と書いている。

あるいは破防法においてはそうだったのかもしれない。しかし、これは自分がひねくれ過ぎているせいかも知れないが、いまの日本を考えるなら、取れるのは〈ニヒル〉でなくて〈民衆〉のほうなんじゃないかと思う。
〈この日〉を、破防法ではなく、キチガイが近々手を着けそうな憲法改悪に置き換えてみれば、政府のニヒリスト培養はほとんど成功したように見える。
オリンピックの切符だけではない。いくらかマトモな人達でさえ、キチガイ就任以来7年間の学習性無力感に脅かされている。

笑うべし、ノーということばはもともと奴隷の最後の発言であった。最後の一人に至るまで、われわれがこのノーの意味を生活に於て実現したとき、それは歴史上の事件となる。

変形して再び訪れたマルスの季節に「ノー」を発し続けられる人間がどれだけいるのか、悲観的にならざるを得ない。

精神の運動

「精神の運動」という語は思考停止を強いるのだ。

文庫版『夷斎筆談・夷斎俚言』の加藤弘一による解説は有用だ。
〈精神の運動〉という言葉に付き纏っていたもどかしさの理由を看破してくれる。

その言葉が夷斎先生一流の韜晦だということぐらいは想像がつく。
しかしそれが厳密に意味するところも掴めないまま、なんでも〈精神の運動〉で片付ける解説や批評の山に接することにどれだけ意味があるのか、という気持ちも一方には確かにあった。
心地の良い思考停止を強いられていたのだ。

で、加藤弘一によれば〈精神の運動〉は朱子学の夷斎先生流の変形らしい。
漢学を勉強するのも気が進まないが、この言葉に限らず石川淳を理解するには不可欠な領域でもあるので、体調がいいときに薄めの新書でも読んでみようかと思う。

石川淳「歌ふ明日のために」

「歌ふ明日のために」は、他の『夷斎俚言』所収のエッセイと比べても抜きん出て刺激的だ。読んだ者を突き動かすエネルギーに充ちている。

「君が代」とかいうどうしようもない国歌の誕生と欺瞞を暴き、それに代わる本物の〈歌〉が生まれる明日を語る。
もちろんそんな明日が当分来そうにないことは承知の上で、国歌や祖国観念が無かったところで別に不自由はないとも語った上で、それでもそんな運動が起こるなら与したいと語る。

しかし、与したいどころではなくそれを欲しているのは筆の熱でバレバレだ。でなければ『鷹』を書くはずがない。著者流の韜晦であって、本作は随筆形式による『鷹』の変奏だ。

こんな未開人の国に真っ当な国歌が現れる日はたぶん来ない。半世紀以上経った今も、状況は変わらないどころか悪化している。
自分も、祖国やら国歌やら、そんな胡散臭いものは無いほうがいいのだが、夷斎先生が言うように祖国観念が確立されないことには、〈祖国観念脱出のくわだて〉も始まらない。

それなら今この国を覆っている祖国観念めいたものはなんなのか。
おそらくそれは胡散臭いものの紛い物というどうしようもない代物で、そんな代物に自己同一化して生きている人間が少なからずいるという事実が、日本が愚民国家であることを端的に示している。

文庫版の解説でも触れられてるように、この国がまともな国になるチャンスは敗戦後、逆コースが始まる前の数年間だけだったのだろう。そしてそのチャンスが活かされることはなかった。
だからこそ『鷹』や『珊瑚』は、希望と共に苦味を纏っている。

石川淳「虚構について」 – 雑感

疲れた。

たれでも承知してゐる通り、ある藝術作品がどんなによいかといふことを、それにふれたことのない他人にことばで傳へることはむつかしい。(略)
しかし、ありやうは、ある藝術作品から受けた感動を再現するとは、そんな傳達とか限界とかに氣をつかつて、該作品のまはりをうろうろすることではない。逆に、そんな程度の振幅にとどまる感動しかあたへないやうな作品ならば、そもそも大したしろものではなかつたといへる。

石川淳「虚構について」より。至言だ。

ブログのためにグチャグチャと言葉を捏ねくりまわしていると、あらためて作品の感想を言葉にするのは難しいと感じる。
簡単に言葉に出来ないからこそ、面白いし何回も鑑賞したくなるのであって、言葉にすればするほど作品の印象が全部ウソになっていくようで空しくなってきた。

だいたいブログなんて後で読み返すために書いてるようなもんなんだから、そもそも書く必要が無い。
鑑賞日と簡単な印象だけメモしとけば充分だ。
もう嘘を書くのはやめよう。

石川淳「文學大概」

『文学大概』は何度読んでも示唆に富んだ本だ。富むというか、示唆の塊みたいな本だ。
特に前半に収録された、「文章の形式と内容」、「短篇小説の構成」、「江戸人の発想法について」、「虚構について」はよく読み返す。

面白いが易しくはない。怠惰な書き手や読み手は端から切り捨てられている。
それがとても小気味良いし、石川淳がどのように文学作品に対峙していたかよく解る。

後半に収録された作家論も併せると、著者のとんでもない博識ぶりの一端が窺える。
窺えるというか、スタンダールやマラルメは読んだことすらないので著者の見解が正しいのかは判断できない。疑問を差し挟む余地を与えてくれない書きっぷりに圧倒されているだけだ。
ただ、本書を読んでしまうとマラルメや芭蕉を読む気は一切失せる。到底理解できる気がしない。

いつも思うのだが、この人はいったいどれだけの本を読んでいるんだろう。人間に与えられた時間なんて誰だって変わらないのに。

田中優子「江戸の音」

『江戸の想像力』が精緻な論文集、『近世アジア漂流』が比較的軽めのエッセイ集だとしたら、『江戸の音』は語りを再構成した試論集。

あくまでも試論なので、著者の仮説が論証されていくわけではない。
江戸時代に限らず、日本人が持っている音への感性の特異さを、東アジアや西欧と比べていく。
問題提起やそこへのアプローチをめぐる思索が次々と出てきて、『近世アジア漂流』以上に田中さんの頭のなかを覗いている気分になる。

武満徹との対談にはかなりのページが割かれていて、すごく面白い。
三味線のサワリや無音の「間」を享受する日本人の感性を、両氏は〈雑音性〉〈ダイナミズム〉といった言葉で論じていく。
アンビエントはもちろんだが、いやでもイーノの作品群を連想する。
共通するのは近代西欧的な価値観から一歩はみ出したところにあるということ。
江戸人とイーノは近くにいる。

日本独特の方法や価値観があることを説きつつも、それを短絡的に〈日本的〉なものとして肯定する危険性も、両氏は指摘している。

田中 – たとえば私の本がブームになったり、中世ブーム、古代ブームというのがなぜあるかといえば、日本というのはこういう素晴らしい国なんだ、と外国に説明するためなんです。もちろん、外国から見た自分の国に自己満足する、ということもある。でも、私のやろうとしているのはその逆の仕事で、そんな説明は簡単にはできないんだということを言いたい。

武満 – それはたいへん嬉しいことで、僕もそう思っています。

この対談が行われたのが1987年。ナショナリズムへの危惧はその頃からあったんだと思うと、なんか複雑な気持ちになる。

そして、文中にたびたび現れる石川淳の存在の大きさ。
武満徹に、江戸時代の音曲について書けるのは〈日本ではたぶん石川淳ぐらいしかいないのではないか〉と言わしめる石川淳の博学ぶりは一体どれだけのものなのか。想像もつかない。

石川淳「新釈雨月物語」

『雨月物語』は大学生の頃、溝口の『雨月物語』を観た後に読んだ。
そのときは映画への興味が先に立っていたので、「浅茅が宿」と「蛇性の婬」だけ読んだ。

で、秋成の原典をちゃんと読むこともなく今度は石川淳の『新釈雨月物語』。

「蛇性の淫」はなかなか怖いが、改めて読むと溝口の映画に活かされたのはほんの一部で、ほとんど別の話だ。
田中優子さんの本を読んだ後なのもあって、むしろ「白娘子永鎮雷峰塔」と比べてみたくなった。

特に面白かったのは、「白峯」「仏法僧」「夢応の鯉魚」あたりか。
三島が「夢応の鯉魚」を好きだったというのはなんか頷ける気がする。なぜだろう、全編を覆う淡水の生温さとか、捌かれて食われそうになるくだりが、『仮面の告白』の食人妄想や血の温度を連想するからだろうか。

著者は「秋成私論」で〈秋成の世界は日本独得の発明になっている〉と述べている。
仏教的な、来世の観念ではなく、〈次元からいうと実在の世界とほとんど相似のようなところに別天地〉を書いている、という。

これは実在の世界と未知の世界という二つの配置があって、同時のその双方に関係する、つまり論語にいう「両端をたたく」。端が二つあって、それを同時にたたかなければならない、そうしなければ世界像は完全につかめない。そういう世界観です。

ここが難しくて、自分は「白峯」でも「仏法僧」でも、亡霊たちがあの世から来たものとして読んでも違和感はない。
たぶん基になった中国白話や、先行する『今昔物語』『日本霊異記』と読み比べないと、その差は理解できないのだろう。

読み終えてみると、やっぱり解説にある通り原典と首っ引きで読むべきだったかなと思う。作者がどのように〈新釈〉を施したのかを知るにはそれが一番だろうし。
あともうひとつ、本作に関しては読みやすさを優先しないで旧仮名・旧漢字で読んだほうが良かったかもしれない。

角川文庫版は装丁やイラストも好みじゃない。ちくま文庫版を買ってそのうち『春雨物語』も含めて再読しよう。