宮内ふじ乃「物語る絵 トゥール〈アシュバーナム〉のモーセ五書」

大学時代好きだった授業のひとつが、宮内ふじ乃先生の装飾写本を読む授業。

確か黙示録の註解書がメインで、聖書に明るくなくても、独特の色彩や怖いような可愛いような絵を見ていく作業は楽しかった。

その頃を思い出したくて買った本。トゥールのモーセ五書を授業で扱ったかどうかは覚えてない(いちばん印象的だったのはベアトゥス写本)が、これはこれで魅力的な写本である。

絵の読解が面白いのはもちろん、まえがきとあとがきには先生の人柄が滲み出ていて懐かしくなった。

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田中優子「近世アジア漂流」

『江戸の想像力』に続いて、田中優子さんの『近世アジア漂流』を読む。

雑誌掲載された短めの評論を集めたものなので、毎晩眠る前に読むのにぴったり。夜毎のアジア漂流を愉しめる。

とにかく筆者の分析力、想像力、それを定着させる文章力はすごい。
〈私にとって文章を書くことは、次のことを考えるために自分の中を通り過ぎつつあるものを描くこと〉とご本人も書いているように、思考が一箇所に停滞することがない。
アングルは次々に切り替わる。そのスピード感がすごく気持ちいい。
これも〈羅列の文体〉であり、〈俳諧化〉なのだろう。

筆者が次々と切り取っていく世界像を眺めていると、江戸時代について、日本について、アジアについて、近世について、つまるところは何にも知らないことを痛感する。
〈知る〉ということは、自分の帰属する社会とは異なる文化や価値観を受け入れることだ。
そこに偏見や妄想が介入することは避けなければならない。それは一見非の打ちどころもなく正しいことのように思われるが、筆者は次のように書く。

人間が異文化にエキゾティシズムをもたずに「客観的に」「全体的に」理解している、理解できると信じることは、あまりにも現実離れしているように思う。じっさい、歴史上起こっている出来事のほとんどは、様々な(じつに様々な)偏見 – オリエンタリズム、エキゾティシズム、人種偏見、階級的偏見、同情から敵視まで、贔屓から排除まで – の組み合わせの中で生起するように思えるのだ。それらを抱えこまなければ、歴史上の人間は見えてこないのではないか。

田中さんのダイナミックな視点の根本がここにある。
ネガティブな感情が生み出したものであっても、それもまた人間の世界認識の方法だと認めること。そのうえで、絶えず様々な(じつに様々な)視点に立ってみること、漂流すること。
〈歴史上の人間〉即ち今日を生きる自分達でもある。つまりこれは普遍的な視座であって、失ってはいけないことだ。サイードが言うように、異邦人でなくても、異邦人であろうと努力することはできる。

ところで、単行本が出版されたのは1990年。そのせいか、筆者も意識していないところで各章のタイトルにどことなく“その頃”の匂いがする。
「活劇わくわくの台湾」「近世日本のシノワズリ」「神話に満ちたシャム」…。
都市論とかアジアブームとか、どことなく日本が浮かれていた頃の匂い。
そういう意味で、内容とは関係のないところでも楽しめた。

坂口恭平「God Is Paper」

坂口恭平の〈躁でも鬱でもとにかく何かを作る〉創造力が心底羨ましい。
ドローイングでも文章でも、なんでもいいから吐き出し続ける。彼だから可能なのかもしれないが、そう考えるのは甘えだとも思う。
ズタボロに疲れていても、5分あればスケッチなり散文なりは作れる。ズタボロに疲れているからこそ作れるものもある。


彼の画集を買った。いい値段だが迷ってはいけない。
彼の絵は好きだ。脳と手が直結してる感じがする。なによりも見てて愉しい。

さらに、彼の絵にシンパシーを感じるのは、たまに自分と似たような絵を描くからだ。
(こう書くとおこがましいのかもしれないが、無駄に卑下してもしょうがない)


上は画集から。で、下の絵は6年前に描いたもの。

ありがちな描画法と言われればそれまでだが、なんかこう、自分も描かなきゃと急き立てられてしまう。
焚き付けてくれるものはどんなものでもありがたい。
とりあえず手許にあるスケッチブックを早く使い切ろう。
神は紙。

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渡邊博士「Land: 人口の地」

映画や音楽ソフト、特にデジタル媒体なら、もうパッケージメディアで鑑賞することへの拘りはほとんど無くなった。
ただ本に関しては別で、絶対に紙にインクで印刷された本じゃないと嫌だ。
確かにスマホのkindleにも漱石全集と荷風全集が入ってはいるが、お守りとか精神安定剤みたいなもので、読みたいときは本棚から重たい全集を取り出す。

ただ困ったことに、kindleでしか読めない魅力的な本(こう呼ぶことにも抵抗がある)も少しはあることも確かだ。
特に画集や写真集なんかは、よほど著名な作家じゃないと出版するにしても部数が見込めないし、そのせいで余計に価格が上がることもあるはず。

その点kindleならば、作者が作品制作からDTPまで全部手がけてしまえばいいわけで、作品を世に問う機会が増えたことは長所として認めざるを得ないと思う。(自分もやってみたかったりする)

前置きはどうでもいい。初めてkindleでしか流通していない作品集を買った。

渡邊博士さんの写真集『Land: 人工の地』


Amazonから紹介文を引用する。

東京湾に隣接する広大な埋立地の変貌する風景を心象写真として撮影した写真集。
放置された無人の地が無機質な風景に移り変わっていくが生活感のない光景は開発前と変わることがない。

表紙の小さなサムネイルを見ても、おもいっきりツボなのは間違いないので即購入。

『迥眺風景』もそうだったが、自分に近い感性(というと怒られそう)を持った表現者を見つけたことへの興奮が先に立ってしまって、作品を言葉で説明するのが難しい。
作品としてもちろん素晴らしいし、出会えたことが嬉しいが、やりたいことを先にやられてしまったことへの羨望もある。

既視感があるのは、作品としてありきたりだから、というのではもちろん無く、自分も確かにこんな風景を”体験”し、”思い描いた”からだ。実際に見たかどうかは問題じゃない。
それは想像でも幻視でも構わない。もっと深い部分での”共鳴”だ。

冷静に語るのは無理。
ただやっぱりkindle版だけでは惜しいので、一冊の本として出版してほしい。作者の写真集には他にも面白そうなものがたくさんある。ちょっとずつ揃えたいが、本棚に並べていく悦びが無いのは淋しいなー。

とにかく写真展があれば絶対観に行こう。

「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」@東京ステーションギャラリー

本当に愉しかったアドルフ・ヴェルフリの企画展。


ポスターを観た瞬間に「なんだこれは!」でガツンとやられたが、当然ながら本物の作品はそれ以上。

マッジ・ギル以来の衝撃。
こんなに愉しくて、眺めているだけで描きたくなってくる絵を描いてくれるのは、自分のなかではギル、ピカソ、マティスぐらいのもの。

鉛筆で新聞用紙一面に描き込まれたヴェルフリだけの世界。とにかくその量。
質より量ではない。量の先に現れる質を伴った量。
楽しくてしょうがない、描くしかない、その執念の過剰さに、こちらも愉しく圧倒されるしかない。

描き始めてから死ぬまで、作風は一貫して変わらないが、途中から純粋な鉛筆画に雑誌や新聞からのコラージュが混じり始める。
これがまたモダニズムっぽいというか、構成主義っぽくてツボ。愉しいだけじゃなく滅茶苦茶カッコイイ。

ステーションギャラリーの空間が彼の作品に不思議とマッチしていて、それがまた良かった。
ここは作品が飾られているレンガの壁を眺めているだけでも愉しいから好き。
次の作品の人だかりがいなくなるのを待ちながら、目の前の壁をボーッと観ていると、レンガのテクスチャーが面白くて、壁を描きたくなってくるぐらい。

すべての絵に描かれている音符と五線譜(六線譜だったりする)のモチーフから、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を思い出したりした。
〈絵画は音楽や踊りに比べて純粋な遊戯とは距離がある〉、そんな感じのことをホイジンガは書いていた気がするが、ヴェルフリの絵を観たことはあったのだろうか。


居ても立ってもいられず、ショップで図録と色鉛筆を買ってしまった。
真っ暗な日常を吹き飛ばしてくれたヴェルフリに感謝。

内堀弘「ボン書店の幻 モダニズム出版社の光と影」

書名も著者の名前も昨日まで知らなかったのに、気づくと手許にあっていつの間にか読み終えているような本がたまにある。
自分のアンテナが異常なほど反応した本、読むべくして読んだ本だ。


内堀弘『ボン書店の幻 モダニズム出版社の光と影』。
本好きの間では説明不要の名著らしく、いままで知らなかったことを悔やんだ。

昭和十年前後のほんの一時期、モダニズム詩人たちの詩集を少数出版していたボン書店。経営していたのは自身も詩人である鳥羽茂。
同時代の詩壇、同人達の動きを参照しながら、曖昧だった鳥羽の輪郭を少しずつ明らかにしていく。

ボン書店が出版した詩集は、小さなモノクロ写真が載っているだけだが、それでも魅力は伝わってくる。
豆本のようなものから豪華な装丁のものまで。造ることが好きで仕方がない〈アマチュア〉のこだわりと愉しみが、こちらにも伝播してくる。

思いっきり話が飛ぶが、小さい頃『ドラえもん』の「週刊のび太」や「SF超大作ウラドラマン」を読んだときの感覚そっくりだ。
あのときも、じっとしていられずに、雑誌を作ったり8mm映画を作ったりした。ボン書店を知った今も、とりあえず何か造りたい衝動でいっぱいだ。
DIY精神を思いっきり刺激してくれる本だと思う。
まぁ、それは置いとくとして。

鳥羽の芸術家気質は、やがて経営の逼迫となって彼の生活にのし掛かるようになり、同時に病弱な体質にも苦しめられるようになる。

ほんの束の間、日本の詩史に姿を表した彼の姿があっけなく消えていく。
著者の筆致は、全編を通して決して冷たくはないが淡々としている。それでも、おなじく本や詩に憑かれた者として、鳥羽への共感が文章から滲み出している。

もちろん、特別な人生というものはない。どんな時代を過ごすかは選択できることではないし、その時代の内側では彼の決意や断念も特別な風景ではない。たまたま、そんな時代を彼は生きたのだ。彼の風景がどこまでも無名であるように彼の駆けた時間もまた無名である。
ボン書店を追いかけることは、刻まれたはずの無名な時間を追いかけていくことなのかもしれない。

そして文庫化にあたって加えられた〈少し長いあとがき〉では、本書が最初に出版されてから十数年の間に起こったいくつかの出来事が語られる。ここでの著者の筆致の微妙な変化。
この〈あとがき〉こそ、この本の白眉なんじゃないかと思う。

少しでも本が好きな人なら、たとえ詩やモダニズム芸術に興味が無くても、絶対に大切な一冊になるはずだ。

岡本太郎「自分の中に毒を持て」

寝付けない夜ふけにマケプレを彷徨っていたら、岡本太郎の本を何冊か買っていた。

『壁を破る言葉』と『強く生きる言葉』は格言集というか、1ページにひとつドカーンと太郎の言葉が載っている。
言葉自体はカッコイイのだが、それがどういう文脈で出た言葉なのか、出典はなにか、そのへんが判らないのが不満。
敏子さんの編集だから間違いはないだろうが、なんか相田みつをの本みたい。

もう一冊、『自分の中に毒を持て』は青春出版社とかいう版元からして既に暑苦しい。
でも副題で「あなたは“常識人間”を捨てられるか」と銘打ってるわりに、そこそこ常識的なことしか書かれていない。
孤独を恐れるな、瞬間瞬間に生きろ、ダメになったほうが面白いじゃないか、etc…。言われなくてもそうやって生きてるよ。
(そんな風にしか感じられないほど自分の感受性がダメになってしまったのかもしれないけど)

かと思えば年寄りならではの自慢まじりの昔話が始まったり。パリ時代に付き合った女性達の思い出話はひとりひとり妙に具体的だったり。タロー可愛い。

いかにも一昔前の有名人エッセイ本(旧版の表紙はモロ)で、一般向けの人生論ならまぁこうなるわな、って感じ。
ちょっと期待外れで予定調和な一冊でありました。やっぱり作品を見て打ちのめされるのが一番。

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